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ナイトウォーク

 ワン!と短く吠える声がした。
 それは銀の粒が散りばめられた夜の空に、高く高く響いた。まるで誰かに呼びかけるような、訴えかけるような声だった。

 ヒトハは前に踏み出そうとした足を引き戻し、くるりと振り返る。

「先生、犬の声聞こえませんでした?」
「犬?」

 半歩後ろを歩いていたクルーウェルは突然歩くのをやめたヒトハに倣い、爪先を地面に押し留める。二人はナイトレイブンカレッジの夜空を見上げながら耳を澄ませ、ほとんど同時に小首を傾げた。

「気のせいじゃないか?」
「えー」

 確かに今「ワン!」と聞こえた気がしたのだけれど。ヒトハは「気のせい」と言って相手にしてくれない男にほんの少しの反抗心を抱いて、「聞こえたと思うんですけどね!」と投げやりに返した。
 この学園には牧場が存在するから、動物の鳴き声は特別珍しいものではない。それに学園をぐるりと覆う森もあるし、近くには海もある。生き物が多い環境であるのは間違いなく、鳥や小動物なんかはしょっちゅう見かけるものだ。
 でも犬の鳴き声がこんな夜に、しかもこんな場所で聞こえてくるのは珍しい。
 ヒトハは自分で反抗しておきながら、その発言にはあまり自信がなかった。

「気のせいなのかな……」

 ここはグレートセブン像の間を渡った先、正門のちょうど手前である。二人はその日の授業と仕事を終え、美味しい夕食を目当てに麓の街へ降りようとしていたところだった。こんな場所ではカラスの鳴き声はしても犬は鳴かない。
 ヒトハは諦めて、クルーウェルを見上げていた顔を正門に戻した。

「…………やっぱり気のせいじゃなかったかも」

 ヒトハは誰に言うわけでもなく呟いた。
 十数メートル先にある校門の前に、白くてふわふわした姿がぼんやりと浮かんでいる。
 二人の目の前には、一匹の犬がいた。

「犬っていうか……」

 ヒトハは膝あたりまでの大きさの犬の周りをぐるぐると回って観察した。
 真っ白な犬だ。目は青く、鼻先は細くて長い。ぱかんと開いた口から長い舌がぺろりと出ていて、短い呼吸をするたびに上下している。大きな耳は頭からだらりと垂れていた。尻尾は長いとも短いとも言えず、反り上がって左右に忙しなく揺れている。
 問題は脚である。この犬には脚の先がなかった。

「ゴースト……犬か?」

 クルーウェルはしゃがみ込み、犬と鼻先を突き合わせるほど近くで観察すると、そう結論づけた。もやもやした四つ脚と体毛があるかないかよく分からないくらいのツルツルの体、そしてほんのり冷たい。触ろうとしても空気を掻き切るように手がすり抜けてしまう。ナイトレイブンカレッジ名物のゴーストたちと同じだ。

「私、ゴースト犬って初めて見ました。この学園ではよく見るんですか?」
「いや……。俺も初めて見たな」

 クルーウェルは困惑気味に言いながらも片手を差し出し「お手」と命令した。犬は前足を持ち上げて彼の手に載せようとしたが、案の定すり抜けて地面に落ちてしまう。鼻の奥でピィーと情けない音を鳴らしながら、犬は耳をしょんぼりと下げてしまった。
 それでもクルーウェルは、『お手』に失敗した犬を「グッボーイ!」と嬉しそうに褒めたのだった。彼の仔犬どもがこの光景を見たならば、贔屓だとブーイングをするに違いない。

「誰かに飼われていた犬のようだな」
「野良犬なら『お手』なんて言っても分かりませんもんね」

 ヒトハはしゃがみ込んだクルーウェルの隣で片膝をつき、犬の顎を指先で撫でた。触れたところが煙のようにふわりと溶ける。空気を撫でているようでまるで触った気にはならない。けれど犬は心地よく目を細め、耳を頭の後ろに引っ込めたのだった。ゴーストの先輩によると触られている感覚はないみたいだから、生前にしてもらったことを思い出しているのかもしれない。

「それにしても何でこんなところにいきなりゴースト犬が……あ」

 犬は突然ヒトハの指先をすり抜けて踵を返すと、トコトコと──厳密には、宙を滑るように門へ向かった。そして高く黒い鉄格子をするりと抜けて、暗闇の中に溶けるように消えてしまったのだった。

「消えたな」
「消えちゃいましたね──うわ!?」

 と、思いきやパッと目の前に姿を現して、ヒトハは驚きのあまり後ろにころりと転がった。メインストリートの硬い石畳が肌に食い込み、尻餅をついた部分がじんと痛む。

「大丈夫か……?」
「え、ええ」

 クルーウェルの大きな手に縋り、ヒトハはよろけながら立ち上がった。悪戯なゴースト犬は相変わらず舌をぺろりと出したにっこり顔で、二人を見上げてワンと短くひと吠えする。

