清掃員さんとハロウィーン(5/5)
トリック オア トリート!
ハロウィーンの夜。道の脇に並ぶジャック・オ・ランタンの灯りに照らされて、優しく手を引かれながら、ふわふわと歩いた。肌寒い季節だというのに、今日の夜はどこか暖かい。そこかしこに飾られた灯りから熱を感じるからか。それとも、導いてくれている手が温かいからなのか。
私は前を行く背中から目を離し、ゆっくりとまばたきをした。
遠くに見える景色は星と灯りが一つになって、まるで夜空が落ちてきたかのようだ。それは夢と現実の狭間のような、あるいは生と死の狭間のような光景。
この手が離れたら、きっと夜道に迷ってしまう。悪いゴーストに拐かされてしまうかも。だからどうか離さないで、最後まで連れて行って。
私を置いていかないで。
***
「んん」
ヒトハは鈍い頭痛に唸りながら、重い瞼を押し上げた。ひんやりとした何かに突っ伏して、しばらく眠り込んでしまっていたようだ。顔の前に横たわる腕が痺れを感じ始め、それが決して短い時間ではなかったことを思い知る。
最初に目に入ったのは青白い光。続いて不気味に光るジャック・オ・ランタン、ぼろ布に、おどろおどろしい発光塗料。そして、意味不明な機材。無機質さに覆われたこの部屋は、かすかに魔法薬学室の面影を残していた。
(あれ? どうしてここに?)
思い出そうにも記憶が靄がかったようで、何も思い出せない。ただこの頭の痛みといい、この記憶を失っている状況といい、酒が原因なのは確実だ。
ややあって起き上がろうとしたとき、ヒトハは肩に掛かっていたものを慌てて掬い上げた。見覚えのある上質な毛皮のコートは、その見た目に反してずいぶんと軽い。胸に抱えると温かく、実家の隣の家が飼っていた犬の毛並みによく似ていた。
「やっと目を覚ましたか」
「先生?」
クルーウェルが部屋の奥から疲れ切った顔で現れて、ヒトハは慌てて立ち上がった。「どうしてここにいるか分かるか?」と問うので、小さく首を横に振る。
「やはり何も覚えていないか」
クルーウェルはそう言ってヒトハの前に立ち、腕を組んだ。仕方のない子どもを見るかのような、呆れた目だ。
「薄々分かっているだろうが、お前は酒を飲んで酔った後、家への道のりの最中に寝た」
「寝た……」
「仕方がないから近場のここに避難させたというわけだ。ちなみにパーティーは終わっている」
案の定、まったくろくなことになっていない。つまり、酔った末に部屋に運ばせるという手間をかけさせた挙句、たどり着く前に寝たせいで、彼をこの魔法薬学室まで付き合わせたのだ。
パーティーは終わっていると言われたくらいだから、今が深夜であることは間違いない。
頭痛が酷くなっているような気がして、ヒトハは両腕に抱えたコートを引き寄せ、深々とため息をついた。ふわふわのものを抱えていれば多少なりとも落ち着くような気がしたが、案外そういうわけでもないらしい。
「で、どこまで覚えている?」
「どこって、先輩たちからお酒を勧められて、ちょっとだけ飲んで……」
問われるままに、ヒトハは朧気な記憶を掘り起こした。
ハロウィーンウィークの最後を彩るパーティーで、一週間の膨大な仕事を労うように先輩たちからたくさんのご馳走を勧められたのだ。彼らはヒトハにたらふく食べさせようとして、その間に「好きでしょう?」と酒を勧めた。せっかくの労いの気持ちを断ることもできず、始めはグラスを一杯──だったはずなのだが。
「まさか、ちょっとで済んでいない?」
「そうだな。ボトルを一本空けていた」
「い、一本……」
どうしたら一杯が一本に膨れ上がるというのか。まるで理解が追い付かないが、しかし、やらかしたのは紛れもなく自分だ。いつもいつも「気をつけろ」と注意されていたというのに。
ヒトハはしょんぼりと肩を落とした。
「すみません……」
それからヒトハは、おそるおそるクルーウェルを見上げた。
「あの、私が酔っている間、何かしませんでした……?」
ヒトハにとっての最大の問題は“これ”である。
酔っている最中のことをヒトハは覚えていない。覚えていないだけならいいが、どうやら行動がぶっ飛んでいるらしいのだ。いつも後からクルーウェルに聞かされては平謝りしている。今回も、絶対に何かをやらかしているはずだ。
「なんだ、知りたいのか?」
クルーウェルは顎を指でさすりながら、ニヤリと笑った。そして赤い手袋で覆われた手を差し出す。
「トリック・オア・トリート」
ヒトハは目を点にした。
