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難解な話

「先生、おつかれさまで……何をしているんですか?」

 ヒトハは魔法薬学室の扉に手を突いたまま、教室の奥にいる男に問いかけた。男は両手に一枚の紙を持ち、それを高く掲げている。
 男──クルーウェルはヒトハの存在に気がつくと、険しく細めていた目を瞬いて、こちらに目線だけ寄越した。

「ああ、すまない。もう少しで終わる」

 そう言って彼は紙を持った両腕を下ろし、今度はそれをくるくると回転させた。かと思えば傾けたり、裏返して透かしてみたり。暗号の解読でもしているのだろうか。かなり奇妙な行動だが、顔はいたって真剣である。
 ヒトハはせめて邪魔にならないように扉をゆっくりと閉め、足音に気をつけながら部屋の奥に進んだ。そうして近くの椅子に腰を下ろそうとしたとき、「ナガツキ」と声がかかった。

「ちょっといいか」

 暗号解読の手伝いだろうか。
 ヒトハが小走りで近寄ると、彼は指先でトントンと紙を叩いた。

「これ、読めるか?」
「は──えっ!?」

 ヒトハはその紙を見た瞬間、目を剥いた。
 ミミズがのたうち回ったかのような文字。ガタガタ、あるいはフニャフニャ。力を入れすぎてペン先で紙を抉っているところもある。文字のようだが、読めるようで読めない。いや、読める。ような気がする。
 なんとクルーウェルは、この文字を読み解こうとしていたのである。習いたてのような拙い文字だ。まるで子どものような……

「はっ! まさか、先生の……お子さんが……?」
「そんなわけあるか。グリムだ、グリム」
「グリムくん?」

 ヒトハは再び紙に目を落とした。よく見ればそれはテスト用紙のようで、上のほうにグリムの名前がある。こちらは書き慣れているのか、比較的読みやすい文字だ。続いて問題文を読み進めてみたが、問題文とクルーウェルの文字以外はまるで読み解くことができず、二問程度でリタイアしてしまった。

「これ、よくここまで読めましたね」

 これでもほとんど採点済みなのだ。ヒトハが唖然としながら言うと、クルーウェルはほんの少し得意げな顔をした。

「最初は倍以上時間がかかっていたが、最近は少し読めるようになってきた」
「はぁ、なんていうか、その……おつかれさまです」

 教師は生徒たちの教育をすることばかりが仕事なのかと思っていたが、それだけではなかったらしい。難解文字の解読も仕事の一環なのである。それにしても文字の拙さについての指導は、別で行うべきではないかと思うのだけれど。

「毎回グリムの文字を解読するのに時間がかかっていてな。ほとほと困っているのだが……まぁ、あの肉球ではな……」
「ああ、確かに。あの手でペンを握れているだけでも凄いですよね」

 グリムは猫のような狸のような姿をした魔獣だ。二本足で歩くこともあるが、四本足で走ることもある。当然指は短く、むっちりとした肉球を持っている。ペンを指で挟んでいるだけ器用ともいえるのだ。そんな彼が書く文字が、他の生徒と同じなわけがない。クルーウェルが時間をかけてでも解読しようとしているのは、彼なりの配慮だろう。

「これでも良くなったほうだ。最初は“エル”だか“アイ”だか分からなくて苦労した。“S”が反転して“Z”になっていたりな」
「うーん、完全に幼児の書く文字ですねぇ」

 ヒトハは改めて用紙を覗き込んだ。確かに文字は酷い有様だが、半分くらいは正解しているようだ。クルーウェルのテストであることを考えれば、なかなか健闘しているほうではないだろうか。

「──あ、そういえば今日のお昼にグリムくんが言ってましたよ。今回のテスト勉強は子分と徹夜で頑張ったんだって。今回こそ先生にグッボーイって言わせてやるんだーって」

 グリムは毎回クルーウェルに「バッドボーイ」と言われるのが嫌だったようで、今回はそれを「グッド」に変えたくて頑張ったらしい。ヒトハはそんなグリムの姿を微笑ましく思い、その様子をよく覚えていたのだった。