「何か言いたげですね」

 犬は門を出ては戻ってを何度か繰り返してはワンと鳴いた。どうやらナイトレイブンカレッジの敷地を出ると、その姿を保つことができないらしい。

「まさかお前、出たいのか?」

 クルーウェルが犬に問いかける。

「もしかして、ついて来てほしいとか?」

 立て続けにヒトハが問いかけると、犬は二人の問いに纏めてワン!と答えた。

「学園の外について来て欲しい!」

 ようやく理解できた気がして、ヒトハは手を叩いた。ぐるぐると学園を出ては入ってを繰り返しながらも自分たちの元から離れないということは、ついて来て欲しいということだ。その通りに犬を追いかければ、その先に行くかもしれない。

「そうは言っても見えなければついて行けないだろう」
「それもそうですけど、こういう時の魔法では? 先生、何かいい魔法ありませんか?」
「お前も魔法士だろうが……」

 クルーウェルの呆れた目を躱し、ヒトハはしゃがんで犬の頭を撫でた。実際は触れられないから、空気を撫でているだけだが。か細く鳴く犬と揃って縋るようにクルーウェルを見上げると、彼は眉間に皺を刻みながらも「そうだな……」と悩ましげに呟いたのだった。

「魔力の濃い地であれば誰にでも見えるようになるものだが、そもそもそれ自体が珍しいことだからな」

 ナイトレイブンカレッジではゴーストが見える。今や慣れきってしまったゴーストの存在だが、実際はそう簡単にお目にかかれるものではない。ヒトハだってこの学園に来るまでは見たこともなかった。魔力の濃い地だけで見られる特別な現象なのだ。

「あ、魔力で覆ってあげたらいいんじゃないですか?」
「お前はまたそんな力技で解決しようとして……大体、その魔力はどこから捻出する気だ?」
「先生」
「な……」

 クルーウェルは艶のある唇を噛んだり歪めたりしながら何かに必死に耐えていたが、結局は「はぁ」と深いため息を落としたのだった。

「せいぜい一、二時間かそこいらだろう。途中で消えて見失うかもしれないが、それでもいいか?」
「はーい」
「ワン!」

 揃って返事をする一人と一匹を見下ろして、クルーウェルは「オーケー」と言い「スタンドアップ!」と指示を出す。ヒトハと犬は迷うことなく立ち上がった。

「忠犬が板についてきたな」
「へへ」
「褒めてないからな……」

 次に彼は杖である指揮棒を手にして、立ち上がった犬に向けて一振りした。犬は魔法の銀の粉を纏い、ぴょんぴょんと円を描くように跳ね回る。脚は相変わらず先が煙のように溶けていたが、これでほんの少し輪郭がくっきりしたかもしれない。犬はそのまま駆けるように門に向かって行き、先ほどやってみせたように鉄格子をするりと通り抜けたのだった。
 ヒトハは鉄格子の先を見ようとして、目を凝らした。

「見えてる!」
「見えてるな」

 ゴースト犬の姿は学園の外でも白くぼんやりと浮かんで見える。どうやら魔法は成功したらしい。
 続けて二人は犬を追いかけ学園の外へ。門はすり抜けられないから、生者用の正規ルートだ。麓の街へ降りる坂道は少し先が見えないくらいには薄暗かったが、道案内のゴースト犬は淡く発光して二人を導いた。
 ヒトハは半歩後ろを歩くクルーウェルを仰ぎ見ながら、人差し指を遠くの空に向けた。

「では、夜の散歩に出発!」

 こうして月と星の綺麗な夜に、二人と一匹の夜の散歩が始まったのである。

 出発、と意気揚々と犬を追いかけるヒトハのほんの少し後ろを歩き、クルーウェルは夜風の心地よさに目を細めた。今日は気候もよく、雲一つない空に満月が浮かぶ美しい夜だ。目の前で尻尾を振りながら進むゴースト犬が現れなくとも、夜の散歩を楽しんだことだろう。
 そんな道案内付きの夜の散歩に誘われながら考える。
 この犬は一体何が目的なのだろう。
 ナイトレイブンカレッジには多くのゴーストがいる。彼らは調理や清掃と学園の運営に深く関わる仕事を持っていて、当然、生前は人である。この世に未練があって留まっている死者。その中に“犬”を見たことはない。この世に留まっているということは、何か未練のようなものがあるはずだが──

