short
バレンタインデーの話
とある国では男性が想いを寄せる女性に贈り物をして、愛の告白をする日があるのだという。
〈バレンタインデー〉。それはすでに想い合っている女性に愛を囁く日でもあった。
この情熱的な風習は海を渡り、いつしか極東にある小さな小さな島国にたどりつき、そして独自のものへと変化を遂げた。
「はぁ、女性から男性に……?」
「そうなんです! だからなんだか、この時期は落ち着かなくて!」
トレイはヒトハの勢いに圧されて、困ったように笑った。
極東にある小さな島国出身のヒトハ・ナガツキは、この来るべき〈バレンタインデー〉に向けて、使命感に駆られていた。故郷ではその日、女性から男性に対してチョコレート、もしくは、それらしきお菓子を贈る。そして本来の風習通り愛の告白をする日なのだが──一方で、父親や兄弟、お世話になった男性に日ごろの感謝の気持ちを込めて贈り物をする日でもあった。
ヒトハにしてみれば、後者のほうが圧倒的に馴染み深い。毎年この時期は、必ずと言っていいほど甘い物を用意してきたのだ。いくら異文化の島へ来たとしても、今までの人生で染み着いたものを簡単に落とせるはずがない。
だからカレンダーを捲り、例の日が近づいてきたのを知ると、つい捕まえてしまったのだ。ナイトレイブンカレッジいちのお菓子作りの達人、トレイ・クローバーを。
彼は事情を聴くと、優し気な眉をハの字に下げて「でも、一体誰に渡すんです?」とヒトハに問いかけた。
「それはもちろん、日ごろお世話になってる先生にですね……」
「ヒトハさん、さっきバレンタインデーは何の日だって言ってましたっけ?」
「“愛の告白もしくは感謝を伝える日”」
トレイは深々とため息をついて「なんて紛らわしい……」と嘆いた。
「まぁ、いいか。確か、その日は休日でしたよね。昼過ぎまでで良ければ空けますよ」
「やった! ありがとうございます!」
ヒトハはピョンと跳ねて喜んだ。料理は不得意だが、トレイが手伝ってくれると言うのなら、ほとんど成功したようなものである。
「材料費をいただけるなら、何でもない日のパーティーの準備ついでに材料を用意しておきますけど」
「い、いいんですか!? では、お言葉に甘えて……。あ、もちろん、ちゃんと色を付けてお渡ししますね。お遣い、よろしくお願いします!」
それではまた連絡します、とヒトハは片手を大きく振りながら去っていく。それを見送り、トレイは眉間を揉んだ。
「ヒトハさん、こういうことには気が利くんだけどな……」
どうしてああいうことには気が利かないのか。いや、鈍感なのか。ある意味では純粋ともいえるのかもしれない。
それに振り回される教師が、ただ少し、不憫だった。
***
「あーほんと、休日まで課題漬けとかやってらんないよなー」
「今回のクルーウェル先生の課題、何回やっても成功しなかったな……」
エースとデュース、オンボロ寮の監督生、そしてグリムの三人と一匹は、担任であるクルーウェルの“癖が強すぎる課題”について、文句を垂らしながら校舎を歩いていた。
彼の出した課題があまりにも難しく、休日になる今日まで完成しなかったのだ。元々、生徒もとい仔犬への躾に余念のない教師である。普段から厳しく無理難題を課してきたが、今回は一段と酷かった。
三人寄ればなんとやら、とやっとの思いで朝から課題の魔法薬を仕上げると、時刻は正午を回っていて、そろそろ昼食の頃合いである。
オンボロ寮で適当に何か食べようか、と話し合う最中、ふと監督生が遠くを見ながら「いい匂いがする」と呟いた。
「お? なんか甘い匂いすんね」
「大食堂のほうか? クローバー先輩が何か作ってるのかな……」
ほのかにチョコレートのような、甘く、ほろ苦い香りがする。