「言ってやりたいのは山々なんだがな。せめて半分は超えてもらわなければ言うに言えない」

 クルーウェルは悩ましげにため息をついた。
 グリムの成長は喜ばしいことだ。成績が良くなっているのなら、しっかり褒めてやりたい。けれど立場上、彼だけを贔屓するわけにもいかなかった。何か分かりやすい“成長の証”がなければ、他の生徒の前で堂々と褒めてやれないのだ。

「それで、だ。この問四が正解なら、グリムのテストの点数は半分を超えるわけだが──お前はこれを何と読む?」
「…………【ホース(hose)】?」
「だよな」

 はぁ、とクルーウェルがため息を落とす。

「正解は【薔薇(rose)】だ。薔薇から抽出したオイル。力を入れすぎたのか、“r”が“h”にしか見えん」

 ヒトハは目を細めてその字を凝視した。色々と先っぽが伸びすぎているだけだと思えば、“r”に見えなくもない。
 その問題は塗布するタイプの〈やけどを治す魔法薬〉に使う素材を答えさせる穴埋め問題だった。常識的に考えて掃除や水やりに使う【ホース(hose)】なわけがないから、【薔薇(rose)】と書こうとしたのは間違いないだろう。
 とはいえ文字が拙すぎて違う意味になってしまっているから、絶対に正解とも言えない。クルーウェルはそのせいで頭を悩ませているらしい。
 ヒトハは「う────ん」と長く唸って、「でも」と苦し紛れに言った。

「文字の間違いと知識の間違いは別ですから、正しい答えを知っているのなら正解でもいいのでは……」

 頭の片隅に「今回は手ごたえがあった」と大喜びしているグリムの顔が浮かんだ。あの顔を見てもなお「不正解」と即答できる人は、鬼か悪魔だろう。クルーウェル自身もグリムの頑張りは分かっているからか、相当悩んでいるようだ。
 彼はそれなりに長く考え込んだ末に、「そうだな」と頷いた。

「たまには鞭ではなく飴を与えてやらなければ努力も続かないだろう。今回は……“r”だ。これは“r”と読むことにする」
「そうですね。これは“r”なので、薔薇です。間違いありません」

 ヒトハとクルーウェルはうんうんと強く頷きあった。これはホースではない。薔薇である。
 そうしてクルーウェルが正解のチェックをつけ、用紙に「Good boy!」の文字を書き終わると、ようやく今回の採点が終わったのだった。

***

「次、グリム」
「はいはーい!」
「『はい』は一回だ」

 クルーウェルの苦言もものともせず、グリムがピョンと跳ねて席を立つ。点数を見ないうちからこの喜びようである。彼女が「手ごたえがあったらしい」と言っていたのは本当だったようだ。
 クルーウェルの手には前衛的な文字──小さな手のひらで一生懸命に書いた文字で埋め尽くされたテスト用紙がある。今まで散々だったグリムのテストの中では、一番の好成績を叩き出したテストだ。
 それをグリムに差し出しながら、クルーウェルは声を張った。

「グッボーイ、グリム! 今回は前回よりもずっといい点数だったな。次も期待しているぞ」
「やったー! オレ様、次はもっともーっといい点取るんだゾ!」

 グリムは正解半分、不正解半分のテスト用紙を見せびらかすようにピョンピョンと跳ねた。生徒たちは「正解したの半分だけじゃん!」「グリム、調子乗んな!」と野次を飛ばしながら笑っている。
 生徒全体で見れば良い点数でもないが、グリムにとっては今までで一番いい成績なのだから、これでいい。これでいいのだが、クルーウェルはほんの一瞬不安になって、席に戻ろうとするグリムを指でつついて引き止めると、「問四の答えは“薔薇”だよな……?」と小さな声で訊ねた。
 するとグリムは大きな目をきょとんと見開いて、こくんと一つ頷いた。

