深雪の魔法士
11 深雪の魔法士
明後日、ナイトレイブンカレッジに勤めている知人がここへ来る予定でね。お前と歳も近いだろうから、きっと話が合うだろう。
遠い国の大学で教鞭を執る父は、帰ってくるなりそう言って、嬉しそうに笑った。書斎の暖炉がパチパチと音を鳴らす。この屋敷は魔法石の力で充分暖められているはずだが、父はあえて薪を使って火を起こし、部屋を暖めたがる人だった。
僕はその音を聞きながら、ひと呼吸置いて「分かりました」と答える。自分もホリデー休暇で少し前に戻ったばかりだから、突然のことに少し驚いたのだ。こんな時期に客を招くというのは珍しい。きっと、父のお気に入りなのだろう。
「教え子ですか?」
「ああ、まぁ、そんなところだ。実に優秀な魔法士だよ。今回はお嬢さんをひとり連れてくるらしい」
これもまた実に楽しみだと笑いながら、父はデスクの上に並ぶ怪しい瓶の中から、一つ手に取って目を細める。懐かしさが滲んだ目の奥で、その教え子との出来事を思い出しているのだろうか。
父の書斎には夥しい量の本が壁一面に並び、デスクの上は専門だという魔法薬の素材や器具がほとんどを占領している。それらの用途は──魔法士ではないから、自分には分からない。父の手にしている魔法薬の素材も、何なのか分かりようもなかった。
もし自分が魔法士であったなら。それを考えない日はなかった。いつ魔法が発現するだろうかと期待する気持ちはとうの昔に捨て去ったものの、もしものことを考えてしまう自分は捨てきれなかったのだ。
もしも自分が父のように……父の教え子のように優秀な魔法士であったなら。父の喜びを素直に受け入れることができただろうか。自分も優秀な魔法士であるという父の教え子に、会ってみたいと心待ちにできただろうか。母も隣に立って、ふたりをどうもてなそうかと考えただろうか。
もしも、もしも、もしも。あり得ないと分かっているのに、未練がましく考えてしまう。
もしも優秀な魔法士が息子だったら、父はさぞ誇らしかっただろう。
胸にぽたりと落ちた染みが静かに広がっていく。それは広がって広がって、ついにすべてを黒く染め上げた。
なぜなら、染まってない場所なんて、もうほとんど残っていなかったから。
クルーウェルは素早く踵を返すと、部屋の奥にある大きな窓に向かった。
格子窓の外は絶えず雪が降り続けているが、朝の時間帯にしては妙に暗い。しかし夜のようで、夜ではない。空に渦巻く暗雲は、自然には起こり得ないものだ。屋敷の外はこの世とも思えない歪な空間になっていた。
クルーウェルは窓に片手をついて、空をじっと見ながら言った。
「まずいぞ」
彼は焦ったように窓から離れると、ベッドに座り込んだままのヒトハにいくつかの瓶を押し付けた。
「これは今すぐ飲め。これは予備。これは回復用だ」
飲めと押し付けられたのは、これまで飲み続けてきた寒さを凌ぐ魔法薬。そして回復用の魔法薬だ。ヒトハはそれぞれ一本だけ勢いよく煽り、残りは着たままのコートに突っ込んで、慌ててベッドから飛び降りた。まだ足元がふらつくが、この状況では落ち着くのを待ってはいられない。
「トランクは置いて行く。気は乗らないが、状況を確認しに行かねばならん。離れずついて来い」
「はい」
ヒトハは杖を片手に握りしめた。そして先導するクルーウェルの後ろにぴったりと付いて部屋を出る。廊下に出ると靴裏にひたひたとした嫌な感触が纏わりついた。廊下はあの謎の存在によって、床や天井に至るまで黒い液体で汚されているのだ。
「先生、これは」
「オーバーブロットだろう」
クルーウェルは黒い液体をたどりながら、素早く答えた。
オーバーブロット。魔法士が魔法を使う際に出る老廃物、ブロットを許容量以上に溜め込んだ末路。異形の者となって魔法を暴走させ、最悪元に戻れなくなり死に至る。本来であれば魔法石がブロットの肩代りをするはずだが、それ以上の力を使ったということだ。ナイトレイブンカレッジでもいくつか例はあったようだが、ヒトハがオーバーブロットに遭遇したのは、これが初めてだった。
「あの一帯を覆っていた魔力の発生源はこれだったな。しかしオーバーブロットのリスクも知らないわけではないだろうに、なぜ抑えなかった……?」
「知らなかった、とか?」
「まさか」
