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親切なマダムの話

 コバルトブルーの海、眩しい太陽、その間を泳ぐように飛び交う白いカモメたち。港沿いに並ぶ赤煉瓦の前には、カーマインとサファイアブルーのパラソルが交互に立ち並ぶ。クレーンポートに吹く風は海の果てからやって来ては、ワンピースの裾を撫でていった。

『今日は過ごしやすい一日になるでしょう』

 朝のニュースでお天気お姉さんが太鼓判を押したから、ヒトハは今日、最近買った白いワンピースとミュールを選んだ。午前中はヘアサロンにも行って、全身ピカピカの下ろしたてである。美容師が気を利かせてくれた髪型は、いつもよりほんの少し大人っぽい仕上がりだ。
 身綺麗にしていると気持ちが上向きになる。ショーウィンドウに映る自分の姿を見て、ちょっと嬉しい気分になる。
 そんな浮ついた気持ちのまま待ち合わせ場所に行き、彼の発した第一声。

「髪、切ったんだな」

 完。

(なんかこう、もうちょっと欲しかったっていうか……)

 ヒトハはドッグフードの袋を抱えて隣を歩く男をチラリと見上げ、ため息をつきたくなった。デイヴィス・クルーウェル──ビジュアルにかけては相変わらず死角のない男である。横顔にかかる前髪とフェイスラインの角度でさえ、計算し尽くされているかのような美しさだ。実際、そうなのかもしれないけれど。
 そんな彼にしてみれば、自分のおめかしは誤差レベルのスタイルチェンジなのだろう。切ったのか、なんて事実確認程度で話が終わったって文句は言えまい。そもそも男性って、そんなものだろうし。知らないけど。

(他に何か言うことないんですか!? ……なんて言っても空しくなるだけだし)

 だから「髪、切ったんだな」の答えは「そうなんですよ」のただ一言だった。我ながら可愛げがないが、事実確認には十分な返答である。
 そういうわけで、全身下ろしたての浮ついた気分は正午にはピークを迎え、今や萎みかけの風船のごとく地面をフラフラとしていた。
 とはいえ、今日のお出かけが楽しくないわけでもなかった。クルーウェルがわざわざ「ペット用品を買いに行くついでにランチでもどうか」と誘ってくれたおかげで、ひとりで家にいるよりはずっと楽しい。お散歩ルートは先日のポートフェストで散々歩き回ったクレーンポートだから、日常に戻った港の景色を見るのも面白い。テラス席で味わった白身魚のムニエルも素晴らしかった。
 今日は間違いなく良い一日だ。だから最初に躓いた一点だけが、際立って大きく見えているだけなのだろう。
 カフェの小窓に映り込んだ姿を見て、ヒトハは前髪を摘んだ。
 今日はちゃんと、可愛くできていると思うのだけれど。

「あら、デイヴィスさん。こんにちは」

 ゆっくりとした上品な声がクルーウェルを呼び止める。同時に振り返ったふたりを見て、その人はにこりと笑った。
 優しげな印象のマダムである。それから彼女の体格に似合わない、大きなダルメシアンが一匹。
 知り合いだろうか。クルーウェルを見上げると、彼は学園内ではそうそうお目にかかれないような綺麗な笑みを浮かべ、「こんにちは、マダム」と彼女と同じく丁寧な口調で答えた。良くも悪くも“弁えている”彼は、シーンでドレスを着こなすように態度をコロコロと変えてみせる。なるほど上品に見せたい相手なのだな、と思ったのも束の間。彼はパッと視線をマダムの足元──ダルメシアンに向け、声を弾ませた。

「それから、エマも! 休日に会えるなんて、今日はなんて良い日だろうな!」

 ヒトハはポカンと口を開けて、その変貌ぶりを二度見どころか三度見した。つい先程まで、彼はたいへん澄ました様子で店員とドッグフードの成分について話し込んでいたのである。
 クルーウェルは躊躇うことなく荷物を地面に置き、一人と一匹の前で恭しく片膝をついた。彼はクールに整えられた顔に蕩けるような笑みを浮かべ、エマと呼ばれた犬に語りかける。

