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満月の夜のこと
こっぴどく振られてしまった。長く付き合った彼女に、なんの前触れもなく。
よくよく考えれば思い当たることがないわけでもなかった。どこか優柔不断で、前に進むことも、後ろに退くこともできなかった不甲斐なさが招いたのだろう。
家に帰る気にもなれず、小雨の降る夜の街中で肩を濡らしながら歩いていると、一軒のバーが目に入った。店先ですらりと身長の高い男が電話をしている。白と黒と赤のコントラストが激しい派手な男だが、なかなかそれが様になっていた。彼女はきっと、ああいうハッキリしたような男が良かったのだ。今更気がついたって、しょうがないことだが。
男はほとんど自棄になって、吸い寄せられるように店の扉を押し開けた。
カウンターにはすでに数人がぽつりぽつりと座っていたが、全員がひと席かふた席空けてのおひとり様だった。隅で飲もうにも、誰かと隣り合わせは避けられない。
男はバーテンダーの案内で、ひとりで頬杖をついている女性の隣に腰を下ろした。彼女はしばらくこの店にいるのか、空のグラスを前にして、ぼうっとしている。
ひとまず何か注文をしようとして腕をカウンターに載せたとき、その女性に肘が当たってしまったのは、本当に偶然のことだった。
「あっ、ごめんなさい」
女性は目を見開き、慌てて上半身を逸らした。飲み物がこぼれていないのをさっと確認し、体がぶつかっただけだと気がつくと、ホッと息をつく。極東寄りの甘い顔立ちが印象的な女性だ。
「おひとりですか?」
「ええ、今は……」
彼女は気まずく視線を脇に向けた。空のグラスがひとつ取り残されている。先ほどまで誰かと一緒にいたのかもしれない。
男は彼女の言う「今は」という言葉がどうにも引っかかって、ほんの少し、興味を抱いた。
男がひとつふたつと他愛のない話を投げかけると、女性は控えめながらも楽しそうに言葉を返した。話の内容はここへはよく来るのかとか、今夜の天気のことだとか、そういった当たり障りのないことだ。
途中、女性のグラスが空いていることが気になって、男は二杯目の注文で同じものをもう一杯頼んだ。彼女は追加の一杯が自分のものだと気がつくと「私、今日はもう……」と断りかけたが、目の前に青紫のカクテルグラスが置かれると、眉を下げて「ありがとうございます」と小さく礼を言ったのだった。
この日はなんとなく気分が向いたのだ。
普段なら選ばない鮮やかな青紫のカクテルは、甘味があり、華やかな香りがする。適当にアルコールを入れて気を晴らそうと思っていたが、こうして楽しく会話ができる相手がいて、まして今はおひとり様の彼女と出会えたのなら、これほど相応しいものはなかった。
それは二杯目のグラスが空きかけたときのことだった。彼女は仕事の話に相槌を打っていたかと思うと、突然パッと眉を上げた。
「お帰りなさい」
彼女が嬉しそうに迎えたのは、先ほど店先で電話をしていた男性だった。予想外の長電話だったのか、肩と足元を濡らし、少し苛立った顔をしている。
彼は彼女のそばに立ち、一瞬だけこちらに目を向けたかと思うと、彼女の前に置かれたグラスに視線を落とした。形の良い眉を少しだけ動かし、片側の口の端を吊り上げて「ふぅん、いい趣味をしているな」と薄く笑う。言われた彼女はグラスの脚を指先で摘んだまま、首を傾げた。
「いえ、これは──あ」
と、彼女が言い終わる前に、彼は彼女の手から当たり前のようにグラスを攫った。一口に飲み干し、タン、とわざとらしく音を立てながらテーブルに置く。
「これはお前にはまだ早い。帰るぞ」
「ちょっと、先生」
そう言ってさっさと会計を済ませて出て行こうとするのを、彼女は慌てて追いかけた。去り際に申し訳なさそうに頭を下げていくものだから、「悪いことをしてしまった」と苦い後悔が残る。
失恋の悲しさから、パートナーのいる女性に一瞬でも熱を上げてしまった。よくよく考えたら終始遠慮がちな態度だったし、もしかしたら嫌がっていたのかもしれない。こういうところが駄目だというのに。今日は本当に悪い日だ。
深々とため息をついて額を抑えていると、「あの」と控えめに声がかかる。
「先ほどの方から……」
年若いバーテンダーは躊躇いがちに男の前にカクテルグラスを置いた。青紫に色づいたカクテルは、つい先ほどまで彼女の目の前にあったものと同じだ。
男は訳も分からず、それを手に取って、すぐに思い至った。
(嫌なやつ……)
ふたりの男が頼んだカクテルは〈ブルームーン〉。数年に一度、満月がひと月に二度見れる珍しい現象が起きるという。その二度目の満月が青く見えることからブルームーンと呼ばれているわけだが──この名を持つカクテルには複数の意味がある。
滅多にないこと、決してあり得ないことを由来として『幸福な瞬間』、あるいは、『お断り』とも。
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