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清掃員さんと先生の酷い一日
酷い一日だった。
クルーウェルはネクタイを緩めながらグラスを手に取った。氷が涼やかな音を鳴らしながら琥珀色の中で揺れる。酒はワインをよく嗜むが、こういう日はウイスキーを選ぶと決めていた。
明日は休みで、今日はこのまま怠惰に過ごすつもりだ。帰宅するなりソファの背に放ったコートも、脇に投げ置いた鞄も、片付けは明日でいい。
しかし悲しきかな、そんなときにも気がつけば酷い回答用紙と枯れてしまった薬草、終わりの見えない会議に部活動のトラブルと問題の数々が頭に浮かんでしまう。勉強を教えるだけでいいと思っていたこの仕事も膨れに膨れ、今や初出勤日に大ドジをかました清掃員のために魔法薬を作ってやるまでになっていた。
もはや人の短い一生に詰め込んでいい量ではなく、そのせいか、気を抜けば頭は学園でのことばかりだった。
(あいつ、まさか酔い潰れてないだろうな)
思い出すのは今日の放課後、嬉しそうにワインボトルを抱え、それを見せびらかしに来た清掃員ことヒトハ・ナガツキの姿である。
トレインに貰ったというワインは一目見て高価なもので、曰く「良い物を知るのも勉強」なのだと言う。酔えば手がつけられなくなる彼女に最も与えてはいけない物だ。トレインはもう巣立ったという自分の娘を思い出してか、なにかにつけて彼女を甘やかした。あの惨状を知れば、とてもではないが酒を譲ろうなどとは思わないだろう。
それにしても、あの満面の笑みである。
まるでお気に入りのおもちゃを見せびらかす犬のようだった。手にしている物がトレインから譲り受けたワインなのは、あまりにも可愛くなかったが。
クルーウェルは空のグラスを置き、なんとなしにスマホを手に取った。帰ったらテレビでマジフト観戦をするのだと上機嫌に言っていた彼女が、どうしても脳裏にちらついてしまう。
家で酒を飲んでいるが、来るか?
そんな傍から見れば迷惑なメッセージを送りつけてしまったのは、アルコールで少し気分が浮ついていたからに違いない。時刻は夜の九時を回っていて、相手は仮にも女性で、まして、そんな関係でもない。どうかしている。
彼女はどこか抜けてはいるが、常識はきっちりと弁えているほうだ。このふざけたメッセージも、どうせ冗談で済ませるだろう。そう思ってスマホをテーブルに伏せると、クルーウェルは二杯目を作りに、席を立った。
それは酒を飲むのにも飽きて、煙草でも吸うかとバルコニーに出る窓を開けようとしたときのことだった。
「なんだ……?」
こんな夜更けにもかかわらず、呼び鈴のけたたましい音が家中に響く。
クルーウェルは眉を寄せ、仕方なく火を点す前の煙草を指に挟んだまま玄関に向かい、扉を開け、そして閉じた。
「ちょ、ちょっと! ちょっと先生!? 私です、私!」
ドンドンと遠慮なく扉を叩く音を聞きながら、クルーウェルは眉間を押さえた。どうやら飲み過ぎてしまったのか、幻覚と幻聴に侵されているらしい。
「本当に来る奴がいるか?」
「いるじゃないですか、ここに」
再び開いた扉の先に、やはり頭ひとつ分小さな女性が口を曲げてこちらを見上げていた。
彼女はいつもきっちりと結い上げている髪を下ろし、いつかどこかで見繕ってやった緩いワンピースを着込み、そして片手に大きな袋を抱えていた。いかにも急いで来た様子で、しきりに前髪を手櫛で整えながら、「せっかく来たのに」とぶつぶつと文句を言っている。
「冗談に決まっているだろう。ハウスだ、ハウス」
クルーウェルは片手で追い払う仕草をしながら、鬱陶しく前髪を搔き上げた。
まさか本気にして家までやって来るとは思わなかったのだ。ここは仮にも異性の家で、時計の針はもう夜の十時に届く。一線を踏み越える覚悟もないくせに、のこのこ来ていい場所ではない。つまらない冗談で夜道を歩かせる羽目になったことは申し訳ないと思うが、そこまでだ。
せめて家まで送ってやるかと煙草を仕舞おうとしたところで、ヒトハは不満の声を上げた。
「もう! 先生が呼んだんですよ!? マジフトの試合、まだ終わってなかったのに!」
先生のおうちを散策するまで帰りません! などと言いながら強行突破しようとするのを慌てて引き止めると、彼女は「やめてください!」と、どっちの台詞か分からないことを言い出した。今に始まったことではないが、ヒトハ・ナガツキという清掃員は実に強情な女である。
