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清掃員さんと動物言語
「では次は教科書133ページ目の実験から行う。事前に実験方法に目を通しておくように」
クルーウェルがそう言うと、生徒たちは息も揃えず「はぁい」と気の抜けたような返事を返した。
まったく、今年の一年は勢いだけが売りのような問題児揃いだというのに、勉強のこととなると急に元気がなくなるからどうしようもない。そのうえ担任としてオンボロ寮の生徒まで抱える羽目になったのは、災難と言う他なかった。大抵は上の学年になるにつれて少しずつ従順になっていくものだが、この学年に限っては、果たして卒業までにどれだけ問題を起こされるか分かったものではない。
クルーウェルはぞろぞろと教室から出て行く生徒を見送りながら眉間を揉んだ。やっと午前中の授業が終わり、休憩が取れる。
やれやれと教科書一式を抱え、教室から出る。暖かな陽が射し込む外廊下を歩いていると、中庭に清掃員の姿を見つけた。
薄い水色のワンピースに白いエプロン、白い手袋。男ばかりの学園ではよく目立つ小柄な姿。彼女は木陰でしゃがみ込み、楽しそうに何かを撫でまわしていた。
「あ! 先生、こんにちは! いいところに!」
清掃員──ヒトハ・ナガツキはクルーウェルの姿を見つけると、大きく手を振った。いいところに、と言うくらいだから、何か厄介ごとで呼ばれているのだろうか。
気は乗らないが無視するわけにもいかず、クルーウェルは渋々中庭に出た。近づくと、彼女は手元にあったクリーム色の毛玉を抱きあげ、ずいとクルーウェルに突き出す。
「この子、さっき見つけたんですけど、どこに連れて行ったらいいですか?」
この子、と呼ばれた毛玉は片腕に抱えられるほどの小さな犬だった。ふわふわの綿毛で体を大きく見せているが、本体は小さくて軽い──ポメラニアンである。犬はすんすんと外の空気を嗅いでは、忙しなく周りを見渡していた。
ヒトハは犬の腹を撫でながら、人語で「どこから来たのかな?」と犬に問いかけた。当然分かるはずもなく、犬はしきりに首を捻って耳をぴくぴくと動かす。これは人の言葉を聞き取ろうとしている仕草である。
はぁ、とクルーウェルはため息を吐いた。
「動物言語を使えばいいだろう」
「ああ! 確かに!」
動物言語は魔法士であるからには真っ先に思いつきそうなものだが、長らく魔法から離れて生活していたという彼女にとっては非凡な案なのかもしれない。
彼女は犬を地面に降ろすと、軽く咳払いをした。
「では──わんわん、わん、わぉん、おぉん」
「?」
犬は首を傾げながら聴き入っていたが、最後には困ったように「クーン」と小さく鳴いた。ちらちらとこちらを見る目が「助けて」と訴えかけてくるようだった。
「何ひとつ伝わっていないようだが?」
「だって私、選択科目“猫語”でしたし」
つん、と口を尖らせながら言い訳をする彼女の目は、面白いほどに泳いでいた。それではなぜ自信満々に犬語を喋ろうとしたのか──やったことはあるが、どうしようもなく下手くそということである。
「はぁ、せっかくの昼休みが水の泡だ。“シット”、“ステイ”」
犬と一緒に人間も座ったが、まぁいい。
クルーウェルはそのまま、ヒトハに犬語の簡単な質問文を聴かせた。どこから来たのか問う、教科書の十数ページ以内にはある基礎中の基礎だ。ヒトハは難しそうな顔をしながらも、クルーウェルに続いて同じ文言を繰り返した。
「そう──そこは舌を巻いて、そこは巻かない。──違う、語尾は下げて────……ビークワイエット! おい、アカデミー卒と言ったな? どんな手を使って卒業したのか言ってみろ! 生まれたての仔犬の方がまだマシな発音だぞ!」
「わん……」
ヒトハは眉を下げるどころか肩まで丸めてしょんぼりとした。生徒を叱る時に見る姿そのままである。犬はクルーウェルとヒトハの顔を交互に見てハラハラした様子だ。
動物言語は専門ではないが、ここまでくると一文くらいは完璧に言わせたくなる。出来の悪い犬は徹底的に躾をしなければ気が済まない。
「先生、理系科目専門なのに動物言語もできるんですね」
「理系科目しかできない教師がいるものか。もう一度」
「えぇ……」
教鞭を手のひらに打ち付けて見せると、観念したのかヒトハはまた意味不明なイントネーションで「わんわん」と繰り返したのだった。
そのやり取りを数回繰り返してやっと形になってくると、だんだんと意味が通るようになってきた。このまま夜になるかと思ったくらいだったので、学歴詐称レベルから平均レベルまで引き上げられたのはなかなかの達成感だった。まさか専門外の教科を他人に指導する羽目になるとは思わなかったが。
ヒトハはクルーウェルのやっと納得のいったような顔を見て、しゃがみ込んで改めて犬に話しかけた。
「ワンワン、ワォン、オォン、ワン(どこから来たのですか?)」
何十分もかけて念入りに指導され、意味の分かる発音で話しかけた結果、犬が返したのは「ワォン」という一言だけだった。
「……なんて言ってます?」
「東から、垣根の隙間を潜ってきたらしい」
「全然わからなかったです」
ヒトハは少し納得のいかない様子で再び犬を撫でまわし始めた。このままでは犬を撫でまわして一日が終わる。
「スタンドアップ」
そう言うと、犬はともかくヒトハまで立ち上がった。
「そういえば、先生は犬の動物言語もできるのに、なんで犬にコマンドを使うんですか?」
「……なぜ指示する側が、指示される側に合わせなければならない」
「たしかに……?」
分かっているのか分かっていないのか、ヒトハは曖昧に納得した振りをしたが、クルーウェルにはお見通しだった。 この清掃員、隠しているつもりでも大体全部顔に出ている。
「おおかた動物言語の授業用の犬だろう。早く教室に連れて行け」
「わかりました」
ヒトハは犬を抱え東の方角へ向かおうとしたが、一歩踏み出したところで後ろから声がかかった。
「すみません、その犬見せてもらってもいいですか」
声を掛けてきたのはハーツラビュル寮の副寮長、トレイ・クローバーだった。眼鏡を指で押し上げながら、少し疲れた様子である。
「やっぱり、トレイン先生が探していた犬ですね。次の動物言語の授業で協力してもらう予定だったので助かりました」
「はい、どうぞ」
「見つけてくださってありがとうございます」
トレイはヒトハから犬を引き取ると片手に抱え、「では授業が始まるので、失礼します」と丁寧に言ってヒトハが向かう予定だった方角へ駆けていく。
クルーウェルはその姿を見送りながら昼休み終了の鐘を聞く羽目になり、結局、一分も休むことができなかった。
「……ナガツキ」
「はい」
「次に魔法薬学の教室に来る時は、図書館から『動物言語学の基礎Ⅰ』を借りてくるように」
ヒトハは何か言いたげに何度か口を開けたり閉じたりした後、ややあって「はい」と答えたのだった。
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