四月生まれのあなたへ

4月18日

(やってしまったー……)

 チュンチュンと鳥が囀る爽やかな春の朝に、ヒトハはベッドの上で魂が抜けたように呆然としていた。枕の隣にはスマホがあって、昨日のやり取りが表示されている。

『わかった。10時ごろになるから、また連絡する。今日はもう休め』

 あの後、彼から返ってきたのは、たったそれだけのメッセージだった。

(絶対呆れられた)

 唸りながら、枕に顔をぎゅうと押し付ける。常識的に考えて、「夜遅くしか空いていない」の意味は「その日は無理」ではないのか。頭が回っていなかったにしても図々しい。

(でも、空けてもらえた)
 
 胸の奥にじんわりと熱が滲む。
 わがままを聞いてもらえたことが嬉しい。けれど同時に恥ずかしくて、くすぐったい。枕に向かって、思わず唸り声をあげてしまうくらいには。

「あのぉ……」

 足元から控えめな声が聞こえ、ヒトハは枕に頭の三分の一を埋めたまま、びくりと体を強張らせた。ゆっくりと上体を起こし、そろそろと体を捻る。
 両脇に立つ白いパーテーションの合間に、三人と一匹が何とも気まずい顔をして立っている。そのうちの一人、エースが静かに口を開いた。

「何してんの、ヒトハさん……」

「これ、クローバー先輩から預かってきました」

 デュースからバスケットを受け取って、ヒトハは中を覗き込んだ。彼らがトレイから預かってきたという見舞いの品は、瓶詰めされたフルーツゼリーだった。透明なガラス瓶に赤、緑、黄色の色鮮やかな果実が透けている。

「実験に巻き込んですみませんでした、って言ってました」
「あれはみんなのせいじゃないのに……」

 こうして保健室に運ばれることになったのは、元から抱えていた疲労のせいである。保健室の先生は仕事疲れと言っていたが、ヒトハには本当の理由がなんとなく分かっていた。

(知恵熱って、本当にあるんだな……)

 ここ数日の“考えすぎ”が、まさか体調不良に行き着くとは誰が思っただろうか。原因のひとつとして仕事疲れもあったにせよ、もしクルーウェルに知られたら、鼻で笑われるどころかドン引かれてしまうに違いない。

「つーかさ」

 ヒトハがひっそりと冷や汗を滲ませていると、デュースの後ろで様子を見ていたエースが突然口を尖らせた。

「結構騒ぎになってたから心配して来たけど、思ったより酷くなさそうじゃん」
「騒ぎ?」

 はて、と首を傾げる。確かにサイエンス部の中では騒ぎになっただろうが、エースはバスケ部だ。彼らの活動場所は体育館であり、実験室とは遠く離れている。トレイから聞かなければ知るはずもない事件だろう。
 しかしエースはもどかしそうに「いや、だから」と語気を強めた。

「クルーウェル先生が濡れながら廊下を走ってたら騒ぎたくなるってもんでしょ!」

 “クルーウェル先生が濡れながら廊下を走ってた”。
 ヒトハはエースの言葉を理解するのに、いくらか時間を要した。クルーウェル先生が濡れながら廊下を走って騒ぎになっていた──すなわち、実験室に帰って来た彼が自ら濡れる行動をとった、ということである。
 その光景を想像した瞬間、ヒトハの頭の中に昨日の出来事が蘇ってきた。
 よく知った香水の香り、腕の体温、コートの肌触り──熱がぶり返してきたのか、顔が熱い。

「あ、あれ、夢じゃなかった……!?」

 無駄にぱくぱくと口を開け閉めしながら声を絞り出すヒトハを見て、エースは慌てて言った。

「ま、まぁ、でも、おかげで早く保健室に来れたわけだし! この調子なら誕生日には治りそうで良かったじゃん!」
「たっ、誕生日!?」

 そうだ、誕生日。頭の中で乱雑にカレンダーを捲り今日の日付に指をさす。今日は四月十八日。半ば無理やり会う予定を取り付けたものの、あと二日しかない。
 急に「どうしよう、どうしよう」と焦り出したヒトハを見て、エースとデュースとオンボロ寮の監督生、グリムは互いに顔を見合わせる。エースは恐るおそる顔を真っ青にしているヒトハに問いかけた。