「ステイ! 分かった分かったから、この家ではお利口にしていろ。いいな」
「はぁい」
渋々許すと、彼女は聞き分けのよさそうな声で返事をして、ついに室内へ足を踏み入れることに成功したのだった。
他人の家をモデルルームか何かと勘違いしているのか、彼女は興味深げに家具や家電を眺めては「高そう」と呟いた。
カーペットからテーブル、ソファ、キャビネット、照明に至るまで、素材からこだわりぬいたインテリアである。当然の感想ではあるが、彼女が言うと、どうにもチープに聞こえてならない。
クルーウェルはちょこまかとリビングを動き回るヒトハの後ろをついて回りながら嘆いた。
「はぁ……。お前、悪い男には捕まるなよ」
こんな夜更けに呼び出されて言うことを聞くような都合のいい女では先が思いやられる。
クルーウェルの親切な忠告に、ヒトハはきょとんと目をまばたいた。
「もう捕まってるじゃないですか」
先生に、と言いながら人差し指を立てるヒトハを見て、クルーウェルは顔をしかめた。
「……意味、分かってないな?」
「いやですね、先生。酔ってます?」
「お前にだけは言われたくない」
彼女は少しだけムッと口を曲げたが、結局よく分からなかったらしい。すぐに気を取り直し、遠くに視線を移した。
「先生、家でも葉っぱ育ててるんですか?」
葉っぱ、と呼ばれた物を見やる。それは大切に育ててきた観葉植物だった。手をかけた甲斐あって、ついに腰の高さを越え、葉は鮮やかな緑で彩られている。
「葉っぱじゃない。観葉植物だ」
「じゃ、あれは?」
「あれは……薬草だな」
「葉っぱじゃないですか」
と、ああ言えばこう言う可愛くない女である。魔法薬学室にある物と同じ物をめざとく見つけたことは、褒めるべきなのか、呆れるべきなのか悩ましいところだ。
「おい、日を跨ぐ前に帰れよ」
「え? 子どもじゃあるまいし。あと二時間もないですよ?」
ヒトハは当然のように言った。当分帰るつもりはないらしい。
(まさか)
そのつもりで来たのか?
「あ、これ重いので置かせてもらいますね」
ヒトハは答えを聞く前に、手にしていた大きな袋をドンとテーブルに置く。そのとき、ゴッと明らかに重い音がして、クルーウェルは悟った。
(こいつ、完全に飲みに来たな……)
念のため「どうなっても知らないからな」と忠告をしてみるものの、それを聞いて理解できるなら、最初からこんなことにはなっていないのだろう。「はい」と素直に分かったふりをしている姿は、実験室を逃げ回るマンドラゴラよりも遥かに憎らしかった。
壁掛けのテレビは我が家の二倍サイズ、ワインセラーが羨ましい、などのコメントを残しながら、ヒトハはようやく部屋の散策をやめて持ち込んだ袋を広げ始めた。
ワインやらチーズやら、酒のつまみがスルスルと袋から出てくる。
そこでふと、クルーウェルはヒトハが持ち込んだワインに目を留めた。それは今日の放課後に、彼女が見せびらかしに来た物だった。
「なんだ、開けてなかったのか」
「え? だって放課後に見せに行ったじゃないですか。先生も好きかと思って」
ヒトハはボトルを片手に首を傾げた。
どうやら放課後はワインを見せびらかしに来たのではなく、一緒に飲むつもりで持って来たようだ。
「いい心がけだな」
「でしょう?」
そう言って、彼女は目を細めながら得意げに笑う。
結局こういうところに絆されて、憎みきれないところがまた、憎いのだ。
こうして深夜から始まったふたりだけの酒盛りは、すでにお互いがそこそこ疲労を抱えていたおかげで、まったく派手なものではなかった。グラスにワインを注いで、少量の食べ物を摘む。会話はいつものように実のない雑談で、しばらく続けていると沈黙も増えたが、幸いにしてトレインから貰ったというワインは沈黙を埋めるに足る美味しさだった。
時計の針がとうに日を跨いでしまった頃、クルーウェルはヒトハが椅子に座りながらウトウトとしているのを見つけた。下手をしたら天板に頭をぶつけてしまいそうだ。
とはいえ今から自宅に帰すのは困難で、かといってこのまま放置もできない。どこかに寝かせてやろうかとは思うものの、選択肢はリビングのソファか寝室の二択しかなかった。
そこで寝室を譲ってやろうと思い至ったのは、決して下心があってのことではない。さすがに自分だけ寝室に向かうことは気が引けたからだ。