「あ、おい! 勝手に遠くまで行くな!」

 突然競うように駆け出した一人と一匹に向けて、クルーウェルは慌てて声を張った。犬が走っているのか滑っているのかよく分からない動きでぐんぐんと距離を離していくから、ヒトハは途中で走るのをやめて「ずるい!」と息も絶え絶えに叫ぶ。ゴースト犬と競争して勝てるとでも思ったのだろうか。生きている犬にすら勝つのは難しいのに。
 犬は遠くで脚を止めて、弾んだ声で吠えた。
 息を上げて背を丸めるヒトハの元に追いつき、クルーウェルは「お前な」と呆れた。

「いきなり走って俺を置いて行くとは一体どういう了見だ?」
「だってあの子が走り始めたから、なんだか走らなきゃいけない気分になっちゃって。先生もちょっと競争してみてくださいよ」

 ヒトハは遠くで二人を待つ犬に指を差した。犬は激しく左右に尾を振って、まだまだ遠くまで走れると主張している。

「断る。服が汚れる。髪が乱れる」

 走るなら相応の装いというものがあるものだ。この革靴はランニングには不適切だし、この毛皮コートに砂でも巻き込んだらと思うと気が乗らない。
 ヒトハはというと、乱れた前髪を指先で梳きながら「楽しいのに」と口を尖らせていた。上から下に指が下りるたび、四方八方に向いていた前髪が落ち着いていく。数本の束が取り残されていたのを人差し指で解いてやると、彼女は目を瞬き、照れ隠しに笑った。

「ふふ、ありがとうございます」

 仕事疲れの目に、華奢な背からちらちらと揺れる尾が見える。
 クルーウェルは遠くから自分たちを待つ犬と、目の前の清掃員を交互に見やり、険しく眉を顰めた。

(犬が二匹……)

 これは大変な夜の散歩になりそうだ。

 犬は二人より少し前に出て軽い足取りで夜道を進んだ。迷いはなく、真っ直ぐに向かうのは麓の街である。ナイトレイブンカレッジは賢者の島の中でも高所に位置するから、街へ向かう道は緩やかな下り坂だ。
 下の方に小さくあった街の灯りが眩しく感じ始めた頃合いに、ヒトハは歩きながら犬に向かって問いかけた。

「そういえば、あなたはどこから来たんですか?」
「慣れた道のようだから麓の街から来たと考えるのが妥当ではないだろうか」
「じゃあ、飼い主さんはどこにいるんですか?」
「わざわざ一匹で来たんだ。何らかの事情で“来れない”か“いない”と考えるべきでは?」
「……先生、私はこの子に聞いているんです」

 犬の代わりに答えるクルーウェルに対して、ヒトハは不服そうに口を尖らせる。
 そうは言っても人語を完璧に理解できる犬はいないし、なにより彼らは質問に答える術を持たない。丸い目をこちらに向けて首をしきりに傾げる犬は、声を聞いているだけで内容は理解できていないはずだ。しかし彼女は愛着が湧いてきたらしい犬に話しかけるだけで満足らしく、はなから答えなど期待していなかった。
 ヒトハは時々振り返りながらも前を進む犬を見て、ため息をつくように言った。

「たまに犬の散歩をしてる人が犬に話しかけてるのを見ますけど、初めて話しかけたくなる人の気持ちが分かった気がします」
「まぁ、共に過ごしてみなければなかなか分からないものだろうな」

 動物言語を習得すれば多少の意思の疎通は可能になるということはさておき、一般的には、人と動物では同じ言語で意思疎通を図ることはできない。それが分かっていても、つい話しかけたくなってしまう。愛らしく首を傾げる純粋無垢な姿に構いたくなってしまう。犬とはそういうものだ。

「私、犬派になっちゃいそう」
「それはいい。お前からトレイン先生に犬の魅力を語って差し上げろ」

 ヒトハは犬から目を離して「まだ喧嘩してるんですか……?」と苦々しくクルーウェルを見上げた。
 先日、猫派のトレインと犬猫の魅力を語り合い──もとい、激論している最中に鉢合わせたからだろう。ヒトハは「まだ」と言うが、この討論に終わりなどない。これは彼女が学園に来るずっと前から始まっていることだし、お互いに譲る気がないからだ。その点、クルーウェルはトレインに一目置いていた。絶対に猫派を曲げない信念は自分と通じるものがある。
 とはいえ、こちらも曲げる気はこれっぽっちもないが。
 賢く従順で躾甲斐のある動物。人の最良のパートナーは“犬”しかあり得ない。