クルーウェルは両階段を駆け下りながら、冗談を鼻で笑い飛ばすように答えた。しかし思い直したのか、ぽつりと呟く。
「そんなことがあるのか……?」
クルーウェルの疑いの声が広いエントランスに不穏に響く。
ヒトハはひたすら彼の背を追いながら、周囲に目を向けた。黒い液体は両階段の壁にかかっていた絵画にも及んでいる。その中に描かれた人は、まるで何かから隠すように念入りに顔を潰されていた。
ビュウと強い風が雪と共に吹き込む。エントランスに降り立ったとき、開きっぱなしの大きな扉から雪が侵入して積もり始めているのを見つけると、クルーウェルは強く舌打ちをした。
「よりによって外か」
黒い液体は引き摺るような跡を残し、雪の中へ続いていた。この風と雪では魔法薬があっても寒さを感じてしまう。長時間いれば死んだっておかしくはない。魔法薬は便利だが、万能ではないのだ。
クルーウェルは吹雪の中でもはぐれないようにとヒトハの手を取って、さらに突き進む。吹き荒ぶ雪は、彼の魔法でいくらか抑えられても完全とはいかない。ふたりは雪に塗れながら、大量の液体で窪んだ道を進んだ。
(空が……)
ヒトハは繋いだ手を固く握り締め、遠くを見た。今まで見てきたどの空にもない禍々しさ。毒を搔き混ぜたような黒とも紫とも言い難い斑の色が天と、そして敷地の門に至るまで伸びる。
(壁がある)
そこで初めてヒトハは、この空間が外と隔絶されたものであることに気がついた。もしかすると、この恐ろしい現象が収まるまで、外に出ることはできないのかもしれない。もしそうであれば、外の人たちはこのことに気づくこともないかもしれないのだ。
寒さとも恐怖ともつかない震えに気がついたのか、クルーウェルはヒトハの手を引っ張ると自分の隣に立たせた。腕をヒトハの肩に回し、風に煽られながらゆっくり黒い道を踏みしめる。
ヒトハはクルーウェルの顔をちらりと見上げ、そして前を見据えた。
今はひとりではない。それに彼だって、この状況の恐ろしさを感じていないわけがないのだ。しっかりしなければと気持ちに鞭打つと、ヒトハの足は自然に前へと進んだ。
「ここは……」
道は大きな建物に繋がっていた。少し離れた場所に立つ建物は本館には到底及ばない大きさではあったが、それでも屋根は高く、何かしらの意味があって建てられたもののようだった。
その建物の扉は大きく開かれ、さらに奥の扉へ続くホールに容赦なく雪を呼び込んでいる。
「先生! あれ!」
ヒトハは目を凝らし、指をさした。ホールの床に誰かが横たわっている。
「執事さん!」
ふたりはやっとのことで建物の中に入ると、つややかな石床に横たわる男へ駆け寄った。
昨日の夜、いくらベルを鳴らしても現れなかった彼は、床の上で力なく四肢を投げ出している。目は固く閉じられているが、静かに上下する体を見るに最悪の事態にはなっていないらしい。
彼はしっかりとコートを着込んでいたが、雪の入り込むこんな場所で寝ていては、いつどうなってもおかしくはない。ヒトハは執事の体を何度も強く揺さぶって声を掛けた。
「起きない……。これ、なんだか先生のときと似てます……」
クルーウェルはヒトハの隣に片膝を突いた。
「眠らせる魔法にしても限度がある。呪いの類か……?」
彼は眉を寄せて独りごとのように呟いた。
本来であれば解析でもすれば原因が分かるのだろうが、この状況ではそんな繊細なことはできそうにもない。ホールの奥にある扉の先から、ただならぬ魔力が漏れ出ているのだ。扉は閉じられているが、元の色が分からなくなるほどに黒く汚れていた。きっと目的の魔法士はここにいる。
「今はどうしてやることもできない。外への扉を閉めて、少しでも寒さを和らげるしかない」
クルーウェルは立ち上がり、外へつながる扉を閉じた。ずっと吹き続けていた風が止み、室内に静寂が訪れる。代わりに靴音を反響させながら、彼は奥へと向かった。
ヒトハはその隣に駆け寄って一緒に目の前に立ちはだかる扉を見上げる。
「ナガツキ」
「はい」
クルーウェルはいつもの指揮棒を手に言った。
「オーバーブロットは早い段階であれば止めることができる。だがもし間に合わないと判断したら、俺は迷わず見捨てるだろう。まずは自分たちの命が一番だ。そうなったときは黙って俺に従え。いいな」
「はい」