クルーウェルはヒトハの肩を揺すって「起きろ」と声をかけた。せめて部屋までたどり着いてもらわなければ困る。しかし当の本人は「ううん」と呻きながら動こうともしない。
「はぁ、まったくお前は」
こっちも激務で疲れているのに、と思うと、色々と配慮してきたことがどうでもよくなってくる。クルーウェルは両手をヒトハの脇に差し込み、子どもを抱えるように持ち上げた。
「ん、意外と軽いな」
「ふふ、だって先生が『痩せろ』って言うから。頑張っちゃいましたね」
そこでヒトハは意識を取り戻したのか、微睡みながらも掠れた声で言うと、とろとろと腕を首に伸ばして絡ませる。横抱きにしてやると落ち着かないのか、肩口の生地をぎゅっと握りしめた。誰がこのベストにアイロンをかけると思っているのか。
「先生、『太れ』とか『痩せろ』とか、注文多いんですよねぇ」
「悪かったな」
一体何が面白かったのか、彼女はクスクスと囁き程度の小さな笑い声を上げて、両足を宙で揺らした。
よくもこんな状況でこれだけ大胆になっておきながら、何も起きないとたかを括っているものだ。小言の一つでもくれてやりたかったが、こうも夢現では言ったところで無意味だろう。第一、正気ならこんなことはしないはずだ。酔いが醒めて自分が何をしたかを知れば、泡を吹いて卒倒してもおかしくはない。
クルーウェルはリビングを出て、その先にある扉を片手で軽く開けた。そして隙間に差し込んだ片足で扉を押し広げる。
廊下から入り込む薄い光だけが、暗い寝室を照らしていた。
ようやくベッドに下ろしてやると、ヒトハは完璧なベッドメイキングを崩しながら「ベッド広い」と独り言を呟く。ちゃっかり寝たまま枕の位置を調整するあたり、本当は眠くないのではないだろうか。からかわれているような気がして、いい気はしない。
「おい、まさかここまでして何事もなく帰れるとは思っていないだろうな?」
彼女の耳の横についた手のひらが、マットに沈み込む。ヒトハは乱れた髪の隙間から、ぼんやりと自分を覆う男を見上げていた。
わずかな光に照らされて潤んだ目元が扇情的に見えてしまうのは、アルコールと眠気のせいだろうか。口元に張り付いた髪を払ってやると、ヒトハは擽ったそうに身を捩った。その仕草一つに自制心を揺さぶられて、思わず手のひらに重心をかける。ベッドのスプリングは嫌な音を立てて軋んだ。
すると彼女は何が気に食わなかったのか、たちまち不快そうに眉を寄せた。
「ちょっと、うるさい」
「うるさい……?」
そして気怠げに呻きながらシーツを引っ掴むと、それをくるりと体に巻き付け、背を向けてしまったのだった。次の瞬間にはもう静かに寝息を立て始めている。
「おい、まさかこの状況で寝るのか?」
しかし熟睡中の白い塊に何かできる訳もなく。クルーウェルはシーツから縺れ出た髪を指で梳いてやり、今日一番のため息をついたのだった。
「お前……本当に悪い男にだけは捕まるなよ……」
などと言いながら、こんな時間に呼び出したのは紛れもなく自分だ。まさか来るとは思わなかったなんて、今にしてみればただの言い訳でしかない。今このとき、ほんのひと摘みの下心が胸に忍び寄ったことを思えば、結局のところ自分も大概〝悪い男〟である。
ただ今は、こうして無防備を晒すほどの信頼が惜しい。それだけが一線を越えずに済んでいる理由で、枷でもあった。
ついに寝室をまるまる奪われて、クルーウェルは仕方なくリビングのソファで体を横にした。
使い慣れたベッドと違って硬いし狭いし最悪である。スラックスのポケットにいつの間にか入っていた折れた煙草を適当に放り、大きく息を吐くと、今まで忘れていた疲れが思い出したかのようにどっと溢れてきた。
今日ばかりはシャワーも着替えも、とっ散らかったテーブルの片付けも、目が覚めてからでいい。
翌朝、寝室から聞こえる絶叫がいい目覚ましになることだろう。その後のことは、もう考えたくもないが。
ソファの背に掛かったコートを手繰り寄せて、クルーウェルは静かに目を覆った。やはりこの一日を締め括るのは、この一言に限る。
酷い一日だった。
***
片腕に怠さを感じ、いつものように寝返りを打ち、いつもと違う香りと肌触りに「ん?」と思わず掠れた声が出る。
ヒトハは重い瞼を半分開いて朝の淡い光を感じると、のっそりと体を起こした。
(……どこ?)