トレイが大食堂の厨房でお菓子作りをしていると、こんな風に甘い香りが漂ってくるのだ。厨房に顔を出せば試作や余りを分け与えてくれることもあって、三人と一匹はほんの少しの期待を込めて、行き先を大食堂に決めた。
が、そこにあったのは惨憺たる光景だった。
「と……トレイ先輩────!」
三人と一匹の目に飛び込んできたのは、調理台に両手をついて項垂れる先輩と、焼き上がったらしいケーキのスポンジを手に天を仰ぎ見る清掃員。調理台の上はトレイが作業をするときには見ないような荒れ方をしていて、ケーキのスポンジだったような物が陳列されている。
「あ、ああ、お前たちか」
トレイは眼鏡のつるを指で持ち上げ、エースたちのほうへ顔を向けた。どこかぼんやりとしていて、とても正午過ぎとは思えない疲労感が滲み出ている。
「大丈夫ですか、クローバー先輩!」
デュースが駆け寄ると、トレイは苦々しく笑った。
「はは……いや、大丈夫。想定外だったんだ。まさかヒトハさんが、ここまで料理ができなかったとは」
「え?」
三人と一匹はぐるりと首を回して、ケーキのスポンジを手にしたまま、立ち尽くす女性に目をやった。
「ええ、はい、大体全部、一から十まで、私のせいです」
この惨状の犯人は正直に白状しながら、遠い目をしていた。
ヒトハの持つスポンジは何度も制作を繰り返した結果、最も出来がいいものだった。調理台に並べられた物体に比べてしっかりとした円柱型になっていて、色も鮮やかなチョコレート色に染まっている。
「いや、そもそも何でそこまでしてケーキ作ってんの?」
「えっと、それはですね……」
ヒトハはエースの素朴な疑問に対して、先日トレイにした説明そのままに答えた。
それを聞いた三人と一匹はトレイと同じように「紛らわしい……」と口を揃えたが、この風習が当たり前のヒトハにはいまいちピンとこない。そんなに複雑なイベントではないはずだが、他国から見ればそうなのかもしれなかった。
「それで、待ち合わせは何時でしたっけ?」
トレイが思い出したように言って、ヒトハはハッとした。朝早くから付き合ってもらったのに、もう時刻は正午過ぎ。予定では、ほとんど出来上がっているはずだった。
「あと……一時間後ですね……」
そこにあるのは飾り気のないチョコレート色のスポンジがひとつ。与えられた課題は、これを一時間以内に飾りつけ、目的の人物のいるところに届けること。
クルーウェルの無理難題をこなしてきた三人と一匹ですらも「さすがに無理ではないか」と思わざるを得なかった。
しかし意を決したようにデュースは拳を握る。
「ヒトハさん! 僕も手伝います!」
「デュースくん!」
デュースの隣で、オンボロ寮の監督生が頷く。
「げ! やめとけって!」
ふたりに対して、エースはまったく気乗りがしない様子だ。残り一時間しかないうえに利益になることは何一つもなく、無理もない判断である。
しかしグリムだけは少し違って、ふさふさの前足を腰に当てて考え込むと、ぎざぎざの歯を見せながらニヤリとした。
「クルーウェルのやつに日頃の感謝を伝えるんだろ? それならこれで恩を売っておけば、きっと次の課題が少しは楽になるんだゾ!」
つまり、賄賂である。監督生は額を押さえて呆れたが、このグリムのろくでもない考えはエースの天秤を反対側に傾けた。
「恩を売るとは違うような気がするけど……ま、確かにそうかもね。手伝ってやろうじゃん」
グリムの手も借りたいヒトハにとっては願ってもない申し出である。
「みんな……! ありがとうございます!」
ヒトハが涙を浮かべながら感謝を述べると、トレイは注目を集めるように手を叩いた。
