深雪の魔法士

13 深雪の魔法士

 クルーウェルは咄嗟に杖を違う方向に払った。地面に衝突寸前のヒトハを風の魔法で受け止める。着地寸前には両腕を伸ばして受け止めようとしたが、成人女性が降ってきたのを無事に受け止められる男など、アシュトン・バルガスくらいのものである。

「うわっ!」

 なだれるように積もった雪に倒れ込んで、クルーウェルは体にのしかかる女に青筋を立てながら怒鳴った。

「貴様!! 何で戻って来た!!」
「だって!!」

 ヒトハは両手をクルーウェルの耳の横について負けじと怒鳴る。

「私の役割は! ひとりで学園に帰ることじゃありません! 先生と一緒に帰るために、私にできることをすることだから!」

 ヒトハは肩を大きく上下させながら荒くなった息を整え、目の前で唖然とするクルーウェルを真っ直ぐに見据えた。お互い無事とは到底言えないほど酷い有様だが、生きている。間に合ったのだ。
 全身が切り刻まれるかのように痛い。魔法薬を飲んでもこの突き刺す寒さである。早いところ何とかこの状況を脱しなければ、不味いのは明らかだった。
 ヒトハは言葉を失くし、こちらを凝視するクルーウェルに言った。

「っていうか、それは置いといて」
「置いといて……?」

 そして痛みに激しい叫びを上げるオーバーブロットの化身に振り返る。相変わらず無茶苦茶な魔法で周囲を攻撃しているが、自分たちに意識を向ける余裕はないらしい。それも当然で、あのオーバーブロットの化身の頭部、インクボトルのようなガラスに枝が突き刺さっているのだ。さぞ痛いことだろう。

「よし! 刺さった!」
「刺さった?」

 クルーウェルが訝しむように言った。

「まぁ見ててください」

 ヒトハは杖を抜くと、それをヒュンと一振りした。ひ弱な火の玉が、複雑な軌道を描きながら枝へ向かっていく。
 クルーウェルがその枝を目を細めて見ながら

「あれは……箒か?」

 と口にした瞬間、強烈な爆風と共に化身の頭部が炎を上げながら爆ぜる。あまりに唐突な大爆発に、クルーウェルは咄嗟にヒトハを庇いながら声をひっくり返して叫んだ。

「なんだあれは!?」
「箒です!!」

 ヒトハも想像以上の爆音に両耳を手で押さえながら叫んだ。
 あれはあの粗末な小屋──いわゆる用具倉庫に仕舞われていた何の変哲もない箒だ。ちょっと硬化の魔法やら加速やらを付与して凶器にしてしまったが、ヒトハは途中まであれに乗ってここへ来た。
 クルーウェルはヒトハの回答では足りなかったのか、首を振りながら「いや、違う」と強張った顔で言う。

「この爆発のことだ」
「ああ」

 つまり、火種は何かという話だ。
 ヒトハは少し躊躇って目を逸らしながら答えた。

「サラマンダーの肝ですね」

 サラマンダーの肝。
 寒さを凌ぐための魔法薬に煎じられているという“火気厳禁”の素材、その未加工品である。
 ヒトハは倉庫で箒を手に入れた後、昨晩屋敷を散策したときに見つけた保管庫にひとっ飛びして、これをありったけ持ち出した。適当なカーテンをはぎ取って中身を包み、箒に搭載して簡易爆弾の出来上がりだ。
 浮遊魔法でぶつけても良かったが、いかんせん魔力の乏しいヒトハにはハードルが高い。だから箒でぶつけてやることにした。飛行術は得意中の得意だから狙いを外す気はしなかったし、途中で飛び降りる覚悟もあった。そこにきっと彼がいて、受け止めてくれると信じていたから。
 クルーウェルはこの極寒の地で汗を浮かべながら、ヒトハを凝視した。まるで得体の知れない化け物でも見ているかのような目だ。

「肝……盗んだのか……」
「いいえ、“拝借”したんです」

 ドンッ! と二発目の爆発音が鳴り響く。ヒトハは驚いてクルーウェルに縋りついた。二発目があるなんて聞いていない。

「ひぃ! やっぱりヤバい薬じゃないですか!!」

 その姿に呆れかえり、クルーウェルは顔をしかめながら、苦言を呈したのだった。

「ヤバいのはお前だ……」

 オーバーブロットの化身は完全に崩れ落ち、ついに動きを止めた。大量の黒い液体が大きな水たまりを作って、その中にずぶずぶと沈んでいく。それでもこの禍々しい空と荒れる天候は収まらなかった。

「まだ止まってないですね」

 ヒトハは寒さと疲労で自由に動かない体を起き上がらせ、クルーウェルが立ち上がるのを手伝った。この天候の中を箒で飛びまわり、使える限りの魔法を使って魔力は空っぽだ。それでもヒトハの目にはクルーウェルの疲労のほうが重く見えた。たったひとりでオーバーブロットに立ち向かったのだから当然だ。
 一刻も早く暖かい場所に行って、体を休めなければ。けれどまだ、この状況は本当の意味で解決してはいなかった。