「トレイン先生は頑固な方だが、お前が言って聞かせれば小指の先ほどは理解をしてくださるやもしれん」
「小指の先……? まるで労力に見合わないんですが……」

 ヒトハがぼやいた声は街の賑わいに飲まれ掻き消される。いつの間にか閑静な住宅地を越え、二人と一匹は麓の街の中心に入っていた。

 この賢者の島は決して広いわけではない。名門ナイトレイブンカレッジとほぼ同格のロイヤルソードアカデミーがあることから存在感のある場所ではあるが、その程度のものである。この島にあるのは、大きな学園が二つと、その間にある慎ましくも賑やかな麓の街。
 だから麓の街にさえ降りれば、島を囲う大海原を目の当たりにすることができる。
 島の縁をなぞるように広がる砂浜、その先の夜の海。今日の夜空は雲一つない満月で、街の灯りも相まって黒い水面にはちらちらと光が浮かんでいる。
 海風に煽られる髪を抑えながら、ヒトハとクルーウェルは犬を追いかけた。

「あいつ、どこまで行くつもりだ?」
「あ、お店で立ち止まりましたよ。お腹が空いているんでしょうか?」
「空腹? ゴーストが?」

 犬は海岸沿いに並ぶ飲食店の中から、レンガ造りの外観をした店の隅で壁に鼻を近づけていた。二人はすぐに追いつき、懸命に匂いを嗅いでいる犬を囲む。
 ヒトハにはこの光景に見覚えがあった。弛んだリードを手に、飼い主がぼうっとその姿を眺めているのをよく見かけるのだ。これは、もしかしなくとも“あれ”だ。ヒトハの予想通り、犬は前屈みの体を起こすと、片脚を上げて腹を壁に沿わせたのだった。
 クルーウェルも同じことを考えていたのか、「なんだ」と特に驚いた様子もなく言う。

「マーキングか」

 犬が自分の臭い付けをして縄張りを主張する行為だ。要は小便であるから、普通であれば他人の敷地にはしないように気を遣うものだが、目の前で縄張りを主張するゴースト犬には無用のものだった。ゴーストの体では、入るものもなければ出るものもない。
 ということは、と、ヒトハは犬の隣にしゃがみ込む。

「でも先生、ついてないですよ?」
「おい、やめろ。見るな」

 犬の腹は他の部位と同じく真っ白で、つるりと滑らかだった。
 クルーウェルは「なんてやつだ」とヒトハの行いを咎めて立ち上がらせると、雌もマーキングをすることがあるのだと言った。男の子か女の子か知りたかったのだが、これでは分かりようもない。

「ま、どっちだって可愛いことに変わりはありませんね」

 ヒトハが言うと、やはり犬は応えるように「ワン」とひとつ吠えたのだった。先ほどからちょうどいいタイミングで吠えるが、ひょっとして少しくらいは言葉を理解できているものなのだろうか。

「おや」

 カランカランと鐘が鳴る。
 塗装の欠けた扉から顔を出した男は、並んで立つヒトハとクルーウェルを見つけて、足元の犬に視線を移した。

「いいねぇ、お父さんとお母さんとお散歩かね」

 顔の高いところが真っ赤に染まった男は、酔っているのか、微睡のようなのんびりとした声で言った。下がった目尻にはたくさんの皺が寄っている。
 犬は男の問いに答える代わりに口角を上げ、尻尾を大きく振った。

「そうかぁ、よかったなぁ。……ありゃ? この子、脚がモヤモヤしてる?」
「ゴースト犬なんです」

 ヒトハが返すと、男は驚いたように「はぁ〜! ゴースト?」と聞き返した後、すぐに「あの学園から来たんだねぇ」と納得してしまった。
 どうやら麓の街ではナイトレイブンカレッジにゴーストがいるのは常識で、これといって驚くようなことではないらしい。男は相変わらずふにゃふにゃに酔ったまま「またね」と去って行く。
 千鳥足を危なっかしく見送って、ヒトハは隣に立つクルーウェルを見上げた。

「先生、ついにお父さんになっちゃいましたね」
「俺より先に死んでいるがな」
「ワン!」

 彼は吠える犬を見下ろし、眉を寄せて呆れた。

「バッドボーイ、お前は本当に無駄吠えが多いな」

 犬はまたひとつ吠え、能天気に尻尾を振っている。まるで言葉が通じていないし、この犬は問いかけられたら「ワン」と答えればいいと思っているらしい。
 二人はちょっと間抜けな犬の様子に顔を見合わせ、眉尻を下げながら笑った。

 街に漂う美味しい香りにうっかり引き寄せられそうになりながら、ヒトハはグウと鳴った腹をこっそりと押さえた。まさか彼に聞こえたんじゃなかろうか。ヒトハは頬を染めながら隣をちらりと盗み見た。小波の音が絶えず遠くから聞こえてくるから、きっとうまく紛れたはずだ──そう思ったのに、クルーウェルは「お前の胃袋は元気がいいな」と鼻で笑ったのだった。
 言わなくていいことをいちいち言わなくたっていいのに。
 ヒトハはムッとして結んだ唇を開きかけて、ふと足下にいた犬が消えていることに気がついた。

