四月生まれのあなたへ
4月19日
春風に煽られて、ざあざあと雨音のような葉擦れの音がする。いつもなら生徒達や教師の声が聞こえる校内だが、休日の今日はうんと静かだ。
ヒトハは鏡舎の近くにある橋を下り、誰もいない魔法薬学室にやって来た。ここは広大な学園の中でも隅のほうにある教室で、温室と隣接しているせいか自然が多い場所だ。夏に向けて懸命に背を伸ばす雑草たちを横目に、扉に手をかける。今日一度も開かれていない魔法薬学室の空気は、独特な薬品の匂いと薬草の青臭さ、それから彼の匂いがするような気がした。
ヒトハは慣れた足取りで教室の中へ向かい、いつも座っている席を通り過ぎて一番奥の席の前で立ち止まる。生徒達が座る席を見守るように鎮座する大きな机。この机は仕事でも埃を落とす程度で、あまり触ることはない。長く使い込まれた机の木目を指でなぞりながら、ヒトハは椅子に腰を下ろした。座り慣れなくて落ち着かないが、いつも座っている生徒用の椅子よりは幾分か座り心地がいい。
ガラス張りの壁から入り込む春の陽光が背中をぽかぽかと温める。
気持ちのいい季節だ。春とはこうにも素晴らしい季節だったのかと、二十数年生きていながら今さら気がついた。
(先生の誕生日、冬かと思ってたんだけど)
片腕に抱いていた包みと筆記具を机に置き、ヒトハは頬杖をつきながら考えた。
こうも穏やかな季節が誕生日だなんて、何度考えても驚きだ。あの白い肌と深いアイシャドウ、きりりとしたアイラインを見ていれば、誰だって寒い季節を連想しそうなものだけれど。それからあのふわふわのコート。冬を愛していなければ辻褄が合わない。なんて理不尽なところまで考えが及んでしまい、慌ててかぶりを振る。ヒトハは薄い紙の包みから春色のバースデーカードを取り出して、それを丁寧に広げた。
今日は四月十九日。
ヒトハはバースデーカードの執筆と、明日贈るプレゼントについて考えるために魔法薬学室にやって来た。部屋で考えるよりも、ふたりの思い出がある場所へ行って考えたほうが、いいアイデアが思い浮かぶかもしれないと思ったからだ。
実験室、中庭、古びた階段を上った先にある秘密の場所──彼との思い出がある場所はいくらだって思いついたが、印象深いのは間違いなくここだった。ここでたくさんの話をした。好きなこと、楽しかったこと。嫌いなこと、悲しかったこと。ここへ来る理由の半分は仕事で、もう半分は彼に会うことだった。
ふと思い立って、ペンを持ち上げようとした手を机の上に広げ、ヒトハはそれをじっと見つめた。斑模様は最初よりも随分と薄くなったけれど、完璧には程遠い。
昨日エースたちと話したとき、自分は完璧になろうとしなくていいのだと気がついた。不器用でも一生懸命であればいい。デイヴィス・クルーウェルという人は、その努力の価値をよく知っている。
(そう考えると、春っぽいのかも)
厳しさの中にも、どこか温かさを感じる彼には芽吹の春が相応しいのかもしれない。夏に向けて背を伸ばす緑と、鮮やかな花々の咲き誇る季節。華やかで、そして優しい。
ヒトハはペンを持ち、まっさらなカードに向き直った。
そういえば、ここではよく不味い薬から逃れるためにペラペラと喋っていたけれど、彼はいつもこんな風に書き物をしながら、めんどくさそうに相槌を打ってくれていたっけ。
ふと笑みが溢れる。あれでいて、本当はよく聞いてくれているのだ。最初は気がつかなかったけれど。
「あ……」
ふと頭に浮かんだ答えに、ヒトハは小さく声を漏らした。ペンを置き、私服のポケットを弄ってカードを一枚取り出す。硬い上質な紙に品の良いロゴと、走り書きの文字。
ヒトハはもう片方の手でスマホを引っ張り出すと、親指で画面を叩いた。トトトと軽快な音を立てながらボタンを押し、相手の受話を待つ。
数コールの後に「お電話ありがとうございます」と弾んだ声を聞いて、ヒトハはにっこりとした。
「もしもし、アズールくん? お願いがあるのですが──」
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