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節分の日の話

(もっとかかるかと思っていたが、案外すんなり終わったな)

 クルーウェルはまだ肌寒いナイトレイブンカレッジの敷地を速足に進みながら、今日の会議のことを思い出していた。理系と文系の教員が衝突し合い議論が縺れに縺れていたところ、体育系の教員がすっきり丸く収めてしまったのだ。彼らは根性論一辺倒かと思いきや意外にも立ち回りが上手く、角が立たないように間を取り持ってしまう。これには激論を続けていたクルーウェルもトレインも矛を収めざるを得ず、バルガスの気持ちの良い笑いでその場を締めくくるしかなかった。なぜだか帰り際にあの濃い目でウインクをしてきたのが不可解で、まだ少し首の裏が落ち着かないが。
 今日はいつもヒトハと約束している魔法薬の受け渡しの日だ。職員会議だから日を改めようかと聞いてみたが、彼女は首を横に振って「待ってますね」とにっこりとしていた。いつものことながら健気なものである。
 こうしてクルーウェルが魔法薬学室に辿りついた時には、外はもう真っ暗になっていた。外灯と近くにそびえる温室の灯り、そして魔法薬学室の灯りで周囲はそこそこ明るかったが、それでもこんな時間まで待たせてしまったことに変わりない。
 クルーウェルは扉に手をかけ間髪入れずに開き、その先に清掃員の姿を見つけた。彼女は華奢な背をこちらに向けて魔法薬学室の簡素な椅子に腰かけている。

「すまない、待たせたな」

 クルーウェルはヒトハがまだ教室で大人しく待っていたことにほっと息をついて、そう呼びかけた。
 しかし彼女はピクリと肩を動かしただけで、こちらに振り向こうともしないし返事をしようともしない。普段であれば「早かったですね」なんて言って笑うものだが。

「……ナガツキ?」

 いくら経っても何の反応もない姿を不審に思い、クルーウェルは静かにヒトハの元へ歩み寄った。

「おい、拗ねてるのか? 返事くらい……」

 と、肩に手を置いてぐいと手前に引っ張る。が、なぜかその肩は背に鉄板でも仕込んでいるのかと思うくらいびくともしない。どれだけ振り向きたくないのか。そもそも、どこにそんな力があるというのか。
 さすがに苛立って、クルーウェルは大きく一歩踏み出してヒトハの前に回り込んだ。

「待つと言ったのはおま──は?」

 静かな魔法薬学室に間抜けな自分の声だけが響く。クルーウェルはヒトハの姿を見て何を言葉にすればいいのか分からなくなった。
 彼女は黒くて長い棒状の何かを、一点を見つめながら食べ続けていた。

 時に、極東出身の彼女の言動は理解が難しいことがある。
 例えば、女性から男性に告白するイベントがあるとか、極東のゴーストは夏にもこの世に帰ってくるだとか、そういう文化や風習の差だ。この広いツイステッドワンダーランドで生活圏が違えば文化も風習も異なるのは当然で、クルーウェルもヒトハもお互いの生活や常識の違いは積極的に理解しようと努めてきた。だが、これはあまりにも不気味ではなかろうか。
 黒いシート状のものに包まれたライス。さらにその中に数種類の具が詰まっている棒状の何か。食べ物としては美味しそうに見えなくもないが、それを一点を見つめながら一心不乱に食べているのがあまりにも──怖い。

「お、おい……なにして……」

 と声を掛けようにもこちらを見もしないし食べるのを止めもしないし、当然喋りもしない。肩を掴めば反応はするから、聞こえてはいるのだろう。
 クルーウェルは頑なにこちらを見ようともしないヒトハをどうにかするのを一旦諦めて考えた。隣で腕を組んで立ち、もぐもぐと咀嚼を続ける頭が小刻みに揺れているのを見下ろす。

「声を発してはいけない、体の向きを変えてもいけない……儀式か……? 呪術にしても奇怪だが、極東ではスタンダードなのか……?」

 名門校の教師をしている身とはいえ、さすがに世界中にある呪術を知っているわけではない。大抵の呪術には対象を呪うために必要な道具や手順があるものだが、それが極東流なのだと言われれば、そうなのだろうと納得するしかないのだ。
 クルーウェルが推測しようとしてぶつぶつと呟いていると、ヒトハは食べるのを止めて肩を小さく振るわせ始めた。

「お前まさか……笑っているのか?」

 ヒトハはぴたりと止めていた咀嚼を誤魔化すように再開したが、笑いを堪える震えだけはどうしても隠しきれていない。

「おい。笑っただろう、俺を」

 クルーウェルはしゃがみ込んでじっとヒトハの横顔を睨んだ。穴が開くほど見つめても、彼女は気まずそうに眉を顰めるだけでこちらを見ようともしない。
 ここまでくるとじわじわと恐怖より面白さが勝ってきて、クルーウェルは試しに指先でヒトハの脇腹を突いてみることにした。

「俺を無視するとはいい度胸だな」
「──ンヒッ!?」

 ヒトハは鼻の奥で声にならない悲鳴を上げ、椅子を蹴り倒す勢いで跳び上がり、そのまま正面に向かって走り去った。その先には背の高いガラス戸の薬品棚が立ち塞がっていたが、しかし彼女はそのまま棚に向かって立ちながら謎の儀式を続行したのだった。

「いや、それはさすがに面白すぎるだろう……」

 とにもかくにも酷い絵面である。

「分かったから座って食べろ。お行儀が悪い」

 クルーウェルはヒトハを椅子に引き戻そうと両肩を引っ張ったが、彼女は当然体の向きを変えようともしない。仕方なくそのままバックで椅子まで誘導して、丁度いいところで座らせてやらなければならなかった。