「よし! そうと決まったら忙しいぞ。なるべく簡単に、見栄えがするケーキを作らないとな」
こうして半分不純な動機で始まったケーキ作りは、五人と一匹によって大急ぎで進められた。フルーツを切る作業も生クリームを泡立てる作業も、全員で分担すればあっという間だ。
前科のあるヒトハは生クリームに加えるチョコレートを溶かすという単純作業を振り分けられた。ただひたすらに板状のチョコレートを刻むくらいなら、いくら料理下手でもできる。どうせ溶かしてしまえば、形なんて関係ない。
「これを使うとよいぞ」
チョコを刻み終えたところで、視界にサッとハーブのような葉っぱが入り込む。作業を中断し、ヒトハは顔を上げた。そこには葉っぱを片手にニコニコとしている美少年がいた。
──リリア・ヴァンルージュ。ディアソムニア寮の三年生で、あのマレウス・ドラコニアのお目付け役だ。
「あれはジャングルの奥地に足を運んだときのこと……」
彼は大きな瞳を瞼で覆い、遠い記憶に思いを馳せた。
「わしはそこで出会った青年と、ひと月もの間共に過ごし、魔物を狩り、友情を育んだ。そして別れの日、青年は代々伝わる秘密の薬草をわしに教えてくれたのじゃ。『これは刺激的で大人な味がする』……と」
「いや、その草は……って、リリア!? どうしてここに……」
トレイが目を見開き、絶望感にあふれた声で叫ぶ。厨房はその声で一瞬にして凍り付いた。
訳を知らないヒトハは首を傾げることしかできない。
はて、リリアはそんなに問題のある生徒だっただろうか。少々悪戯好きが過ぎるくらいのものだったと思うのだが。
そんな周りの反応を気にすることもなく、リリアは大きな瞳を細めて笑った。
「なに、セベクが『小腹が空いた』とぼやくものだから、ひとつ振る舞ってやろうかと思ってな」
「そ、そうか……。あっちの調理台は使わないから、好きに使ってくれ」
トレイは広々とした厨房にある、まだ使っていない調理台を指差した。
「おお、助かる」
リリアはその調理台のほうへ向かった──かと思いきや、ヒトハの傍で作業を興味深く眺める。
「何を作っておるんじゃ?」
「えっと、クルーウェル先生にチョコレートケーキを……」
細かい説明をしている暇はない。ヒトハがチョコレートを溶かしながら簡単に答えると、リリアは「なんと!」と大げさなくらいに驚いた。
「あのクルーウェルに! 愛しい子らにケーキをプレゼントしてもらうとは、あの教師も幸せ者よの!」
それはもう嬉しそうに言うものだから、誰も訂正することができなかった。今回の目的は女性から男性に──つまりヒトハからクルーウェルにお菓子を贈ることだということを。それからついでに、クルーウェルが自分たちを愛しているかどうかは、定かではないということを。
何も知らないリリアは愛情深いヒトハと生徒たちに感動して、セベクのために用意していたであろう食材を喜んで差し出した。
「この実はトッピングに使うと良い。彩りになるぞ」
再びヒトハの前に赤い実が差し出される。確かに、ちょっといいお店で見たことがあるような、お洒落な実だ。例えば、ローストビーフとかに載っているような。
「へぇ」
ヒトハが手に取ろうとしたのを見咎めたのは、またしても厨房の監督生、トレイである。
「待て待て待て! 先生が死んでしまうぞ!」
「死ぬの!?」
ヒトハは慌てて手を引っ込めた。
「まさか! 栄養たっぷりの実じゃよ! ……まぁ、ちと味は刺激が強すぎるかも?」
リリアは物騒なことを言いながら、こてんと可愛らしく首を傾げる。まるで悪意がなさそうで、そこがまた厄介だ。
ヒトハはそこでやっと、厨房にいる生徒たちがリリアの登場を警戒していた理由に気がついた。どうやら彼は自分と同じく、かなりの料理下手である。