オーバーブロットは止めることができる。学園で起きた事件も、そうして最悪の事態を免れてきた。でももし止められなかったら、力が及ばなかったら──あとは魔法士が力尽きるのを待つしかない。二度と戻れなくなり命が消えるのをただ見守るしかないのだ。
ヒトハは杖を握りしめた。クルーウェルが扉に手をかけ、ゆっくりと開く。
(──図書館)
そこにあったのは本。天井に届くほどの高い書架に、所狭しと並べられた夥しいほどの本の壁。
そしてその奥でうずくまる男がいた。彼の体から溢れ出す黒い液体は硬い床の上で生き物のように蠢き、周囲に散乱した本を黒く染め上げている。さらに目を引くのは、背後で覆いかぶさるように存在する顔のない女。彼女には腕があり、女性らしい体つきの胴があり、しかし足はなかった。黒い液体の中から這い出てきたかのように繋がっているのだ。彼女の長い髪は波打つように床に垂れて美しかったが、その中にある頭のようなものから絶えず黒い液体が滴り落ちるのは、あまりにも不気味だった。
これがオーバーブロット。魔法士が最も恐れる姿。
「リオさん!」
ヒトハはうずくまる男に向けて叫んだ。白く柔らかな髪には見覚えがあった。彼は両手で頭を抱え込み、ただひたすら謝っていた。
「……ごめんなさい……ごめんなさいごめんなさい……ごめんなさい……」
その声は小さいながらも広い室内に響き、ヒトハとクルーウェルの耳にも届くほどだった。擦り切れるような声は悲痛で、ヒトハはひっそりと眉をひそめる。この声を聞いていると、昨晩の夢が思い出されて胸が締め付けられるように痛むのだ。
クルーウェルはこちらに見向きもしないリオを見つめながら言った。
「あいつがリオとかいうやつか。完全にオーバーブロットしてるじゃないか」
「は、はい。すごく疲れてるのは分かっていたんですけど、まさかここまでブロットを溜め込んでいたとは……」
リオは昨晩出会ったときからすでに疲労を溜めていた。あのときブロットを溜め込んでいる状態と気づけたなら、こうなる前に止めることができたかもしれないのに。何にも気づくことができず、ここまできてしまった。周囲の魔力の濃さに感覚を奪われていたにしても、あまりにも悔しい。
唇を噛むヒトハと対照的に、クルーウェルはぶつぶつと何かを口にし続けるリオを見つめながら、じっと考え込んでいた。そして唐突に口を開く。
「まったく聞こえん!! 吠えるならしっかり吠えろ!!」
「なに煽ってるんですか先生!?」
ヒトハはびっくりして思わず叫んだ。クルーウェルの声量は限界まで上げれば遠くにいる生徒も縮み上がるほどになる。しかもこの繊細な状況で、今最も繊細な彼を煽ったのだ。
リオはクルーウェルの𠮟責に顔を上げると、ふたりに血走った眼を向けた。
「だって!!」
金属が強く擦り合うような、軋んだ声が空気を不快に揺らす。
「だって……だって分からないんだ!! どうすればいいのか分からないんだ!! 調べても調べても……調べても調べても調べても調べても調べても調べても見つからないんだ!!」
どっと液体が溢れ出す。背後の女が両腕で彼を包み込みながらこちらに顔を向ける。そこには目もなければ表情もないが、それでも向けられているものが何なのかは分かった。強い敵意だ。
「とっ、止まらない……止まらない…………もっ……もう嫌だ……誰か、誰か助けて……」
その瞬間、ヒトハはクルーウェルから強く腕を引かれた。
頬の横を鋭い風が通り抜ける。クルーウェルが咄嗟に張った魔法障壁は、目の前に迫った氷柱をことごとく砕いた。当たっていたら即死を免れない凶器だ。
ヒトハは目の前で敵意を露わにする男を──正確にいうと、その男を守ろうとする背後の女を凝視した。
「『助けて』と言う割に態度がでかい」
クルーウェルは苛立った声で言い放った。平然と煽っていた人が使っていい言葉ではない。
しかし彼がリオを煽ったことによって、分かったことがある。ヒトハは焦ってクルーウェルを見上げた。
「リオさん、魔法道具が苦手って……ちゃんとした教育受けてないって言ってました! 『止まらない』って、魔力の制御ができないってことじゃないでしょうか!? 魔法士としての教育自体受けてないってことかもしれません!」
「この魔法力だぞ!? あの年齢まで野放しにして無事でいられるものか!」