「もしかして、まだプレゼント悩んでる……?」
「…………」

 ヒトハは気まずく目を逸らした。逸らした先でグリムが大きな目を半分にしている。彼らに誕生日の存在を教えてもらってから既に何日も経っているのだ。何をしていたのかと問われても仕方がない。
 エースはその様子を見て、「はぁ〜」と盛大にため息をついた。彼はヒトハにビシッと人差し指を突きつけ、

「食堂のときも思ってたけど、ヒトハさんは先生のこと、ぜんっっっぜん分かってない!!」

 と大声で言うなりヒトハに向けていた指をスライドさせ、それを隣に立つデュースに向けた。

「デュースを見ろよ! 勉強からっきしで補習まみれだけど、先生に可愛がってもらってるじゃん!」
「おい」

 酷い言い様である。
 デュースの不満を無視して、彼はさらに続ける。

「完璧じゃなくたって、一生懸命ならいいんだって! むしろそっちのほうが先生には“ウケる”!」
「う、うけ……?」

 そうなのだろうか。ヒトハは愕然とした。そうなのかもしれない、と思った。
 彼は自他共に厳しい人だ。好みがはっきりとしていて、こだわりも強い。だから的外れなことをしては、がっかりされてしまうのではないかと──怖かったのだ。けれど、かくいう自分は今まで彼の思う“完璧”でいられただろうか。そんな瞬間は一度たりともなかったように思う。それでも彼はいつものすまし顔で、時に笑いながら、時に怒りながら、それを受け入れてくれていた。
 肩からすうっと力が抜けていく。頭の中でぐちゃぐちゃに絡まっていた糸が解けていくような気がした。
 そうだ。自分はいつだって自然なままで彼の傍にいたんだ。

「そう……そうですよね。ウケるかは分かりませんけど、でも、精一杯考えて選んだものを嫌がる人ではないですもんね」

 むしろ、そういう不器用なところを愛している人ではないだろうか。エースの言葉を聞いていると、そんな気がしてきた。彼の愛すべき駄犬たちがそう言っているのだから、きっとそうだ。
 ヒトハは居ても立っても居られず、まだ気怠い体に鞭打ってベッドから足を下ろした。ベッド下に揃えられた靴に急いで足を詰め込み、立ち上がる。

「私、誕生日の予定を空けてもらえるように、もう一度ちゃんとお願いしてきます! 昨日のお礼もしないと!」

 テキストで送ったやけくそのお願いじゃない。きちんと、心から伝えなければ。だって年に一度しかない誕生日。彼にとって特別な日なのだから。
 ヒトハが勢いよく保健室を出て行こうと片腕を振り上げたと同時に、三人が「ヒトハさん!」と叫んだ。そのうちのデュースが、ヒトハのもう片方の腕を慌てて捕まえる。

「先生、今日はいません!」
「え」
「シュッチョーとか言ってたんだゾ」
「ええ」

 グリムが両手を首の後ろに回して呆れている。そんなところに手が届くとは器用な猫である。
 シュッチョー、すなわち、出張。彼ら曰く、クルーウェルは今日、学園の外で仕事をしているらしい。

「本当は別の先生が行くはずだったけど、急病で急遽自分が行くことになったってホームルームで言ってました」
「え……」

 今日は四月十八日。ナイトレイブンカレッジは明日から二日間の休みに入る。そして誕生日である二十日は夜まで不在だと言っていた。出張先で休暇を過ごして帰って来るつもりなのだろうか。なんにせよ、当日の夜まで顔を合わせる機会はない。
 ヒトハはボスンとベッドに座り込んで、パタリと倒れた。

「そんなぁ~……」

 再び枕に顔をうずめたヒトハに、エースはぽんと肩を叩いて「まぁ、頑張って」とささやかな激励を贈ったのだった。

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