はぁ、と大きなため息をつき、トレイは眼鏡のつるを持ち上げた。
「やれやれ、あまり手荒な真似はしたくないんだが。時間も無いのに滅茶苦茶にされるわけにはいかないからな」
トレイが低い声で言いながら、胸ポケットからマジカルペンを取り出す。いつも穏やかにしているはずの彼の顔には、見たこともない凄みがあった。
「わし、何もしておらんのにー!」
「ななな、なんで私まで!?」
ヒトハとリリアは揃って魔法にかけられた。後ろ手に両手を縛られて厨房の隅に放置されるという、悲しすぎる魔法である。
リリアは「とほほ」と嘆きながら落ち込んだふりをしている。完全なとばっちりに、ヒトハは深くため息を吐いた。
遠くでデュースと監督生が申し訳なさそうにしていたが、エースとグリムはまるで笑いを堪える気がない。さすがに腹が立ったが、彼らを邪魔するということはすなわち、約束の時間に遅刻をするということである。幸いにしてチョコレートを溶かすという役割を終えていたヒトハは、観念して厨房の脇で素直に立たされることにした。
厨房全体が見渡せるこの位置は、時間に間に合わせようと必死にケーキを作っている生徒たちの姿がよく見える。
ツンとわき腹を肘で小突かれて、ヒトハはリリアに目を移した。
「縛られておるのに嬉しそうじゃな」
「へ、変態みたいに言わないでくださいよ……」
ヒトハは緩んでいた頬を引き締めた。縛られて喜んでいるわけではない。この光景を「悪くないな」と思っただけだ。
元をたどれば、料理下手なくせにバレンタインデーのお菓子を作ろうとした自分のせいだ。トレイの休日を奪ってしまったし、そのくせ大して役にも立たない。エースやデュース、オンボロ寮の監督生やグリムにも手伝わせてしまった。
それでも、この光景は悪くない。言えた立場ではないと分かっていながら、そう思ってしまった。
「日頃の感謝を伝えるのに、男の子も女の子も関係ないな、って」
リリアが言った「愛する子らにケーキをプレゼントしてもらうとは」「あの教師も幸せ者」というのは、あながち間違いではないのかもしれない。
日ごろの感謝を込めて、今日という日に、彼が一番幸せになれることは何だろうと考える。
「先生も生徒たちが作ったケーキを貰ったら嬉しいと思うので、これで良かったんじゃないかなと。動機は一部不純ですけど……」
リリアはうんうん、と深く頷いた。
「お主のその気持ちも、きっと伝わるじゃろう」
そうだろうか。そうだったら嬉しい。
ヒトハは微笑んだ。
「でも企画元の私が縛られてるの、やっぱりおかしいですよね」
「それは……ごめんね? じゃな」
「もー」
それからしばらくして、トレイたちが一つの調理台を囲んだ。中心であれやこれやとしていたかと思うと、わっと歓声が上がる。待ち合わせの十分ほど前に、ついにケーキが白い箱に収められたのだ。やり切った生徒たちの顔を見るに、どうやら会心の出来のようである。
そして彼らは息つく間もなく、大人しくしていたヒトハに「待ち合わせ場所は!?」と詰め寄った。
「正門の近くで……」
顎を引いて答えるヒトハの背を押して「急ぎましょう!」と強く言ったのは、オンボロ寮の監督生である。
「崩したらまずい。慎重に行くぞ」
「おー!」
ケーキの箱を手にしたトレイに続いて、ぞろぞろと厨房を後にする生徒たち。リリアもスキップしながら彼らについて行って……
「…………いやっ! いやいやいや! もう紐解いてくださいよ! 痛いんですよこれ!? ハムとかに巻くやつじゃないですか!」
待って! と叫びながら、ヒトハは厨房を飛び出した。
六人と一匹の大所帯でバタバタと正門の近くまでたどり着くと、そこにはもう目的の人物が待っていた。普段と違う雰囲気を纏っているのに、髪色だけは相変わらず白黒の、よく目立つ男だ。