「リオさん!」

 ヒトハは黒い水たまりの中で項垂れる青年に駆け寄った。
 リオは蒼白な顔に焦点の合わない目をしていた。生きてはいるが、辛うじて命が繋がっているに過ぎない。座り込む体に力はなく、今すぐにでも倒れてしまいそうだ。
 ヒトハは彼の腕に触れ、息を呑んだ。これほどのことがあっても、まだ体から魔力が少しずつ滲み出ている。それは完全に本人の意思に反しているもので、蓋のない瓶から流れ出ているようなものだった。今すぐ止めなければ命を落としてしまう。

「リオさん、大丈夫ですよ。心を静かに、ランタンを思い出して」

 聞こえているかは分からない。それでも、言わずにはいられなかった。
 彼はもう、その方法を知っているのだ。できないはずがない。

「ゆるして……」

 リオは突然、掠れる声で呟いた。緩く波打つ前髪の隙間から落ちる滴が、黒い水たまりに波紋を描く。

「ええ、もちろん許します」

 ヒトハはそっと腕を伸ばした。
 ただ少し他人より遅かっただけ。他人より強く生まれただけ。自分ではどうすることもできなかった彼に、一体何の罪があるというのだろうか。

「最初はみんな同じですからね」

 かつては自分も持て余した力で「物を飛ばしたり落としたりして大変だった」という。きっとこれは、それと同じことなのだ。
 ヒトハは傾くリオの体を抱き止めて「大丈夫ですよ」と背をさすった。そしてその手が静かに上下するたびに少しずつ魔力は小さくなっていき、最後にはぷつりと途切れ、彼の身体に収まっていったのだった。

「と、止まった……」

 それにしても、完全に意識を失った成人男性は重い。重すぎる。
 ヒトハは自分に全体重をかけて寄りかかる青年と一緒に倒れそうになりながら、必死で持ち堪えていた。このまま倒れたら硬い地面で頭を打ってしまう。

「ウェルダン。よくやったな」

 ぶるぶると震え始めた背に、とん、と手が回る。
 クルーウェルはヒトハにのしかかるリオを引き剥がして薄く雪の積もる地面に寝かせ、杖を手に取った。
 ヒトハが不安げにクルーウェルを見上げると、彼は疲労で落ちかけた瞼を押し上げて、いつものように尊大に笑う。

「俺は一度世話をすると決めたら最後まで世話する主義だからな。飼い主の基本だ」

 そう言って回復魔法を使おうとするのを、ヒトハは片手で押しとどめる。

「先生、だめです……」

 これ以上の魔法の使用は危険だ。クルーウェルの杖──指揮棒にぶら下がる魔法石はすでに濁っているし、そもそも体力が残っていない。傍から見てもボロボロの姿をしているというのに、これ以上無理をしては彼自身の命が危ない。
 ヒトハは事前に渡されていた回復用の小瓶をコートのポケットから取り出した。ここへ来るまでにほとんど使い切って、残りはこの一本だけだ。それを差し出そうというのに、彼はそれを手で押しやって受け取ろうとはしなかった。

「これはお前が使え。ひとっ走りして助けを呼んで来い」

 クルーウェルは戸惑うヒトハを置いて詠唱を始める。
 こんな状況で、この魔法薬一本口にしたくらいで、自分に一体どれほどのことができるというのか。分からないわけではないだろうに。

「だ、駄目です! こんな寒いところにふたりを残して行けません! せめて中に……」

 ヒトハは魔法の温かな光を感じながら声を荒げた。そしてクルーウェルの腕を引っ張ろうとして気がつく。彼はもう、意識が朦朧としていて立ち上がる気力もないのだ。これではリオを移動させるどころか自分自身も安全な場所に避難できない。

「待って、待って先生! 起きて! 起きてください!」

 ヒトハはクルーウェルの腕を揺さぶりながら必死に声をかけた。その努力も空しく、クルーウェルのぐらつく頭を抱きとめると、どうにもならない絶望感に力が抜けていく。自分の体力だってもうそんなに残っていないのに。
 肌に感じる寒さがより強くなっている。魔法薬の効果はもう切れかけていて、いよいよ死の足音が聞こえてきた。
 ヒトハはがちがちと奥歯を鳴らしながら、魔法薬の瓶を開け、震えながらそれを飲み干した。しかし体が少し軽くなるくらいで何も変わらない。強烈な寒さが急激に体力を奪っていくのだ。
 ヒトハはふたりのために思いつく限りの魔法を試みたが、結局何一つ役に立たなかった。回復してやることも、温めてやることも、安全な場所に運んでやることも、誰を呼ぶこともできない。

「私の魔法……役に立たない……」

 今まで自分の力にこれほどの絶望を抱いたことがあっただろうか。
 自分がこれまで学んできたものは一体何だったのか。こんなときに役に立たないのなら、魔法なんて使えたって意味がないのに。
 泣いても何も解決しないと分かっているのに、溢れてくるものが止められない。ヒトハはせめてもとふたりに覆いかぶさりながら、ぼんやりとし始めた頭の中で何度も嘆いた。

(私にもっと力があれば……もっと、もっと……)

 視界が白く染まっていく。音が遠くなっていく。体の感覚が抜けていく。意識が途切れる最後の瞬間に、ふと頬に柔らかいものが触れた。雪に混じり靡く波打つ髪。
 ──これは一体、何だったか。

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