「あいつなら砂浜に走っていったぞ」
「え!?」

 さっと視線を海側に移す。道から砂浜に降りる階段の先に、ぼんやりと白い塊があった。それは元気よく砂浜を走り回ったかと思えば、一直線にこちらへ戻って来る。

「何か持って来ましたね」

 ヒトハは目を細めて暗がりの中をじっと見た。街の灯りが近いからある程度は目に見えるものの、やはり遠くとなると難しい。
 犬は何か長い物を咥えていた。尻尾を振りながらやって来て、それを二人に突き出す。

「木の棒か?」
「漂流物っぽいですね」

 クルーウェルは犬が持って来た棒を受け取り、目の前にかざした。腕の半分ほどの長さで、ヒトハの手では少し大きく感じるくらいには太さもあった。
 ゴーストは人体に触れることはできないが、どうしてか物には触れることはできる。それはナイトレイブンカレッジで働く多くのゴーストを見ても明らかだったが、こうしてゴースト犬が木の棒を拾って来ると、改めて奇妙なルールだなとヒトハは思うのだった。今は目に見えているからいいものの、見えていなかったら勝手に物が浮いていることになるのだ。そんな光景は学園外では見たことがない。もしかすると目に見えないゴーストたちには何か制約があるのかもしれないが、そんなことは生者のヒトハには分かり得ないことだった。
 犬はワンと吠えてヒトハの思考を断ち切ると、クルーウェルの手にある棒きれを期待の満ちた目で見上げた。

「先生。この子、もしかして遊んで欲しいんじゃないですか?」
「なるほど」

 クルーウェルは手にした棒を見ながらニヤリとした。犬と遊ぶ、といえば投げたものを持って来させるのが定番だ。それはボールであったりフリスビーであったりするのだが、この長い棒でも充分玩具になる。
 彼は少し屈んで犬に見せつけるように棒を掲げた。

「いいか、今からこの棒を投げるから拾って──おい、何をしている?」

 と、訝しく問うのを、ヒトハは「靴を脱いでます」と端的に返した。誰だって見れば分かることだ。
 ヒトハが仕事用の革靴を脱いで素足になろうとするのを見て、クルーウェルは眉を顰めた。

「犬と一緒に砂浜を走るの、一回やってみたかったんですよね」
「砂まみれになるぞ。それに素足で走って漂流物で怪我でもしたらどうする」
「ちょっとだけだから大丈夫ですよ。この制服だって汚れるためにあるようなものですし」
「はぁ……」

 怪我をしても知らないからな、とクルーウェルは呆れながら言って、大きく棒を振りかぶった。

「──取ってこい!」

 ぽーんと宙に放たれた棒は予想以上に高く飛び、ヒトハと犬は弾かれたように走り出した。人の体では柔らかい砂浜に足を埋もれさせてもたついてしまうが、犬は宙に浮いているからか、あっという間に遠くまで駆けて行く。

「ずるい!」

 と、ほんの少し前に口にした文句と同じことを叫びながら、ヒトハは白くてもやもやとした後姿を追いかけた。
 犬はすぐに棒の元に辿りついてしまい、ヒトハが追い付く頃には細い顎に咥えている。穏やかな波打ち際で転げた棒に海水を滴らせ、嬉しそうに跳ねるたびに滴が跳ねる。ヒトハは頬に冷たさを感じて、思わず声を上げて笑った。

「──あれ? どうしたの?」

 犬はたっぷりはしゃぎまわって満足したのか、今度は元来た方とは違う方角へ向かい始めた。これでは「取って来い」と命令したクルーウェルの言うことを無視してしまうことになる。

「待って」

 ヒトハは慌てて犬を追いかけた。犬は数メートル先へ行っては脚を止めて振り返り、ヒトハが追い付くのを待っている。まるで夜の散歩を始めた時のような、道に誘うかのような仕草だった。たとえ今日が満月であったとしても暗い夜の時間であることに違いはなく、ヒトハは「怪我をする」と苦く言った彼の言葉を思い出して慎重に進む。
 犬は砂浜と道路の境、大きな壁のある隅っこで鼻を地面に近づけたかと思うと、片脚を漕ぐような仕草をしていた。何かを必死に掘ろうとしているようにも見えるが、もやもやの脚では砂を掘ることはできない。