「先生ー!」
腕時計に目を落としていたクルーウェルは、突然の生徒たちの声に驚いて肩を跳ねさせた。自分の担当するクラスの三人と一匹に加え、トレイならまだしも、なぜか寮がまったく異なるリリアまでいるのだ。
「これは……一体どういうことだ?」
クルーウェルは待ち合わせてもないのにやって来た生徒たちを見渡し、ヒトハに目をやった。全員の一番後ろでニコニコとしているのが不可解なのか、「説明しろ」と目で訴えかけてくる。
「先生、いつもありがとうございます! これ、受け取ってください!」
「は?」
代表して白い箱を差し出したのは彼の担当するクラスの三人と一匹。
しかしクルーウェルは突然差し出された箱を前に狼狽えた。休日に会えないかと言われて待ち合わせ場所に行ったら、本来いるはずのない生徒たちに謎の箱を差し出されたのだ。しかも、なぜか感謝されている。訳が分からないのも当然である。
クルーウェルは自らが躾けるべき仔犬たちに対して、生易しい指導をすることはない。むしろ嫌がられていると分かっていて無理難題を課している。それが名門校に選ばれた有望な魔法士の卵たちにとって、必要なことだと知っているから。
けれど大抵の場合、生徒たちは社会に身を投じるまで、この教育の意味を理解できない。減らず口を叩くだけで、感謝を表すことはほとんどないのだ。彼にはそれが骨の髄まで染みているのだろう。
一向に警戒を解かないクルーウェルの様子を見かねて、ヒトハはやっと口を開いた。
「先生、今日は〈バレンタインデー〉って言って、私の故郷では贈り物をして愛の告白、もしくはお世話になった人に日頃の感謝を伝える日なんですよ。だから今日はみんなでケーキを作ってきたんです。いつもお世話になってる先生のために」
「告白? 感謝? 紛らわしい日だな……」
彼はまだ少し納得がいかない様子だったが、ようやく差し出された箱を受け取った。
「よく分からないが、お前たちの気持ちは分かった。ありがたく受け取ろう。……まさか、賄賂などではないだろうしな?」
エースとグリムがびくりと肩を揺らして顔を見合わせる。
「そんなまさか、ねぇ?」
「そ、そんなことないんだゾ……」
魂胆がほんの少し透けて見えたが、それもひっくるめて可愛い贈り物である。
ヒトハは仔犬たちと飼い主のじゃれ合いを微笑ましく見守りながら、一年に一度の一大イベントが終わった達成感に満ち溢れていた。
(終わった~!)
また一年後にやって来るが、今度は今回よりも少し早めに準備を始めれば、きっと完璧だ。
「では俺たちはこれで。良い一日を」
トレイが言うと、他の生徒たちはその後ろをぞろぞろと追った。「渡すものは渡したから用は済んだ」とばかりの潔さは、実にナイトレイブンカレッジ生らしい行動である。
「お前たち、余分な材料で作っていたものがあるんだが、食べるか?」
「食べまーす!」
後輩たちは片手をあげて喜んだ。そんな和やかな去り際に、自然と混じる小柄な青年がひとり。
「楽しみじゃな〜」
と言いながら、さっさとみんなについて行こうとするリリアの両腕は、すでに解放されている。ぎょっとして、ヒトハは未だ自由になっていない両腕をもぞもぞとさせながら叫んだ。
「リリアくん、紐は!? 待って! 紐! 私の紐は!?」
ヒトハは生徒たちの背を追いかけるべく走り出そうとして──その後ろ襟を素早く掴まれる。
「ステイ」
「ぐう」
クルーウェルは生徒たちを追うことも引き止めることも一切しなかったくせに、ヒトハだけは逃がさなかった。掴まれた襟はいくら引っ張ってもびくともせず、喉を詰まらせて咳き込む。
彼はそんなヒトハの両腕を見て、不思議そうに言った。