ハロウィーンお決まりの台詞だ。数日前に面白半分でクルーウェルに言ってみたりもしたが、実際は大人から聞くのは珍しい台詞でもある。
先日の仕返しのつもりだろうか。相手が相手なだけに、まさか微笑ましいジョークでもあるまい。
嫌な予感がしながらも、ヒトハは正直に答えた。
「お菓子とか、持ってないですけど……」
ハロウィーンウィーク真っ只中なら常に持ち歩いていたものだが、今日は最終日の夜。当然、お菓子なんて持ち歩いてはいない。
クルーウェルはヒトハが何も持っていないことを知ると、満足そうに頷いた。
「よし、無いな。これで俺は大義名分を得たというわけだ」
「へ?」
ヒトハが間抜けな声を出すのと同時に、装飾用の青白い光がチカチカと点滅する。途端に不気味さを感じ始めて、ヒトハは首の裏を粟立たせた。
クルーウェルはヒトハの目の前を塞ぐように立ち、怪しくほくそ笑んだ。なんだかとてつもなく、嫌な予感がする。
「お前が何をしたか教えてやろう」
「は、はぁ……」
答えると、クルーウェルはヒトハの肩に手を置いた。
「お前は仔犬どもが卒業しても、俺とずっと一緒にいてくれるよな?」
「は?」
ヒトハは脈絡なく飛び出した言葉にぎょっとした。仔犬どもが卒業してもずっと一緒に、とは初めて聞く言葉だ。
クルーウェルとは学園で知り合ってからというもの、多くはないながらも苦楽を共にした仲である。嬉しくないわけではないが、改めて言われると、なんだか恥ずかしい。
ヒトハは真剣な目から逃れるように視線を彷徨わせ、しどろもどろに答えた。
「えっと、しばらくはいる予定ですけど、未来のことは私にも分からないというか……じゃなくて、何の話ですか、これ?」
あまりにも突拍子のない問いだったものだから、つい真剣に答えてしまった。今はそんな話をしている場合ではない。彼は酔ったときにしたことを教えてやろうと言ったのだ。
ヒトハは顎を引いたまま、そっと視線を上げた。彼はやはり真剣な顔をしていて、これは気まぐれな冗談ではないのだと思い知る。コートをぎゅっと抱え込んで再び俯こうとするヒトハに、クルーウェルは厳しく言った。
「こっちを見ろ」
「み……見ろと言われましても……」
なんでこんなことを言うのだろう。さっぱり分からない。
ヒトハの動揺をよそに、肩に載った彼の手はスルスルと二の腕を滑り、背に回り──気がつけば、ヒトハはぶ厚いコートごと抱きしめられていた。
「──なんで!?」
胸板に額が引っ付いている。抱いていたコートのおかげでかろうじて密着は避けられているが、超が付くほど至近距離だ。いまだかつて、これほどの力で抱きしめられたことがあっただろうか。いや、ない。むしろ、このように抱きしめられたことがない。必要性がないからである。
ヒトハはなんとか逃れようと腕で胸を押し返した。しかし抱きしめる力が強まるだけで、到底逃れることなどできなかった。
「あわ……あわわわわ……」
と変な声を漏らしながら青くなったり赤くなったりを繰り返しているヒトハを完全に無視して、暴走を続けるクルーウェルは耳元で囁く。
「ナガツキ、好きだ」
「ふぁっ!?」
その瞬間、ヒトハはふにゃりと腰を抜かしかけた。抱きしめられていなければ、その場で崩れ落ちていたことだろう。こんな雑な告白で落ちる女がいるものか、と理性は言うが、これほどまでの力技では無理からぬこと……と、本能が言っている。なんという低音ボイス。恐ろしい男。一体何人の女を泣かせてきたのか。
ともあれ、あのデイヴィス・クルーウェルが何の前触れもなく色気を振り撒くテロリストになってしまったのは、明らかな異常事態である。ヒトハは躊躇うことなく本能を蹴飛ばした。
「冗談キツいですよ、先生! 相手間違えてますって! ほんとに!」
「冗談? まさか」
クルーウェルは鼻で笑った。背中に回っていた手はスルスルと腰に落ちていき、たどったところから肌がぞくぞくと粟立つ。
「手つきがいやらしい!」
ヒトハは半泣きで胸を押しやった。が、びくともしない。バルガスに比べれば細身とはいえ、彼も男である。力では敵わないし、きっと魔法を使っても敵いやしないだろう。
すっかり熱くなった耳元で、喉を鳴らしながら笑う声がする。
「間違えるものか。俺はお前が欲しいんだ」
「ななな、なん、なな……」
「“お前が欲しい”」
「ゔゔ──っ!」
ヒトハは恥ずかしさのあまりに身もだえた。言い直す必要なんかないのに、よくも。
(死ぬ……!)