「ここ?」

 ヒトハは犬の隣に屈み、指を差した。何ともない小さな砂の集まりでしかないが、犬はワンと言って片脚を漕ぐ。

「ここ掘れわんわん、ってね」

 ヒトハは犬の言う通り、砂浜に指先を突っ込んだ。ここまで汚れては今更どうなったって同じだし、元々手袋をしているんだから後で外せばいいだけのことだ。吹っ切れてしまえば童心に帰ったかのようで、汚れも気にせず掘り進める。
 それをしばらく続けていると、ヒトハの指は硬い物にぶつかった。

「これ……」

 摘まんで引っ張り上げたものを目の前にかざす。犬は喜んで後ろ脚で立ち、ワンワンと跳ねたのだった。

「お前が持って帰ってどうする」

 ヒトハが片手に持って帰った棒を見て、クルーウェルは苦々しく言った。犬の口に棒はない。彼の放った命令を忘れて、いつの間にか砂浜に放り出していたのだ。でも一応持って帰るわけだし、命令無視ではないし、と拾って帰ってみたが、これでは不服だったようだ。彼は砂浜に降りる階段の上から、一人と一匹を呆れた目で見下ろしている。
 ヒトハは拾ってきた棒を砂浜に捨て、階段を上りながらもう片方に持っていた物を差し出した。

「これも見つけました」
「なんだ? ……ペンダント?」

 くすんではいるが銀であることは間違いない。長めのチェーンに大振りのペンダントトップが下がっている。
 クルーウェルは側に魔法で小さな明かりを灯して、その装飾をしげしげと観察した。

「なるほど、ロケットか」

 彼はすぐに察すると、いつもの赤い手袋を片手だけ外して小脇に挟んだ。受け取ったペンダントから何かを探り当てるように指を滑らせていると、突然ペンダントトップが二枚貝のようにパカリと開く。
 ヒトハはクルーウェルの手元を横から覗き込んだ。そこにあったのは色褪せた写真が一枚。若い女性が微笑んでいる。この人は随分と昔の人なのかもしれない。いつか祖母が見せてくれた若い頃の写真の雰囲気とよく似ているからだ。

「綺麗な人ですね」
「そうだな」

 彼はそれを親指でそっと閉じ、片手で握った。

「随分と古いが、なかなか高価そうなペンダントだ。また砂浜に捨てるというわけにもいかないし、あとで警察にでも届けたらいいだろう」
「そうですね」

 ヒトハはその提案に頷いて、近くに放ったままの靴を拾った。汚れるための制服などと言って遊びまわっておきながら、足に纏わりつく砂の感覚はやはり気持ちが悪い。階段に腰を下ろし、適当に手で足の砂を払っていると、クルーウェルはその姿を素早く見咎めた。

「そのまま靴を履こうとするんじゃない」

 彼は数段下りて腰を曲げ、突然ヒトハの片足を掬い上げた。あまりの唐突さに驚いて「ひゃん」と変な声が漏れる。彼の手が脹脛の裏を滑ると、どうにも居心地が悪くて逃げたくなってしまう。慌てて引き寄せようとする足を掴み、彼は「じっとしろ」と声を苛立たせた。

「く、くすぐったい……」
「耐えろ。砂まみれの足で歩き回るよりましだろう」

 クルーウェルは「怪我はないな?」と念押しするように聞き、杖を抜いた。ヒトハは言葉を失くしたまま、こくこくと頷く。ただ魔法で足の汚れを綺麗にしてやろうというだけなのに、どうしてこんなにドキドキしてしまうんだろう。
 気を紛らわそうと普段見ることのない頭頂部の白黒の分け目をぼうっと眺めていると、目の前にぬっと白い塊が割り込んだ。
 ずっと大人しくしていたゴースト犬は、じゃれつくように頭をヒトハの胸に摺り寄せる。

「グッボーイ、いい子ですね」

 ヒトハは柔らかく目を細めて、手を犬の頭の形に滑らせた。触ることも撫でることもできないけれど、犬は垂れた耳を後ろに下げて心地よく目を瞑る。

「私には分かりますよ」

 そのまま手を背中に滑らせ、ヒトハは優しく撫でながら言った。

「私には分かります。あなたは先生のコートに負けない毛並みで、温かくて、鼻はちょっと湿っていて、肉球はお日様の匂いがするんです。口は多分、ちょっと臭いですね」

 口から伸びたままの舌を見て苦笑する。
 このゴースト犬は触られている感覚もないし、人に触ることもできないけれど、あたかも触れられるかのように振舞う。人が撫でる感覚も、温かさも覚えていているのだ。きっとそれは仕草が身に付くほど、生きている間にたくさん愛情をもらったからだろう。