「ん? 何でお前は縛られているんだ? これはハムに巻く紐じゃないか?」
「やっぱハムですよね……じゃなくて! これには深い事情があるんです! あ、先生、今日はおめかししてますね? よくお似合いで。これから何か用事でも? 邪魔したら悪いので、私は帰りますね。では」
逃げ帰ろうとするヒトハを引き戻し、クルーウェルは険しく眉を寄せた。
「ステイと言っているだろうが。この俺の休日を奪っておきながら、簡単に帰れると思うなよ」
「そんな」
トレイの作ったお菓子を食べたかったのに。余りもので作ったトライフル。苺と生クリームとカスタード。ああ、ご褒美に食べたかった。がっくりと肩を落とす。
ヒトハが完全に逃げるのを諦めると、クルーウェルは掴んでいた後ろ襟をパッと手放した。しょぼくれた顔をしているヒトハを前に、妙案を思いついたとばかりに深い笑みを浮かべる。
「そういえば、今日は贈り物をして愛の告白か感謝を伝える日……だったか? それで、お前は俺に何をくれるんだ?」
何を言われるのかと思えば、先ほどのバレンタインデーについての話である。ヒトハは目をまばたいた。
「そこにケーキがあるじゃないですか」
「これは仔犬どもから貰ったんだ」
へにゃりと口を曲げる。
自分は今、この男のちょっとした意地悪に付き合わされている。今日は何も持っていないことくらい、見ればわかるだろうに。
とはいえ何か言わないと解放してくれそうにもない。ヒトハは何か意外性のあるもので、適当にお茶を濁してしまおうと考えた。
「わ」
「わ?」
「“私”…………なんちゃって。えへ」
サーッと空気が凍っていくのを感じる。
「ふぅん?」
ひえびえとした銀の瞳に見つめられて、ヒトハは反対に耳を熱くした。
「これは……笑って欲しかったですね……」
自分の絶望的なユーモアのセンスが憎い。じゃあ一体何が正解だったのか。何も思い浮かばない。浮かびようもない。こんな状況では。
ぷっ、と小さく吹き出す声がする。
「……ま、それでいいか」
クルーウェルは堪えていたものを吐き出すように笑うと、ヒトハの腕を引っ張った。学外へ向かいながら、先ほど受け取った白い箱を持ち上げる。
「手始めにケーキをどうにかしないことにはな。付き合えよ」
「え? でも、ケーキはみんなから先生へ贈ったものなので……」
「あのな、お前は俺ひとりにこの量のケーキを食べさせる気か? どうせ今日は一日空けてるんだ。最後まで付き合ってもらうからな。今日は“愛の告白をする日”で“贈り物にお前が貰える日”、なんだろう?」
そうしてやっと、ヒトハは自分が何を口走ったのかを思い知った。
「いやですね、先生 。冗談に決まってるじゃないですか」
「…………」
「……え? え? わ、私とか、いらないでしょう? いらないですよね? ね?」
彼は立ち止まると、ぐるりと振り返った。焦って答えを求めるヒトハの顎を掬い、シルバーグレーの目を細める。憎たらしくも、彼にはそれができてしまう。跳ね除けるための両手が塞がっているので。
「いや? 『いる』な。せっかくの愛の告白を無碍にはできまい?」
今日は女性が想いを寄せる男性に贈り物をして告白をする日、もしくは日頃の感謝を込めて贈り物をする日。
「ちょうどいいリボンも付いていることだ。俄然、今日が楽しみになってきたな?」
「いや、これハムの紐……じゃなくて! 私、何をさせられるんです!?」
「さぁ? どうしてやろうか?」
くつくつと怪しく笑う声がする。
ああ、確かに紛らわしい日だ。ずるずると引きずられながら、ヒトハは切に願った。
(せめてアンハッピーバレンタインデーになりませんように!)
※コメントは最大10000文字、5回まで送信できます