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無防備な彼女の話
「はああ、天国……」
ふらふらと入室してきた彼女は教壇に一番近い椅子に腰を下ろすと、そのままデロリと溶けた。夏を目前にして、早くも参っているらしい。
クルーウェルは今日の授業で行った小テストの採点を一時中断し、椅子の上で液状化しているヒトハに「室温を下げるか?」と問いかけた。魔法薬学室は常に一定の室温に保たれているが、一時的に一度や二度下げるくらいなら問題はない。
しかし彼女はクルーウェルの親切な申し出を「いえ、大丈夫です」と、きっぱりと断り、スッと上半身を起こした。そして額に張り付いた前髪を鬱陶しく払いながら、疲れ切った顔で言う。
「エプロンがもう、暑くて暑くて。そろそろ夏服に変えないと」
彼女の着ている清掃員服は薄い青のシャツワンピースに白いエプロンを重ねたもので、それだけでも暑いだろうに、防水加工を施した手袋まで纏っていた。足元のブーツまで合わせれば、つま先から首元まですっぽり覆われている重装備である。
それでは暑かろうに。最近まで気に入っている毛皮コートを着込んでいた自分が言うのも、おかしなことだが。
ヒトハはおもむろにエプロンを外して机に放ると、手袋をその上に脱ぎ捨てた。ボタンを外して袖を捲り、ついでにシャツワンピースの首元にあるボタンを外して大きく開け放つ。さらにスカートをぐいとたくし上げ……
「おい」
「はい?」
ぴたりと動作を止めて、彼女は首を傾げた。白い膝の上でスカートの裾を握りしめ、こちらを見上げる。クルーウェルは思わず眉根を寄せた。
「ここは学園だ。いくら放課後とはいえ、だらしない格好はするな」
「ダメですか」
「ダメだ」
彼女は唇をつんと突き出して不貞腐れた。
「いいじゃないですか。減るもんじゃないし。それとも何です? 私のだらしない素足を見たくないって言うんですか? 嫌なら見ないでください!」
「そこまで言ってないだろうが」
暑さで気が立っているのか、酷い言いようである。猛犬注意の札でも教室の扉に貼っておくべきか。その前に室温を下げるのが先か。
クルーウェルが無意味に毛を逆立てているヒトハの処遇を考えている最中、教室の扉が静かに開かれた。
扉の前にはサバナクローの生徒が一人、紙の束を抱えて立っている。彼は「不味いところに来てしまった」と尻尾を内に巻きながら、その先へ進むかどうか悩んでいた。
「仔犬、何か用か?」
「あ、えっとぉ……」
「なんだ? 言いたいことがあるなら言え」
二進も三進もいかない様子を見ていたヒトハは、生徒にちょいちょいと手招きをしながら微笑む。
「先生とお話ししてただけなので大丈夫ですよ」
そう言って、やっと生徒はおずおずと教室に足を踏み入れたのだった。そして彼はクルーウェルの前に歩み出ると、紙の束を差し出した。通りがかりの学園長にでも頼まれたのか、それなりに重要そうな書類である。
生徒は確かにクルーウェルに書類を渡したことを確認すると、礼を言う間もなく逃げるように教室を出て行った。
「……先生、思ったより怖がられてるんですね」
「心外だ」
と、生徒が出て行った扉からヒトハのほうへと視線を移す。彼女はいつの間にか襟を閉じ、スカートの裾を一番下まで下ろしていた。
「減らないからいいのではなかったのか?」
「え?」
ヒトハはきょとんとしながら自分の膝を見下ろした。そして顔を上げ、得意な顔で堂々と言ってのけたのだった。
「いやあ、他の男の人に見られるのはさすがに嫌かな、って!」
「他の……」
なんていい笑顔なんだ。こっちの気も知らないで。
彼女は性懲りもなく「あつい、あつい」と言いながら、再び開け放った襟元を指で摘まんでパタパタと揺らしている。
「隠せ」
「な」
何か言いたげに口を開こうとするヒトハを抑え込むように、クルーウェルは素早く咎めた。
「今すぐだ」
「そんなに……?」
まったく、これだから夏は。室温を二、三度下げながら、クルーウェルはうんざりとした。
さっさといつものコートを着込める季節になって欲しいものである。
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