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清掃員さんとエタニティ・フロートの話
雲一つない晴れ晴れとした空に水しぶきが舞う。
ヒトハは突然に降ってきた水に驚いて「ひゃあ!」と悲鳴を上げた。片手に持ったホースの水が足元に落ちて、びちゃびちゃと革靴のつま先を濡らしている。
何事かと振り返ると、犯人──グリムは、魚の形をした水鉄砲を手に「にゃはは!」と楽しそうに飛び跳ねたのだった。
「くらえー!」
「えっ!? ちょ、ちょっと!」
奇襲が成功したのがよほど嬉しかったのか、グリムは続けざまに水を飛ばした。
訳が分からない。混乱している間にも水は頭も服もどんどん濡らすし、片手にホースを持っているせいで走って逃げることもできない。仕方なくヒトハは持っていたホースをグリムに向け、その口を親指でギュッと潰した。
「いい加減にしなさい!」
ブシッ! と潰れたホースの口から勢いよく水が噴出する。それは水鉄砲とは比べ物にならない水量で、彼のふさふさの胸をぺしゃんこにしてしまったのだった。
***
「〈エタニティ・フロート〉?」
ヒトハはスカートの裾を絞りながら、ぶるぶると体を震わせるグリムに問い返した
「初めて聞きました。結婚式の催しなんですね」
「ジェイドとリドルとルークと、それからツノ太郎と子分で行って来たんだゾ」
「それはまた……」
ツノ太郎、というのはオンボロ寮の監督生とグリムが使うマレウスの愛称である。セベクが聞いたら卒倒ものの不敬極まりない呼び名だが、当の本人はその呼び名をとても気に入っているらしい。
マレウスまで連れて行くとは、よほど著名な人物の結婚式だったのだろう。と思いきや、聞けばリーチ兄弟の母親の知人である人魚と人間の結婚式だったようだ。彼らは陽光の国にある群青の街で“新郎新婦が乗ったボートをあの手この手で転覆させる”という催しに参加してきたのだという。なんとも奇妙な催しである。最後まで転覆せずに耐える、ならまだ理解ができるが、転覆させられたほうが良いのだと言うから不思議だ。
このエタニティ・フロ-トは結局、ルーク、リドル、マレウス、ジェイドの四人で見事成功させることができたらしい。美味しい食べ物も堪能し、水鉄砲も買って楽しい思い出になったようだ。
グリムはヒトハに旅の思い出を得意気に話すと「あーあ」とわざとらしいため息を落とした。
「オレ様、また結婚式に行きたい……」
「あらあら、そんなにいい結婚式だったんですね」
そんなに素晴らしい式なら行ってみたかったな、と羨ましく思っていると、グリムはふるふると頭を振った。
「またご馳走を腹一杯食べたいんだゾ……」
「そっちでしたか」
異常なまでの食い意地を張るグリムをこれほど満足させたということは、たくさんの料理が提供されたのだろう。そのおかげで彼の頭の中には“結婚式に行けばご馳走が腹一杯食べられる”とインプットされてしまったわけである。
グリムは「誰か結婚しろー!」と無理難題を叫んだ。この学生だらけの学園で可能性があるのは教師か自分くらいのものだから、目の前で叫ばれると妙な居た堪れなさがある。
「ヒトハ! オマエも早く結婚しろ!」
「そんなことグリムくんに言われるとは思ってませんでしたよ……」
結婚は他人に言われてするものではないし、ましてグリムの欲望のためにするわけがない。
良い人と出会って、仲を深めて、一生一緒にいたいと思ったらするものだ。人生の中でもとても大事なイベントだし、軽々しくできるものではない。
「ん? どうして濡れているんだ、お前」
「あ、先生。ちょっと水遊びをしてて」
グリムの後ろを通りかかったクルーウェルはヒトハの姿を見て眉根を寄せ、それから足元のグリムを見て「お前もか」と呆れた。
「水遊びはいいが濡れたままでは風邪を引くぞ」
クルーウェルはグリムに向けて指揮棒を一振りした。風の魔法がグリムの足元から体を包み、萎んだ毛をふんわりとした毛に変える。続いてヒトハを呼び寄せると、彼は上から下まで視線を滑らせ、「まったく」と嘆いた。
「ずぶ濡れじゃないか。お前は水遊びをするな。みっともない」
「みっともないって……」