「はぁ、とりあえずお前が食べ終わるのを待てばいいんだな?」

 ヒトハは座ったままウンウンと頭を縦に振った。また邪魔をしてはガラス戸に顔を突き合わせて一歩も退かなくなることだろう。
 クルーウェルは深くため息をつくとヒトハの背後に椅子を一脚引き寄せ、そこに腰を下ろした。
 せっかく早く会議が終わって急いで来たというのに、これでは意味がない。手持ち無沙汰で暇な時間を持て余し、クルーウェルはヒトハが仕事用にきっちりと結い上げている髪を勝手に解いた。肩に向かって流れ落ちる髪は結んだ跡が残って緩くウェーブしている。
 ヒトハの髪を弄るのは初めてではない。それはあまり自分を飾ることに頓着しない彼女の服や化粧に手を入れ始めたときから始まっていて、今やどこに癖毛があるのかも把握済みである。クルーウェルはそれを何束か指で掬い上げ、黙々と編むことにした。
 ヒトハは自分の髪で遊ばれていることを察して落ち着きなく身を捩ったが、今の状態では振り向きもできなければ声も発することもできず、食べるのを止めることもできない。

「じっとしてろよ」

 とは言ってみたものの、不思議な儀式の最中である彼女には、まるで意味のない言葉としか思えなかった。

「ごちそうさまでした!」

 突然声を発してパチンと両手を合わせる。ヒトハは深く息を吐いて「お腹いっぱい……」と自分の腹をさすった。

「終わったのか?」

 クルーウェルが後ろ頭に問うと、ヒトハはくるりと振り返って眉を吊り上げた。

「もう! 先生! 邪魔しないでくださいよ!」
「邪魔もなにも、あんなものをいきなり見せられたら誰でも動揺するだろうが」

 クルーウェルの呆れた声にヒトハはちょっとだけ眉間に皺を寄せると「まぁ、そうですけど」と自分の奇妙な行動を渋々認めた。

「あれはですねぇ、“恵方巻”って言って、毎年節分の日に決められた方角を向いて食べる食べ物です」
「セツブン?」
「私たちの国では冬と春の境目を“節分の日”って言うんです。邪気を払ったり無病息災をお祈りする日なんですよ。で、その一環でさっきみたいに恵方巻を食べるんです」

 ヒトハは手で円の形を作り、ジェスチャーでその長さを表現した。それが思っていたよりも長く、クルーウェルはヒトハが長いこと恵方巻きと格闘していたことに気がついた。それにしても、女性一人が食べるにしては随分な量である。

「諸説ありますけど、願い事をしながら喋らずに最後まで食べ切ると願いが叶う、とか言われてます」
「願いが叶う?」

 つまり、ヒトハが一点を見つめながら黙々と恵方巻きとやらを食べていたのは呪いの儀式でもなんでもなく、願いを叶えるためだったのだ。ということは、これを達成したらしい彼女の願い事は叶うということになる。

「それで、何を願ったんだ?」

 クルーウェルの興味深げな問いに、ヒトハはしばらくの沈黙ののち「あれ?」と小さく言って腕を組むと、首を捻った。ううん、と目を細めながら何度か唸った結果、はぁとため息をつく。

「忘れちゃいましたね」
「あれだけのことをしておきながら忘れたのか」
「それは先生が邪魔するから……!」

 怒りがぶり返してきたのか、ヒトハは再びまなじりを吊り上げながら口を尖らせた。

「あんな奇怪なものを見せつけられて黙って見守ってる方がおかしいだろう。大体、何でこんなところでそんなことをするんだ。家でやれ、家で」
「だっ……だって、今日遅くなるって言ってたから丁度いいやと思って! あーもー! 絶対脇腹突かれたときに願い事飛んで行っちゃいましたよ!? 何でご飯食べてる人の脇腹を突くんですか、もう!」
「そんなに怒るほどか?」

 そもそも脇腹を突かれる程度で忘れる願い事というのも大したことがないのでは、と思わないでもなかったが、かといってここで言い返しても怒りを助長するだけだ。
 クルーウェルは今まさに噛み付かんとするヒトハの前に、魔法で引き寄せた鏡を差し出した。調合した魔法薬の効果を自分で確認するために魔法薬学室に備えてある、大きめな手鏡である。

「な、なんです?」

 訝しんで受け取ったヒトハの体をくるりとひっくり返し、合わせ鏡の要領で後ろ頭を見せてやる。

「──あら、可愛いですね、これ」
「だろう?」
「変に器用ですよね、先生って」
「“変”ではない。“特別”器用なだけだ」

 ヒトハは後ろに編み込まれた髪をそろそろと手で触り、すっかり機嫌を直していた。いつか試してやろうと思って覚えていたヘアアレンジは、どうやらお気に召したようである。

「結局その恵方巻とやらは失敗したんだろう? もう一本食べなくていいのか?」
「い、いえ、もういいです。また来年やります……」

 ヒトハは自分の腹をさすりながら言って、そして良いことを思いついたかのようにぱっと目を見開いた。

「せっかくなので、来年は先生の分も用意しておきますね」

 などと気を遣われたことに何と返せばいいのか。悪意がないのは分かっている。分かっているのだが。
 クルーウェルは期待に満ち満ちた目に晒されながら、苦々しく「しっかり施錠をしておこう」と答えたのだった。

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