深雪の魔法士
07 閉ざされた屋敷
母の波打つ髪が好きだった。
厳しい寒さに覆われるこの地にも季節というものはあって、雪の溶け切った夏には豊かな緑が一面に広がる。母はこの季節になると花咲き誇る庭で真っ白なスカートを揺らし、白い両腕を広げて優しく僕を迎え入れてくれた。僕はそのときに頬に触る、細く波打つ髪が、くすぐったくて優しくて、とても好きだったのだ。
母は素朴な人で、この厳しい土地にも、家にも向いていない優しい人だった。花は剪定したものより自由に野に咲くものが好きな人だ。服は飾ったものより動きやすいものが好きで、食べ物は大皿に小さく乗ったものより、サンドイッチのほうが好きな人。
だから母は父を愛すべきではなかったし、この家に嫁ぐべきではなかったし、出来損ないを生むべきではなかった。いつまでも魔法が発現しない子を抱え、一族から後ろ指をさされ、誰がこの名を継ぐのかと罵られるべきではなかったのだ。そんな罵声を浴びせられながら長い時間をかけて弱り、夏の訪れを待たずに散るべきではなかった。
母の波打つ髪が好きだった。その髪が優しく頬に触れた時、何もかも赦されたような気がするから好きだった。
本当は──本当の本当は、僕が生まれるべきではなかった。僕がすべて悪かったのだ。僕がすべて狂わせた。僕のせいだ。ずっと前から分かっていた。それなのに愚かにも、赦しが欲しくて愛を求めていた。けれどもう頬に波打つ髪が触れることはなくて、誰も僕を赦してはくれない。
『ごめんなさい、ごめんなさい』
滲むのは悲しみと悔しさと惨めさ、そして情けなさだ。
どうしてこうなってしまったのだろう。誰でもいいから、どうしたらいいのか教えて欲しい。
誰でもいいから、僕を赦して欲しい。
***
す、と冷たい空気を吸ってヒトハは静かに目覚めた。いつでも目を覚ませるようにと、つけっぱなしにしていた灯りが目に眩しい。
たしか、夢のようなものを見ていた。魔力の痕跡をたどるように、どうにかして情報を得られないかと感覚を研ぎ澄ませた先に、何かに触れたのだ。酷く悲しい叫びが耳の奥で反響したかと思ったら、ずるりと引きずり込まれていた。魔法士として生きて二十数年、このような経験をしたのは初めてだ。なんせここまで強大なものを目の当たりにしたことがない。この魔力の前では、ヒトハはそよ風に吹き飛ばされる塵同然だった。
こうしてヒトハが目を覚ましてすぐのこと、唐突にスマホが激しく鳴り始めた。気がつけば二時間たっぷりと意識を失っていたらしい。
「うるさ……」
起き上がり、アラームを消しながら呟く。毎朝の目覚ましのために音量を上げていたアラームは、寝起きの頭によく響くのだ。さすがにクルーウェルもこの煩さでは目を覚ますだろう。
「あれ?」
しかし隣のベッドで横たわっていた男は、これだけ煩い音を響かせながらもピクリともしなかった。
「先生?」
ヒトハは不安になってベッドからそろそろと下りた。
クルーウェルは自分と比べたら遥かに神経質なほうの人間だ。いくら疲れているからといって、無反応というのは絶対におかしい。
ベッドサイドで膝を折り、ヒトハはクルーウェルの肩を揺すった。
「先生、起きてください! 先生!」
しかしどれだけ声をかけても激しく揺らしても、瞼は固く閉じたままだ。
ヒトハは震えながら手袋を取って、クルーウェルの口元に手を寄せた。手のひらに微かに呼吸を感じる。
「先生、ごめんなさい!」
毛布を剥ぎ取って厚手のトップスをたくし上げ胸元に耳を寄せると、心音を感じた。間違いなく生きているし、目を覚まさないということ以外は何もおかしなところはない。
「まさか、本当に寝てるだけ? なんで? 魔法? 呪い?」
魔法の痕跡を探ろうとしても、充満する魔力が掻き消してしまって何も分からない。
(やっぱり食事に毒が……? でも、そんな毒聞いたことない……)
ヒトハはあらゆる知識を引っ張り出して状況を推測しようとした。しかし何も思い当たるものがない。