そこまで言わなくても。と、ヒトハは服を見下ろした。ひたひたになった服が体に張り付いていて気持ちが悪い。言われてみれば、確かにこれはみっともないかもしれない。
クルーウェルの魔法で髪と服を乾かしてもらっていると、グリムが「あ! わかったんだゾ!」と飛び跳ねた。
「クルーウェルと結婚したらいいんだ!」
「……は?」
訳も分からないまま結婚相手に名指しされたクルーウェルは「何の話だ」と眉をひそめる。ヒトハは慌てた。
「なっ、何言ってるんですか!?」
相手は“あの”クルーウェルである。下手にからかって強烈な返り討ちを食らった生徒は少なくはない。それにこの場合、彼の相手として指名されている自分にも飛び火する可能性がある。
しかしグリムは止まらない。名案だと言わんばかりに大きな目を弧にして、にっこりと笑った。
「結婚って“ずーっと一緒にいる”ってことだろ? それなら、ふたりともいつも一緒にいるし問題ないんだゾ!」
「問題大ありですよ!? 先生とは同じ職場にいるんだから、一緒にいることが多いに決まってるじゃないですか!」
そこまで反論して、ハッと気がつく。どことなく状況を察したクルーウェルが、いかにも迷惑そうな顔でこちらを見つめていた。くだらないことに俺を巻き込むなと端正な顔にでかでかと書かれている。
ヒトハは慌ててクルーウェルの腕を掴んで「それにほら!」とグリムに見せつけ、早口で続けた。
「先生はファッション大好きだし車大好きだし犬大好きだし、趣味のために生きているような人間ですよ!? パートナーがいなくても毎日充実しているんです! 結婚願望なんてあるわけがありません!」
「おい、俺を馬鹿にしているのか?」
クルーウェルは捕まれていた腕を奪い返すと、その腕をヒトハの肩に回した。
「いいかグリム、お前はこういう自分の世話も満足にできないようなやつと結婚するな。自分の人生を大切にしろ」
「でっ、できてますし! 私、先生より倹約家ですし! 堅実に家計を回しますし!」
「俺は浪費してもいいんだ。その分稼いでいるからな」
「イイ゛────ッ!!」
「自分で吹っ掛けて返り討ちにあってるんだゾ……」
喧嘩し始めたふたりの間で、グリムはハァ~と大きなため息をついた。
「いいアイデアだと思ったのに。あーあ、結婚式、誰か招待して欲しいんだゾ……」
しょんぼりと耳をぺちゃんこにして、ぽつりと呟く。名残惜しそうに水鉄砲を見下ろす姿に、ヒトハは言い返そうとした口を閉じた。
群青の街での結婚式は、グリムにとって本当に楽しい思い出になったのだろう。結婚式にまた参加したい──そう思うほどに。それもそうだ。グリムは群青の街で食べた料理のこともよく話してくれたが、みんなでエタニティ・フロートに参加したこともたくさん話してくれた。
「落ち込まないでください。もし私が結婚するときには、グリムくんにも招待状を出しますよ」
「なんだ、結婚式に参加したいという話だったのか? そんなに言うのなら、いつかそのときが来たら招待してやる。祝い事は盛大にやるに越したことはないからな」
ヒトハとクルーウェルが諭すと、グリムはしわしわにしょぼくれた顔を上げた。
「やっぱりオマエたち結婚……」
「「しない!!!!」」
「ムキになっててこえーんだゾ……」
しかしそれでグリムは納得したのか、「ご馳走をたくさん用意するんだゾ!」「カニのチャンなんとかを出せ!」とゲストらしからぬ注文を付けて走り去っていったのだった。
その後、グリムは授業が始まる前に子分とエース、デュースの間に挟まって「クルーウェルとヒトハが結婚式に呼んでくれるって言ってたんだゾ!」と胸を張り、先ほどのことを自慢した。その言葉足らずな自慢は、三人とその周囲の生徒たちに衝撃を与えることとなり、本人たちの知るよしもないまま、まことしやかな噂が広がっていったのだった。
さらにそれから数日後、スキップしながら職員室に訪れた学園長は、席で黙々と仕事をこなすクルーウェルの肩を叩いた。
「いやあ、めでたいですねぇ、クルーウェル先生! 式の日取り、いつに決まったんですか?」
「……はい?」
クルーウェルとヒトハがお互いを探して学園中を駆け回る、五分前のことだった。
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