心にもないことを言っているのは最初から分かっている。それなのに、やたら熱のこもった声で喋るせいで、ひとこと聞く度に息が止まる思いがするのだ。
本当にその気になってしまったら、先生はどうするつもりなのだろう。一瞬だけ頭をよぎった考えが己の浅ましさを突き付けてくるようで、それがまたヒトハの心を抉った。そんなことになったって、自分が傷つくだけなのに。
「だめだめだめ! だめです! 先生! この、バッドボーイ! ここは青少年の学舎ですよ!?」
「大人しくしろ。俺はお前の飼い主だろうが」
「私は! 犬ではありません!!」
ジタバタと暴れ、息もたえだえに叫ぶ。さすがに煩かったのか、クルーウェルは眉をひそめて拘束を緩めた。せっかく力が緩んだというのに、体力的かつ精神的な限界が近い。ヒトハは肩で息をしながら萎れた。
「ごめんなさい……もう許して……」
ここまでされるなんて、酔っている最中に一体どれだけの逆鱗に触れたのだろう。それとも、獲物をいたぶるのが楽しいのだろうか。疲弊しきったヒトハには、もう判断がつかなかった。
クルーウェルはパッとヒトハを手放して、悪びれもせず言った。
「許すも何も、泥酔中のお前の行いを再現しているだけだが?」
「嘘です! うそうそ! 絶対そんなことしてないですもん!」
「いや、九割は合っていると思うぞ」
「九割も!?」
眩暈がする。こんな痴女、檻にでも放り込んでおいたほうがいい。行動で教えられると、今夜の“やらかし”がいかに悪質かがよく分かった。
それにしたって。ヒトハは思った。いつもこうなのだとしたら、どうして今日に限ってここぞとばかりにやり返してくるのだろう。
「私を弄んで楽しいですか……」
ヒトハは真っ赤に顔を茹で上がらせて唸った。クルーウェルはその姿を見て、ますます笑みを深くする。
「ああ、楽しいな。楽しすぎるくらいだ。──もう少し遊ぶか?」
犬の下顎を撫でてやるように、喉元から長い指が滑る。そのまま顔を持ち上げられ、ヒトハは完全に言葉を失くした。
この状況を面白がっているのは分かっている。分かっているのだが。頭がもうずっとぐちゃぐちゃで、胸が苦しい。「はいはい分かりました」と簡単にあしらえるだけの強さがあれば、こんな気持ちにならずに済んだのだろうか。
ヒトハはなんとか逃れようと、片手を彷徨わせた。そのとき、不意に指先が制服のポケットを掠め、そこに普段なら無いものが有ることに気がつく。
「なんだこれは」
ヒトハはそれをクルーウェルの目の前に突きつけた。カラフルな包装紙にハロウィーンのポップなイラストがあしらわれた、小さな飴だ。休憩時間にでも食べようかと持ち歩いていた、セベクから貰った“報酬”である。
クルーウェルはそれが何かを悟ると、大きく舌打ちをした。一方で、ヒトハは勝ち誇ったように口の端を吊り上げる。
「お菓子です!」
ヒトハはその飴を握りしめたまま、クルーウェルの胸を叩いた。
「分かったら早く退いてください! もう! 先生、嫌いです! 最低! 女の敵!」
「分かった。分かったから叩くな」
飴が赤い手袋に収まり、同時にクルーウェルは一歩下がった。
やっと解放されたヒトハは、背にしていた机に倒れ込む。体中が強張っていたせいか、酷く怠い。
「どうしてこんなことに……酔ってただけなのに……」
「ふん、これを機に改めるんだな」
クルーウェルは余裕たっぷりに鼻で笑った。自分はあんなにしんどい思いをしたというのに、彼にとっては屁でもないことなのだと思うと、憎さ百倍である。ヒトハは思いっきり鼻に皺を寄せて、「善処します」と忌々しく答えた。
「おい、コートを返せ。そんなに大事そうに抱えて、潰れているじゃないか。まさか、続きでもして欲しいのか?」
「はぁ!?」
ガバリと起き上がる。
「ば、ばばば馬鹿じゃないですか!? そんなわけないでしょう!」
ヒトハは知らずのうちに抱き締めていたコートを無理やりクルーウェルに押し付けた。続きなんて絶対に、絶対に、御免である。
そして彼が何かを言う前に、大股で魔法薬学室の出口へ向かった。早く帰って熱を冷まさなければ、明日の仕事に支障が出てしまう。明日はイベントの片付けに、普段の清掃に、やることが山ほどあるのだ。
扉に手をかけようとしたとき、ヒトハの顔の横からぬっと腕が伸びてきた。
「部屋まで送ろう」
「結構です!」
それがあまりに面白かったのか、クルーウェルは言葉の端々に笑いを含みながら、いきり立つヒトハをなだめた。
「まぁそう言うな。今夜はハロウィーンナイトだからな。手癖の悪い輩に悪戯されては困るだろう?」
「……それ、先生が言います?」
と不満を投げつけてやったものの、「それをお前が言うのか」と打ち返されては何も言えない。手でも繋いでやろうか? と差し出された手を払って、ヒトハは夜道を突き進んだ。
今夜のナイトレイブンカレッジはジャック・オ・ランタンの光と星々が一つになって、まるで夜空の中にあるようだ。それは夢で見た切なさが滲む景色ではない。ただただ明るく美しく、そして楽しげに輝く光景だった。
来年は後ろを歩く偏屈な教師と仮装をしてみるのもいいかもしれない。きっと、嫌がるだろうけど。
ヒトハは振り返った。
「先生、来年は一緒に仮装しましょうね」
すると彼は足を止め、二、三度、瞼を弾く。それから困ったように眉を下げ、笑ったのだった。
「考えておこう」
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