「……そうか。それならもう戻っていいぞ」

 ほっとした顔で言うクルーウェルを見てグリムはちょっとだけ首を捻ったが、すぐに他の生徒たちの野次に気を取られて、「うるせー!」と怒りながら席に戻っていったのだった。

***

 おい見ろ、ヒトハ! と元気よく声をかけられたので、ヒトハは石畳の泥をホースの水で流しながら振り返った。

「はいはい、何ですかグリムくん」
「『はい』は一回でいいんだゾ! 見ろ! オレ様ついに『グッボーイ』を貰ったんだゾ!」
「あらまぁ」

 目の前に一生懸命伸ばされた腕とテスト用紙を見て、ヒトハは口に手を当てて驚いた……ふり・・をした。見覚えのあるテスト用紙である。今日が返却の日だったのだろう。

「すごいじゃないですか、グリムくん! 頑張りましたね!」

 ヒトハが大袈裟に褒めると、グリムは「もっと褒めていいんだゾ!」とフサフサの胸を張った。
 クルーウェルの判断は正しかったようだ。ヒトハが「すごい、すごい!」と褒めちぎるたびに、グリムは「オレだってやればできる!」と白い胸毛を膨らませていった。これだけの成功体験があれば、次もきっと頑張ろうと思うはずだ。
 しかし途中で何かを思い出したのか、グリムは「そういえば」と胸を萎ませた。

「クルーウェルのやつが意味わかんねーこと言ってたけど、なんだったんだ……?」
「わかんないこと?」

 グリムはぎこちなく頷いた。

「『問四の答えは薔薇』とかなんとか……オレ様、薔薇なんて答え、書いた覚えねーんだゾ……」
「え」

 ヒトハはホースを持ったまま固まった。
 ちょろちょろと地面に水を落とし続ける【ホース(hose)】。いやそんな、まさか。
 しかしグリムは本気で薔薇と書いた覚えはないようで、どういう意味だったのかとしきりに首を傾げている。
 ヒトハは言うべきか言わないべきかで悩んで、口を開けたり閉じたりした。そうこうしている間にグリムはクルーウェルの言葉を思い返しながら、ぶつぶつと独り言を言っている。

「オレ様、四番目は“馬”って書いたはずなのに……」
「【馬(horse)】? ──あっ」

 正解は【薔薇(rose)】、ここにあるのは【ホース(hose)】、グリムの回答は【馬(horse)】。
 ヒトハはグリムの持っているテスト用紙を指差して「ああーっ!」と声を上げた。

「それってまさか、【馬油(horse oil)】!?」

 グリムはびっくりした顔で頷いた。
 色々と先っぽが伸びすぎた“r”──ではなく、これは“h”。グリムが間違えていたのは文字ではない。スペルだったのだ。
 馬油も素材として 使用されることがある。魔法薬以外にも、化粧品にも使われているポピュラーな素材である。特に塗布するものによく使われていることから、答えを間違えてしまったのかもしれない。
 しかしテストは採点済みであり、正解半分、不正解半分の用紙にはグッボーイの文字がある。
 ヒトハの頭の片隅に「今回は手ごたえがあった」と大喜びしているグリムの顔が浮かんだ。今さら「間違ってますよ」なんて、言えるはずもない。

「……グリムくん」
「なんだ?」
「問四の答えは薔薇ですよね?」

 はぁ? とグリムが顔をしかめる。

「んなわけ……」
「この問題の答えは薔薇です」
「うま……」
薔薇・・です。そうですよね?」

 ヒトハがじっとテスト用紙を見つめながら言うと、グリムは困惑しながらテスト用紙を見返した。

「……そう言われると、そんな気がしてきたんだゾ……」
「そうですよ」

 いっそこの“r”とも“h”とも読める文字の可能性を利用し、間違いを正解にすり替え、頭に叩き込む。それしかない。

「間違いありません。この文字は“r”。【薔薇(rose)】です」

 色々と先っぽが伸びすぎた“r”を見つめながらヒトハが頷くと、ややあってグリムも、こくりと頷いたのだった。

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