「あなたは人に愛されてきたんですね」

 ヒトハは最後に、犬の頭に頬を寄せた。ゴーストの身体は海風よりも冷たいけれど、ぺろりと舐めてくれたところだけは、温かいような気がした。

「そろそろ行くか」

 クルーウェルの静かな声に引き戻されて、ヒトハは頷いた。いつの間にか綺麗にしてくれていた足をもう一度靴に詰め込んで立ち上がる。砂まみれの手袋をポケットに突っ込んで、ヒトハはほんの少しの名残惜しさを抱きながら「行きましょう」と答えた。

 犬は海岸沿いから離れると、慣れた道を行くように迷いなく前へ前へと進んだ。街の入り組んだ道も難なく進み、その場所はヒトハよりずっと長く住んでいるはずのクルーウェルですらも「通ったことがない」と言うほどだった。
 レンガのアーチを潜り、シャッターの下りた店を横切り、広場のベンチでぽつぽつと身を寄せ合う恋人たちを通り過ぎ、街灯の下を進む。街の灯りの下では二人分の人影だけが並んで歩いていて、そこに犬の姿はなかった。

「ん? 街の中心から外れるな?」
「どこに行くつもりなんでしょう?」

 犬は次第に灯りが少なくなっていく道を進んでいた。このまま行けば再び住宅が増え、その先は人けがない場所となる。しかし二人は不思議に思いながらも、歩くのは止めなかった。今更止めるという選択肢はないし、なによりこの散歩の終着点を見届けなければ、この夜を終えることができない。
 ついに民家を越えてしまった二人と一匹は、最終的に木々の生い茂る場所へ到達したのだった。
 ヒトハは雑草を踏みしめながら「全然人がいないところに来ちゃいましたね」とクルーウェルに話しかけた。彼は服が汚れてしまうのを嫌ってか、いつの間にかコートを脇に抱えている。それでもスラックスと革靴は犠牲になるのだから、しわしわの眉間にも納得がいくというものだ。

「手入れはあまりされていないようだが、一応道はあるし、人が通らない場所というわけではなさそうだな」
「それにしてもちょっと不気味ですけど」

 ヒトハは杖先に灯した光を脇に向けた。木の幹が立ち並び、その先は暗くて何も見えない。人の声もしないし、不気味だ。
 ヒトハはこっそりとクルーウェルの方へ身を寄せた。すると彼はすぐに気が付いたのか、面白そうに鼻で笑う。今更恥ずかしがるのも癪だと更に数センチ詰めてやると、彼は今度は「そんなにか?」と驚いたのだった。
 そんな暗がりの中でも、犬は白くぼんやりと光って見えた。犬が進んでいるのは人の通る道らしく、逸れなければ歩きにくいということもない。
 こうしてしばらく進んだ先で、左右を圧迫していたような木々が突然取り払われた。急に広がった視界に目を瞬き、ヒトハは呟く。

「ここは……お墓?」

 月明かりの元で等間隔に並ぶ白い墓石。ところどころに木がぽつぽつと立つ程度の見晴らしの良い場所だった。
 並んでいるのはどれも同じような形の墓石だが、犬は迷うことなく進んだ。そしてひとつの墓の前でぐるぐると尻尾を追うように回って「ワン!」と元気良く吠える。

「もしかして、飼い主さんのお墓でしょうか?」

 ヒトハはその墓の前で屈み、杖の灯りを向けて掘られている名前を一文字ずつ読んだ。どうやらこれは男性の名前のようだ。
 クルーウェルも同じように名前を読むと、思い出したようにスラックスのポケットから何かを取り出す。開いた手のひらの上には、砂浜で見つけたペンダントがのっていた。

「お前、まさかこれを取りに行きたかったのか」

 犬は手元のペンダントを見ながら尻尾を大きく振るう。
 クルーウェルはもう一度ペンダントを開いた。右にある女性の写真と──左の小さく掘られた線を目を細めて見る。ヒトハも頭を突き合わせるようにして、それを覗き込んだ。
 先ほどは存在にも気づかなかったくらいの細い線だ。杖の灯りで照らしてやっと読めたのは、女性の名前だった。墓石の人物ではないようだが、ファミリーネームは墓に掘られたものと同じだ。

「奥さんでしょうか?」
「そうだろうな。隣は同じファミリーネームの女性……同じ名前だな」
「ではこれは飼い主さんの大切な物なんですね」

 男性の墓石の隣には風化した墓石が並んでいる。もしかすると、この女性は男性よりもずっと昔に亡くなっていたのかもしれない。大切に身に着けていたペンダントを犬と戯れるうちに失くしてしまったのだろう。このゴースト犬はそれをずっと探していて、誰かに拾ってここまで持って来て欲しかったのだ。

「グッボーイ、お前は飼い主想いの賢い犬だな」

 クルーウェルは犬の頭を両手で撫でくり回し、最大級の褒め言葉を口にした。犬は手のひらに頭を擦りつけるようにして撫でられながら尻尾を振る。お互いに触れることはできないはずなのに、それはまるで本当に触れ合っているかのような光景だった。