自然に眠っているにしても、こんな深い眠りにつくことなんてあるのだろうか。さすがにここまできたら、誰であっても起きるはずだ。
ヒトハは一向に起きる気配のないクルーウェルにできうる限りのことをしてみることにした。耳元で手を叩いてみたり、頬を抓ってみたり叩いてみたり。当然反応はなく、何かすればするほど気味の悪さと恐怖が募るばかりだ。
「先生! 先生! 起きてくれないと寝顔をマジカメに載せますよ!? いいんですか!?」
やけになって頬を両手で包み、言い聞かせるように叫ぶ。鬱陶しそうに目を覚まして、その低い声で「うるさい」と一言聞かせてくれれば、どれほどいいことか。
そこでやっと、ヒトハはこの部屋が眠る前よりもずっと冷え切っていることに気がついた。彼の頬が妙に冷たいのだ。こんなところで大した防寒もせずに寝ていたら、風邪をひいてしまう。
「だっ、誰かに助けを……」
ヒトハは慌てて執事が言っていたベルを手に取った。魔法道具のこのベルは、恐らく執事が遠く離れていても呼ぶことができる。
魔力を込めて数度激しく鳴らすと、澄んだ鐘の音が部屋中に響いた。この音が届いたなら、すぐに誰かが来てくれるはずだ。
ヒトハはその間ありったけの布を熟睡中のクルーウェルにかけることにした。寝ているだけとは分かっていても、何かしないと不安で仕方がなかった。それにこの部屋の室温は、いつしか白い息を見るほどに下がっていたのだ。
コートをかけ、毛布と掛け布団は自分のベッドにあったものも重ねる。ヒトハ自身も震える寒さを感じ始めていたが、起きていれば魔法薬を飲むことができるから、コート以上のものはいらない。眠っていたらそれすら叶わないのだ。
ヒトハはクルーウェルをこの上なく暖かくしてやると、スマホを手に取った。
「あ、あれ? 来たときは繋がってたのに」
ネットでこの状態が何なのかを調べようと思っていたが、電波の表示はなく、なぜか圏外になっている。これではネットも繋がらなければ電話もかけられない。
いくら山奥でも、ここは人の住む場所だ。ネットひとつ繋がらないのはおかしいし、なにより先ほどまでクルーウェルはスマホで何か調べものをしていたのだから、そのときまでは繋がっていたはずなのだ。
「わ、私がここに来たいとか、言ったから……」
ベッドのそばで座り込み、クルーウェルの首元に縋りながら、ヒトハは弱々しく嘆いた。恐怖と不安で腕が小刻みに震える。
このままもし彼が目を覚まさなかったら、このままもし誰にも助けを求められなかったら。この奇妙としか言いようのない状況を、自分ひとりで何とかできる自信がない。ここまで多少無茶ができたのも、この屋敷に飛び込めたのも、この異常な状況に立ち向かえていたのも彼がいたからだ。そのことに気がつくのが、あまりにも遅すぎた。
「執事さん、来ない……」
ヒトハは時計を見上げて呟いた。ベルを鳴らしてもう二十分以上は経っただろうか。あれだけの勢いで鳴らしたのに、ここまで物音ひとつしていない。
「どうしよう……誰か呼びに行かなきゃ……」
もしも自分がクルーウェルほどの魔法士なら、何かいい解決方法が思い浮かんだかもしれない。けれどもう何年も前に学校を卒業しただけの凡人魔法士には、これ以上の解決方法は思い浮かばなかった。
ヒトハは片手にランタンを持ち、杖を抜いて扉に走った。ドアノブに手をかけると、ぞっと不安が足元から這い上がってくる。あの先の見えない暗い廊下を独りで行き、この奇妙な屋敷で、いるかもわからない誰かを見つけ出さなければならないのだ。
それでも、彼が目を覚まさないことのほうが、もっと怖い。
ヒトハは扉を開き、その廊下の寒さに体を震わせた。怖気づき、振り返る。
「先生、すぐに助けを呼んで来ますからね」
小さな声で自分自身に言い聞かせるように呟く。決意をすれば、ほんの少しくらいは勇気が湧いてくるような気がした。
ヒトハはランタンの持ち手を握り直し、そして部屋の外へと踏み出した。
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