「今日も変わらず美しい毛並みだ。エマ、俺に可愛い顔を見せてくれないか?」

 と、彼が言うと、エマは点々と黒い模様がついた尻尾を千切れんばかりに振りながら、前のめりになった。
 エマはクルーウェルが美しいと評した通り、綺麗なダルメシアンだった。毛並みも良く、太陽の光を受けて艶々と輝いている。だが、それにしたって大袈裟ではないか。
 その嬉しそうな顔。最愛の人を見つめるかのような甘い視線。ヒトハが混乱している間にも放たれる賞賛の数々。つまり、とにかく、デレデレなのである。
 彼も彼で故郷にいる友人たちに飼い犬を預けていると聞いたが、犬を飼っている人間とは、皆こうなのだろうか。
 クルーウェルは太腿に擦り寄ろうとするエマを両腕を開いて迎え入れ、マダムに問いかけた。

「頭を撫でても?」
「ええ、もちろん。どうぞ」

 マダムが慣れた口調で言うと、彼はエマの頭から始まり、頬、首裏、背中を撫でまわし、最後には嬉しさ余ってひっくり返ったエマの腹を満遍なく撫でた。

「…………」

 かわいい。美人だ。お利口さんだ。ヒトハは惜しみなく注がれる褒め言葉を聞きながら、ちょっとつまらなく思っていた。なにせ彼は、自分にはその言葉の一欠片も与えてくれなかったのである。
 ヒトハは視線を足下に落とした。新品のミュールは砂埃で少し燻んでいて、せっかくの髪も海風で絡んできたような気がする。これではもう、ピカピカの毛並みには敵うまい。けれど、もう一言くらいあったってよかったじゃないか。

「あの、あなたは……」

 控えめな声がして、ヒトハはパッと顔を上げた。マダムが口元に軽く手を添えて、伺うようにこちらを見ている。パチパチと垂れた目をまばたいて、興味津々の様子だ。
 クルーウェルとはどうやら顔見知りのようだが、こちらは初対面である。嫌な気持ちを振り払って、ヒトハは微笑んだ。

「私、ヒトハ・ナガツキといいます。いつもクルーウェル先生がお世話になっております」

 ぺこり、と極東癖の抜けない挨拶をすると、マダムは「まぁ!」とふっくらとした頬を赤く染めた。

「ヒトハさん、どうぞよろしくね。デイヴィスさんにはうちのエマをとてもよく可愛がってもらっているのよ」

 学園内では散々喧嘩を売って回っている彼だが、彼女にとってのデイヴィス・クルーウェルとは、ただただ愛犬に優しい犬好きの紳士らしい。
 ヒトハはつい先ほどまでのことを思い出してしまい、憂鬱な気分になった。

「私、こんなにデレデレしてる先生を見たのは初めてです。先生、あんな褒め方もできるんですね」
「えっ?」

 さっとマダムの顔が曇る。

「意外だわ。今日のデイヴィスさんは、その……いつもと違うのかしら?」

 彼女はエマと戯れているクルーウェルの姿とヒトハの顔を交互に見て、ささやくように言った。

「はい。普段はもっとさっぱりしてるというか。今日なんか、せっかく髪を切って来たのに『切ったんだな』って。私にはそれだけで」

 そこまで言って、ヒトハは慌てて口をつぐんだ。

「やっぱり、先生は犬好きだし、人間相手とは違いますよね。はは……」

 素早くクルーウェルを見やったが、幸い彼は飛びかかってきたエマと戯れている最中である。
 ヒトハがぎこちなく笑うと、マダムは何か痛ましいものを見るかのような目をした。それから彼女はヒトハの手を救い上げ、両手で温めるように包み込んだ。

「でも、『いつか大きな家を借りたい』って言ってましたでしょう? 心配しなくとも、将来のことはちゃんと考えているはずだわ。少し不器用なだけなのよ、きっと」
「家?」

 ヒトハは首を捻った。確かに彼が住んでいる家は単身者用だが、大きな家に引っ越したいという願望があったとは知らなかった。思えば、今まで生活に関して言及することはあまりなかった気がする。遠く離れたところに暮らす愛犬のことを知ったのも最近のことだ。

「私、家のことは初めて聞きました。先生、あまりそういうことは話してくれないから……」

 ヒトハが驚きのままに答えると、マダムは「そんな」と愕然とした。
 そんなに重大なことだったのだろうか。しかし言われてみれば確かに、住所が変わったのを知らないのも困るかもしれない。あとで引っ越しをするのかどうか本人に確認してみよう。
 そんなことを頭の隅で考えていると、ヒトハの手に太いひも状のものが載せられた。