見覚えのないベッド、サイドテーブル。柔らかな枕も、無惨な姿にしてしまったシーツも、記憶にない。そうだ、記憶がないのだ。
昨日の夜、マジフトの後半戦を観ている最中にクルーウェルから連絡が来て、こんな夜に酒のお誘いなんて一体どうしたのだろうと慌てて家を出た。
彼は無意味なことはしないほうだし、夜中に呼び出すくらいだから、余程のことかと思ったのだ。
パジャマを手早く着替え、軽く化粧をして、いつか一緒に飲もうと思っていたワインを袋に詰める。鏡に写る自分の出来は八十点ほどだったが、彼が選んだ服を着ているのなら、ダメ出しはないはずだ。
そうして夜道を早足で歩いて行ったら、なぜか締め出された。まったく納得がいかない。聞けば冗談だと言うから、尚更納得がいかなくて半ば無理やり家に侵入したのだった。
「うう……それから、なんだっけ」
クルーウェルは自分で呼び出したくせに、やたらヒトハを帰らせたがった。そもそも冗談だと言っていたから、本当は夜中に他人が家に上がり込むのは嫌だったのだろう。
とはいえ、こちらも呼び出されて来たのだから目的は達成したい。持って来たワインを開けて、ほどほどに会話をしたら帰ろう。そう思ってコルクを抜いた。
そこからが曖昧だ。確か、ふわふわしたまま何か他愛のない話をした。記憶が霞がかったようにはっきりとしないのは、おそらくひどく眠かったからだ。思い出せるのは浮いたような感覚に心地よい温かさと、それから、絹糸の様な白い髪が薄い光で透けるさまと、シルバーグレーの瞳がとても綺麗で……
「わ゛────っ!?」
ヒトハは明らかに自分の物ではないベッドの上で悶絶した。今死ねば間違いなく死因は羞恥である。恥ずかしさで死ぬ。
今自分が素足でめちゃくちゃにしたシーツも、抱く勢いで一晩を共にした枕も、あの男のものだ。誰か他にいた形跡がないのだけが救いだが、しかしそれならあの記憶は何なのだ、と思うと、また頭がおかしくなりそうだった。
「うるさいぞ駄犬! 近所迷惑だろうが!」
「ひゃああああああ!」
部屋の扉が勢いよく開け放たれて、クルーウェルの怒鳴り声が響いた。
彼はとうに朝支度を終えたのか、いつも後ろに流している髪を下ろし、化粧をしていないくらいで、普段通りに身綺麗にしている。
ヒトハはこのベッドの主を前にして、ひどく狼狽えた。一度引き摺り出してしまった記憶がフラッシュバックして、冷や汗と同時に涙まで滲んでくる。
「先生、先生! 私は一体何を……何もしてませんよね!?」
クルーウェルは入り口に凭れて「はぁ」とひとつため息を落とした。その端正な顔には苦々しさが滲み出ている。
「安心しろ、何もしていない」
「ほ、ほんとですか? 本当に!?」
「ああ、していない。俺はな」
「してるじゃないですかー!」
ヒトハは体を丸めて嘆いた。なんせ印象的な光景だけを頭に残して、自分が何をしたかの記憶がない。そしてクルーウェルは一部始終を覚えているのだ。だからか、彼の言葉には妙に含蓄があった。
「あんな夜更けに呼び出した俺が言うのも何だが、これに懲りたら無防備に男の家には来ないことだ。今回はまぁ、お前もほとんど無害だったが、あれではいつ何が起きてもおかしくはない」
ヒトハはクルーウェルに諭されながら、下唇を噛んだ。
そうは言われても、だ。
何の意味もなく来たわけではない。そして夜中に呼び出されたことに対して、何も考えていなかったのかというと、そういうわけでもない。
「だって、先生が呼んだから来たんですよ!? 何かあったのかと……先生、元気ないのかなと思って……」
クルーウェルは無意味なことはしないほうだ。からかいが過ぎるときもあるが、無駄な負担をかけることもしない。そんな彼だから、何か必要があって呼ばれたのだと信じてやって来たのに。
クルーウェルはヒトハがシーツを握り締めながら肩を落とすのを見て、「悪かった」と静かに答えた。
「さすがに俺のために本気で来るとは思っていなかったんだ。お前がまさかここまで…………純真だったとは」
「なんか今、馬鹿にしました?」
「してない。褒めているんだ。お前は本当に…………お利口だな」
「馬鹿にしてる……」
ヒトハがぶつぶつと文句を言うと、クルーウェルはいつもよりいくらか穏やかに笑んで、入口に凭れていた体を起こした。
「朝食は?」
「……いただきます」
「よし、では身なりを整えて来るように。それもなかなか悪くない光景ではあるが、品に欠ける」
そう言い残して、ゆったりと部屋を後にしたクルーウェルを見送り、ヒトハはさっと視線を落とした。
部屋に二度目の絶叫が響き、廊下の向こうから笑い声が聞こえてくる。
穏やかな陽が差し込む寝室で。
ヒトハは息絶えたようにシーツの海に倒れ込んだ。それは間違いなく、酷い一日の始まりだった。
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