「これは持ち主に返してやらなければな」

 クルーウェルは存分に犬を褒めると、手に握ったペンダントを男性の墓石の前に丁寧に下ろした。
 これでやっと、このゴースト犬の目的は達成されたのだ。もう飼い主のいないこの世に未練はなく、あとは本来いるべき場所に行くだけ。
 犬はワンワンと元気に吠えながら二人の周りをぐるぐると駆け回り、最後に男性の墓石の前で腰を下ろした。白い体の先にうっすらと墓石が透けて見える。もうそろそろ魔法は解ける時間で、この夜の散歩もおしまいだ。

「先生の魔法、間に合いましたね」

 頭を撫でてやろうと伸ばした手も、もう消えかかった犬をちゃんと撫でられているのか分からない。寂しく引っ込めた手を胸の前で握りしめ、ヒトハは小さく鼻を啜った。

「なんだ、泣いているのか?」
「……ちょっとだけ」

 喉が詰まったような震える声だ。胸が痛い。目の奥が熱くて、どうしようもなく涙が滲んでしまう。分かっていた別れを前にすると、どうしても寂しさと名残惜しさが込み上げてくるのだ。
 ぐずぐずと鼻を啜るヒトハの頭を、クルーウェルは横からそっと引き寄せた。

「それだけ悲しいということは、その分愛情をかけてやったということだろう。誇るべきことだ」

 あやすようにゆっくりと頭を撫でる手でやっと落ち着きを取り戻し、ヒトハは大きく息を吸って吐いた。消えかかってはいるけれど犬は目の前にいるし、この子を不安にさせてはいけない。それにお別れはきちんとしなければ、きっと後悔してしまう。
 ヒトハは気持ちを立て直そうと、クルーウェルの肩に寄りかかっていた頭を起こした。すると彼は「大体、今生の別れでもないしな」と、今更あっけらかんと言ってのけたのだった。

「今生の、別れじゃない……?」
「お前はナイトレイブンカレッジの一大イベントを忘れたのか?」
「……ハッピービ」
「違う」

 彼はいつもの苛立った顔をすると、じれったそうに言った。

「ハロウィーンはあの世のゴーストがこの世に帰って来る日だろう?」
「あ! ハロウィーンウィーク!」
「そう、それだ。誰だビーンズデーを一大イベントにしようとした奴は」

 あれは生徒が暴れまわるイベントだろうが、と言われて肩を竦める。それはそれでナイトレイブンカレッジらしい一大イベントでもあると思うのだが。
 でも、確かにそうだ。ハロウィーンでは死者たちがあの世から帰って来るし、ナイトレイブンカレッジでは彼らの姿が見える。

「ゴーストが見える学園にいる限りまた会える。そうだな?」

 クルーウェルは目の前でお利口にお座りをしている犬に問い掛けた。ほとんど消えかかった姿でも「ワン!」と答える声だけはよく響きわたる。彼の言葉を理解できたかどうかは定かではないが、ヒトハにはなんとなく、またハロウィーンの時期に会いに来てくれるような気がした。

「いい返事だ。今度は自慢の飼い主も連れて来てくれることだろう」
「そうですね。また会えますよね」

 ヒトハはもう犬の姿のない墓石に向き合って、今晩の別れを告げた。

「ではまた今度、ハロウィーンに会いましょう」

 犬は最後に大きく元気に吠えた。これは再会の約束だ。
 もしかすると本当は言葉を理解できていたのかもしれない。それくらいはっきりとした、気持ちの良い声だった。
 その声が遠くまで響いて消えた時、入れ替わるようにグウと情けない音が鳴った。ヒトハは泣き顔とは別の意味で顔を真っ赤にして腹を抑えた。このしんみりとした雰囲気に、これはあまりにも恥ずかしい。
 案の定隣から笑いを堪え切れず噴き出す声を聞いて、ヒトハは苦々しく隣を見やった。

「先生、ご飯を食べに行きましょう」
「……そうだな」

 先に立ち上がったクルーウェルはヒトハの手を取って引き上げてやると、元来た道に歩き出す。ヒトハはそれを追いかけて隣に並んだ。
 今日は満月が浮かび、優しい夜風が吹く気持ちの良い夜。こんないい夜に素晴らしい出会いがあったなら、今日の夜は“アレ”に決まっている。

「今夜はいいお酒が飲めそうです」
「明日も仕事だが……」

 クルーウェルはひとつ小さく息を吐くと「まぁ、いいか」と笑った。
 銀の粒が散りばめられた夜空の下で不思議な出会いと夜の散歩。
 たまにはこんな夜も悪くないな、と。

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