「ヒトハさん、このリードを持っていてくださる?」

 エマのリードである。マダムはヒトハにそれをしっかり握らせると、クルーウェルの肩を叩いた。

「デイヴィスさん、ちょっと」
「はい?」

 クルーウェルはきょとんとした顔でマダムを見上げた。そして腕を掴まれて無理やり立たされると、訳も分からぬまま少し離れたところへ連れ去られていったのだった。小柄なマダムに引っ張られる大柄な男というのも、なかなか面白い光景だ。
 ヒトハは遠くに行った二人の背を眺め、残されたエマを見下ろした。エマはすっかり満足したようで、ヒトハの隣でお利口さんにお座りをしている。
 こちらを見上げる瞳が愛らしく、ヒトハは思わず頬を緩めた。

「エマちゃん、良い子ですね」

 ぱたぱたと尻尾が左右に揺れる。なるほどこれは確かに可愛い。エマの穏やかな顔を見ていると、ささくれ立った感情が落ち着いていくようだった。ささくれの原因の何割かはエマだったりするのだが、そんなことは最早どうでもよくなってくる。ヒトハはしゃがみ込んで、エマの耳の後ろを掻いた。以前クルーウェルが「犬はここを掻いてやると喜ぶ」と言っていた気がするからだ。
 エマは耳を後ろに引っ込めて、気持ちよさそうに目を細めた。

「先生、薔薇の王国で犬を飼ってるって言ってましたし、こっちに来た時にはお友達になれたらいいですね」

 言いながら、ヒトハは先ほどマダムが言っていた家のことを思い出した。大きな家に引っ越したいというのは、犬と暮らしたいということではないだろうか。そうだとしたら、クルーウェルの愛犬は本当にエマと友達になれるかもしれない。

「楽しみですね。その時は私も一緒に遊んでいいですか?」

 そう言うと、エマはヒトハの手をペロリと舐めて、にっこりと口角を上げたのだった。

 しばらくそうしていると、マダムとクルーウェルが帰って来た。マダムは一直線にヒトハの前にやって来て、「困ったことがあったら、いつでも頼ってね」と力強く手を握る。

「えっ? あ、ありがとうございます……?」

 ヒトハが戸惑いながら答えると、彼女はリードを握って「それじゃあ、また」と微笑んだ。そしてエマと共に街の中へと消えていく。

「ナガツキ」

 ハッとして振り返る。マダムが戻って来てから一切の気配も感じなかった。クルーウェルはエマと戯れていた時の面影もなく、どこか気まずい顔をしている。そのうえ彼にしては珍しく「その……」と奥歯にものが挟まったような物言いをするものだから、ヒトハは思わず「はい?」と聞き返した。それが悪かったようで、彼はますます苦い顔をした。

「今更だが、その髪型、よく似合っているな」
「えっ」

 今? と言いたくなったのを飲み込んで、ヒトハは視線をうろうろとさせながら「あー」と代わりの言葉を探した。

「ありがとうございます。今日、先生に会うから……午前中に、ちょっと……」
「俺に会うから?」

 クルーウェルはヒトハの言葉に目を見開いた。丸く見開いた目に太陽の光が反射して、心なしか輝いて見える。それはエマと戯れていた時の顔に、よく似ていた。

「は、はい。でも、少し切っただけですよ?」
「いや」

 彼はすかさず首を振った。

「いつもと雰囲気が違っていい。そのワンピースにもよく似合っている」
「ワンピースは下ろしたてなんです」
「そうか。いいセンスだ」
「ミュールも……」
「ミュールも涼やかでいいデザインだ。トレンドをよく押さえている」
「……」

 とにかくどこかでスイッチが入ったらしく、上機嫌な彼は何を言っても肯定的だった。今なら身につけているものすべて適当に申告しても「いい」「似合ってる」と言いそうな勢いである。しかし「エマちゃんより可愛いですか?」と聞いてみたら「犬と人は比べるものではない」と渋い顔をしたから、無差別に褒めているわけでもないらしい。

「先生、褒めてくれるのは嬉しいんですけど、なんで今日会った時に言ってくれなかったんです?」

 そもそも、なぜ今なのか。最初からこの格好だったのだから、出会ってすぐでもよかったはずだ。おかげさまで余計に気を揉むことになったのである。
 ヒトハが不満そうに言うと、彼はまたもや目を見開き、少しの間考え込んだ。そして「そうか」と呟いた。

