short
フレッシュトマトとバジルの冷製パスタ
ヴーッ
鈍くスマホが唸る音がして、ヒトハは瞼を開いた。ピントの合わない目で薄明るい室内の様子を伺う。脱いだままの制服が椅子に引っかかって床に垂れ、愛用の手袋に至ってはテーブルから墜落していた。この散らかり様が許されるのは、週末仕事終わりの夜くらいのものだ。
ヒトハは半開きの目をゆっくりと瞬き、掠れる声で呟いた。
「あさ……」
否、昼である。カーテンの隙間から鋭く射した光が足の親指を焼いている。
夏用のタオルケットを片足で跳ね除け、じっとりと蒸した背を転がし、ヒトハは未だ唸り続けるスマホに手を伸ばした。
スマホはサイドテーブルの上で震えながら踊り回り、ろくずっぽ見ないで手を泳がせるヒトハの指先に触れた。
『──遅い!!!!』
突然の怒声に驚いて上半身を跳ね上げる。
ベッドのスプリングが激しく軋む中で、休日の昼間にしつこく電話をかけてきた男──クルーウェルはヒトハの返事を待たずに捲し立てた。
『この俺から電話がかかってきたなら、ワンコール以内に取れ!!』
無茶な話である。電話番ならまだしも。
ヒトハはこんがらがった前髪を搔き上げて「はぁい」とあくびを噛み殺しながら答えた。頭がまだぼんやりとしていて、言い返すのも億劫だ。
『まさか、お前まだ寝ていたのか?』
「ちょっと夜ふかしを」
はぁ、とため息が聞こえる。
『何時に寝たんだ?』
「………………五時?」
『五時……』
そうはいっても今日は休日。前日からどれだけ夜更かししようが誰に迷惑をかけるわけでもない。
ヒトハはクルーウェルの呆れを物ともせずタオルケットを手繰り寄せると、再びベッドに突っ伏した。朝食も食べずに昼を迎えたせいか、拍子で腹がグゥと鳴る。再び眠気に襲われながら、何か言わなければとモゴモゴと口を開いた。
「ケイトくんからドラマ教えてもらって……今……流行りの………………」
『寝るな寝るな』
「夜明けまで観てて……」
ふわ、とあくびをひとつ。
この夜ふかしは、ケイトから教えてもらった流行りのドラマを観始めて止まらなくなったことから始まる。一話だけ、と思っていたのに、気がついたら終盤まで進んでいて、最後は気を失うように寝ていたのだ。
まるで実のない話だ。さすがに彼も飽きただろう。
ヒトハは二度寝の準備を整え始めたが、しかしクルーウェルは会話を続けるつもりなのか『どんなドラマなんだ?』と先を促した。
どんな、と呟きながら瞬きをしていると、せっかく微睡んでいた頭が妙に冴えてくる。
「名門魔法士養成学校卒の超エリート魔法士のイケメン社長と、田舎からやってきた事務員のオフィス・ラブです」
『お前、そういうのも観るんだな……』
「観ますよ。なんだか現実味ないところがいいんですよね……」
寝返りを打ち、タオルケットに包まる。ヒトハはサイドテーブルに向かって「だって」と続けた。
「だってエリート魔法士と田舎から出てきた普通の事務員ですよ? 私なら遠くから眺めて終わりますね」
『……』
「こんな人いるの? ってくらい横暴な社長なんですけど、たまに見せる優しさにキュンとするんですよねぇ」
『…………』
「十年後くらいに主演ヴィル様でリメイクしてくれないかなぁ……」
『………………』
「どうしました?」
『いや、自分を客観視することの大切さを実感していたところだ』
「はぁ」
なんだか含みがあるような気がするが、考える気にもならない。ヒトハはクルーウェルが黙ったのをいいことに、今度こそしっかり目を覆った。
が、突然の流水音の後に、トンと板を叩くような小気味の良い音がして、再びぱちりと開く。
「あれ? 先生何か作ってます?」
『ん?』
返す間にも物音が響いてくる。
トントントン、スッ、トントン……
グゥ、と追い討ちをかけたのは自分のお腹だ。
するとクルーウェルは笑いを含んだ声で
『フレッシュトマトとバジルの冷製パスタ』
と、本日のランチメニューを読み上げたのだった。
「トマト……パスタ……」
休日の昼間から大したものである。自分はこうして空腹のままベッドから降りられずにいるというのに。降りたところでろくな食材もないのだけれど。
「お腹すいた……」
ベッドの上で干物の如く四肢を投げ出して嘆く。
食べたい、パスタ。眩しい夏の日に味わうトマトの酸味とバジルの香り。でも作る気にはなれない。なぜって、自分で作っても美味しくないから。
無言で調理音だけに耳を澄ませていると、彼は笑いを堪えきれなかったのか小さく噴き出した。
『ランチタイムは三十分後だ』
三十分後。ヒトハはしばらく考え込んだ。
「……十分で支度します」
自分でもびっくりするくらいスッキリと起き上がり、寝間着にしているTシャツに手をかける。ギリギリ十分でいけるかもしれない。ちょっと心許ないけれど。
慌てて支度を始めたヒトハに、クルーウェルは『ステイ!』と鋭く言った。ぽいとTシャツを脱ぎ捨てながら耳を傾けるが、動きながらではよく聞こえない。ヒトハはうっかりスピーカーから聞こえる声を聞き逃してしまった。
『待ってやるから、気をつけて来い』
「──え?」
わぁー! と叫ぶ音の後にドタバタと物音がする。
クルーウェルは手にしていた包丁をおろし、カウンターに寝かせたスマホを覗き込んだ。アイコンがぽつんと中央に出ているだけで様子は分からないが、それなりに大変なことになっているらしい。こうなったら慌てふためく彼女の物音を聞きながら料理の続きをするしかない。
さて、休日の完璧なランチを前にした彼女に何と言ってやろう。
キュンとしたか? とでも聞いてやろうか。
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