クルーウェルは再び飛んできた攻撃を弾きながら叫んだ。咄嗟に張った障壁に数本、歪んだ線が入る。リオの魔法はろくに狙いも定まらない粗末なものだったが、その異常な魔法力で壁を壊し、本を薙ぎ倒していく。
ギリギリのところで防御してみせるクルーウェルの隣で、ヒトハもまた杖を振るった。しかし落ちてくる瓦礫や飛んでくる本を防ぐので精一杯だ。このまま同じように受け続けていては、いつか必ず限界が来るだろう。屋敷全体を覆う規模のオーバーブロットに挑むには、戦力が心許ない。ここにいるのはかたや教師、かたや清掃員である。
「ぼ、僕がもっとはやく……はやく……ごめんなさい……」
その声を聞いたクルーウェルはヒトハの腕を引きながら数歩後退すると「まさか」と呟いた。
「あいつ、今頃発現したのか……?」
リオは再び頭を抱えてうずくまり、ぶつぶつと呟き続けている。
「うぅ……う……ごめんなさい……ごめんなさいごめんなさいごめんなさい……僕がもっと、もっと……」
ヒトハは弾かれるようにクルーウェルを見上げた。
「発現って……リオさん、私と同い年くらいですよ!?」
「絶対にあり得ないというわけではないだろう。魔法の発現時期に個人差があるのは確かだ。いきなりこれほどの力を与えられては制御を失うのも理解できなくはない」
「お、大人になってからの発現……」
ヒトハは以前セベクが「きょうだいに比べて発現が遅かった」と言っているのを聞いたことがあったが、それでも彼も幼少期には発現を終えているのだ。
「つまり……免許も持っていないのに高速道路でトラックを運転することになったってことですか!?」
「酷い例えだな……」
クルーウェルは前を見ながら肩を落とした。軋む叫びが轟き続ける中で、彼は静かに嘆いた。
「この爆発的な魔力と魔法力、最近まで発現していなかったところを見るに、恐らく教授の息子だろう。哀れなことだ。これだけの力を持って扱い方を知らないとは」
爆発音が響く。ヒトハはもはや叫ぶのを忘れて天井を仰ぎ見た。リオの無茶苦茶な魔法は、この広く頑丈な図書館に大穴を開け吹雪を呼び込む。
瞬く間に視界を奪い始める雪の中で、クルーウェルは反撃を試みた。防衛魔法の授業でも使わない派手な炎の一撃。それはリオの背後にいる女に向かったが、寸前のところで呆気なく弾けた。堅い障壁がその先へ火の粉ひとつも通さないのだ。
クルーウェルは忌々しく舌打ちをした。ヒュンと指揮棒が空気を掻き切る。
「まぁ、これくらいやんちゃなほうが躾甲斐があるというものだろう」
リオとも、その後ろの女ともつかない奇妙な咆哮が響く。氷柱が走り、窓を破り、静かだったはずのこの場所を荒れた地に変えていく。
「先生……」
このままでは危険だ。本能が「逃げろ」と告げている。ヒトハは後退りながらクルーウェルの袖を掴んで、そして悟った。
彼は“止める”と判断したのだ。前を見据える目に迷いはなく、踏みしめる足に怯えはない。ただ堂々と鞭を振るってみせる。いつも彼の仔犬どもに、そうしているように。
ヒトハは袖からそっと手を離した。彼がその道を選ぶのなら、自分がついて行かない道理はなかった。
「仔犬! 躾の時間だ! この俺が本物の魔法というものを見せてやろう!!」
クルーウェルの大声は、リオの叫びを抑え込むほどの大迫力となって響いた。ヒトハは背に汗を滲ませながら、戦いに向けて杖を握り直す。
──が、その瞬間、ヒトハの体は後ろにぐんと引かれた。
「へ? ちょっ、先生!?」
踵が勝手に図書館の床を滑っていく。瞬く間にクルーウェルの背が遠くなる。慌てて手を伸ばすものの、当然届くわけもなく。
「お前は外でお利口に待っていろ!」
「ええっ!?」
クルーウェルの魔法によって図書館から摘まみ出されようとするヒトハは、最後に彼の背と、それに対峙するリオの魔法を見た。
バン、と激しく扉が閉まる音がする。
そのまま図書館の外に投げ出されたヒトハは、尻餅をつき、固く閉ざされた扉を見上げた。黒く塗りつぶされた扉の先からただならぬ破壊音と振動が伝わってくる。そしてはらはらと天井から塵が落ちてくる中、茫然と呟いた。
「私、摘まみ出されちゃった……?」
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