「何か不機嫌そうにしていると思ったら、そういうことだったのか」
「不機嫌?」

 ヒトハは眉をひそめた。不機嫌? 自分が?
 と、考えて、思い当たることしかないことに気がつく。そうだった、不機嫌だったのだ。カフェの窓で見た自分の顔は、いかにもつまらなさそうな顔をしていた。てっきり隠し通せているものと思っていたのに。
 ぱっと頬を両手で包んで「うそ、顔に出てました?」と恐るおそる問うと、彼は「正直、触れるべきか迷った」と神妙な顔で頷いた。

「お前にもそういう感情があるとは思わなかったんだ。いや、それにしても犬に嫉妬とは……」
「犬に嫉妬?」
「さっきエマより可愛いかと聞いてきたじゃないか」 
「それは話の流れで……」

 あれは勢いで頷くのではないかと思ったから言ってみただけで、決してそういうものではない。大の大人がまさか犬に嫉妬だなんて。そんなまさか。そんなわけ……
 彼は「ちがうんです、それは、勘違いです」と延々と否定を続けるヒトハの肩に、ポンと手を置いた。

「安心しろ。今度からきちんと毛並みを整えていたら褒めてやる。エマよりも先にな」
「それはそれでなんだか複雑……」

 果たしてそんな宣言をされて褒められても嬉しいものだろうか。
 ヒトハはすっかり機嫌がよくなってしまったクルーウェルをちらりと見上げ、そして思わず目をそらした。
 今日はなんだかすごく眩しく感じたのだ。おそらくきっと、お天気お姉さんが太鼓判を押したからに違いない。
 それでもまだ眩しいような気がして、ヒトハは日を遮るように前髪を摘まんだ。手が頬に触れ、そこからじんわりと熱が滲む。

(けどまぁ、褒められないよりは嬉しいかな)

 ミュールのつま先で地面を弄りながら、ヒトハはなんとなく、そう思ったのだった。

***

 とんとん、と肩を叩かれて、ヒトハは市場の果物を覗き込んでいた顔を上げた。

「ヒトハさん、こんにちは」

 マダムは片手にオレンジがいっぱいに詰まった籠と、片手にエマのリードを携えて、そこに立っていた。

「こんにちは、マダム。お買い物ですか?」

 なんてありきたりな質問をすると、彼女は「ええ、そうよ」とゆっくりと頷く。エマはそれを合図に、彼女のそばにちょこんと座った。

「ねぇ、ヒトハさん。あの後はどうだったかしら?」
「あの後? ──ああ」

 マダムが興味深そうに問うので、ヒトハは少し前の日のことを思い返した。
 あの後は夕方に解散するまで散々だった。犬に嫉妬しているだなんだと言ってからかってきた彼は、何かにつけてヒトハを褒めようとしたのである。面白がっているのは明らかだったので本気にすることはなかったが、お陰様で終始顔が熱くて仕方がなかった。顔馴染みらしき喫茶店のマスターに、彼女は“俺のために”毛並みを整えて来たのだと自慢し始めた時には、思わず背中をぶっ叩いてしまったほどだ。マスターを爆笑で過呼吸にまで陥れた彼の罪は重い。
 そんなこんなで大変だったのだと苦労話をすると、マダムはかなり満足したらしく、満面の笑みで「よかったわね」と手を叩いた。なにも良くはないのだが、彼女にとっては良かったのだろう。
 それから少しだけ立ち話を続けたが、撫でてくれる相手もいないエマが大きなあくびをしたのをきっかけに、ふたりは解散することにした。
 マダムは別れ際、思い出したように言った。

「それじゃあ、おふたりの新居が決まったら教えてね。エマと遊びに行きますから」
「はい。それではまた」

 ヒトハは勢いで頷いて、去っていくマダムとエマに手を振った。
 手を振りながら「ん?」と首を捻る。

「おふたり……?」

 問おうにも、マダムとエマはいつの間にか街に消えている。

「あ、そうだ」

 そういえば、家のことを聞くのを忘れていた。いつ大きな家に引っ越すんですか──先生の犬は呼び寄せるんですか。次に会ったら、聞いておかなければ。
 エマを撫でた感触を思い出しながら、ヒトハは港に向かって歩きだす。市場で羽を休めていたカモメが、クゥクゥと鳴きながら遠くの空へと泳いでいった。

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