深雪の魔法士
06 閉ざされた屋敷
屋敷の暖房は確かに効いてはいたが、元々ここほど寒くない地域から来たヒトハにとっては、コートを脱ぐと少し肌寒くもあった。
魔法薬の効果が薄れてきたのもあって、一度脱ごうとしたコートを再び着込む。魔法薬を飲めばいいのだろうが、クルーウェルの用意した魔法薬がこれからどれだけ必要になるかも予想がつかず、極力使用を控えたかった。
「それにしても、また同室……」
ヒトハはベッドに座って、枕の弾力を確かめながら嘆いた。このふわふわで柔らかい枕は羽毛だろうか。一度でも頭を載せたら深い眠りに入ってしまいそうだ。
そのまま視線をトランクを広げているクルーウェルのほうに投げる。彼もまた寒さを感じているのか、まだコートを着込んだままだ。彼は持ってきた魔法薬を並べて数えながら、ヒトハの嘆きを笑った。
「俺は教授にはちゃんと伝えたつもりだが……事情を知らなければ、恋人同士か夫婦に見えても仕方ないんじゃないか? この状況ではふたり一緒にいてくれたほうが管理しやすくて助かるというのもありえるが、むしろ気を遣って同室にした可能性もある」
「こ、恋……」
「諦めろ。今日は寝るところがあるだけましだ」
と、クルーウェルが目で示したのはもう一方のベッドだ。ヒトハのいるベッドとの間に背の低いサイドチェストとランプが置かれている。昨晩の無謀なシングルベッドよりは遥かにましだが、どうせなら部屋を分けてもらえたほうがよほど穏やかに過ごせるのに。
ヒトハはベッドにころりと上半身を寝かせ、トランクに目を落としているクルーウェルの背中を眺めた。
彼は名門ナイトレイブンカレッジの教師で、優れた魔法士だ。どうして一緒にいるかというと──それは実際のところよく分からなかった。自分でも不思議なくらいに、普通に生きていたら接点のなさそうな人なのだ。
果たして、自分はこの人と並んで釣り合いがとれているものだろうか。
「恋人って言っても、私なんかせいぜい先生のお付きの人か助手くらいにしか見えないですよ。第一、先生のこと『先生』って呼んでるし」
「確かにお前はずっと『先生』だな。遠慮せずに『クルーウェル様』と呼んでもいいんだぞ」
クルーウェルがトランクに魔法薬を仕舞いながら鼻で笑う。
ヒトハは以前エースとデュース、オンボロ寮の監督生とグリムが入学早々クルーウェルから『クルーウェル様』と呼ぶように言われて戸惑ったという話をしていたことを思い出した。
自分の知る限り、恋人間でも夫婦間でも相手を“様”付けで呼んでいる人はいない。
「それって……やっぱり“お付きの人”じゃないですか……」
嫌そうに言い返すと、彼は大胆にも「ならファーストネームでも何でも好きに呼べ」と言い出し、ヒトハはちょっとの間考え込んで「やっぱり『先生』でいいです」と引き寄せた枕に顔を埋めたのだった。
「お食事をお持ちしました」
窓の外から光が消え、暗く寒い冬の夜が訪れた頃。
ノック音に扉を開くと、執事がワゴンを手に扉の前に立っていた。
途端に漂い始めた良い香りに、ヒトハは思わず扉を片手にワゴンをチラリと見やる。もしかして、もしかしなくとも、夕食である。
「十分なものが用意できず申し訳ございません」
と申し訳なさそうに言って、執事は室内のテーブルに料理を広げていく。
十分なものが用意できず、と言うだけあって確かに品数は多くはなかったが、それでも行きがけに買った適当な携帯食で済ませようとしていたふたりには、思わぬもてなしだった。
食事が終わったらワゴンごと廊下に出しておくように、と言って素早く退出する執事に丁寧過ぎるほどの礼を言い、ヒトハはうきうきとテーブルを覗き込んだ。
厚い器に注がれた飴色のスープの上にバゲットが一切れ。さらにその上を覆うチーズが熱でとろりと溶けている。
「オニオンスープ!」
両手を叩いて喜ぶヒトハに、クルーウェルは「食べたことがないのか?」と眉をひそめる。
「なっ! あ、ありますよ! 極東にもオニオンスープはあるんですけど、この国ではスープの上にバゲットとチーズを載せてオーブンで焼くんですって! バルガス先生が『二日酔いに効くぞ』って言ってました」
真偽のほどは定かではないが、バルガスに聞いた話では「二日酔いに効く」のだという。旅行前に立てた、食べたいものランキング三位内の料理である。オニオンスープだけでも美味しいのに、パンとチーズをのせてオーブンで焼こうと思った人は天才かもしれない。
クルーウェルはヒトハの早口な解説を聞きながら「ふぅん」と軽い相槌を打つと、コートのボタンに手をかけた。
「あれ? 先生、コート脱ぐんですか?」
「さすがに食事のときくらいはな。袖がもたつくし汚れたら困る」
寒いなら着ておけ、と言われて素直にテーブルの前でクルーウェルが座るのを待つ。
目の前の温かな料理を見ていると、半ば無理やりこの屋敷に侵入したことを思い出して、急に恥ずかしくなってきた。
「なんだか私、押し入ったことに罪悪感が芽生え始めました……」
「気持ちは分からないでもないが、こちらも旅程を崩されているからな。遠慮なくいただくといいだろう」
「それもそうですね……」
クルーウェルがヒトハの向かい側に腰を下ろす。客室用の慎ましやかな大きさのテーブルには、料理の皿がいくつかと水の入ったグラスが置かれている。彼はそのうちグラスを手に取り、ヒトハはオニオンスープを一口パクリと食べた。玉ねぎの甘みとバターの香りが優しく染み渡る、寒い冬にぴったりの温かな料理だ。
「毒は入ってなさそうですね」
「──!?」
クルーウェルは水に口を付ける間もなく叫んだ。
「急になんてことを言い出すんだ!」
「い、いえ、そこまで疑ってるわけではないんですけど、状況が状況なだけにあり得るのかなと。それなら私が毒見したほうが生存率が上がりそうじゃないですか」
「そう思うなら勝手に毒味なんかする前に言え。はぁ、お前はたまに発想が常人離れするな……」
クルーウェルは手にしていたグラスを置き、深々とため息をついた。
「ちょうどいいから言っておこう。お前は自分の価値を甘く見過ぎている。軽率に命を賭けるな。それはお前の役割ではない」
唐突に始まったクルーウェルの説教に、ヒトハはスプーン片手に首を傾げた。
「じゃあ私の役割ってなんですか?」
彼は一瞬手元に視線を落として、ひと呼吸置くと、重い声で告げた。
「無事に学園に帰りつくことだ」
(吹雪いてきたなぁ……)
食事を終え、窓から見える雪を眺めるばかりで時間を持て余していたヒトハは、執事から教えてもらったお手洗いに行こうと腰を上げた。念のためランタンを手にして出口に向かおうとするのを、クルーウェルは「どうした?」と気怠げな声で呼び止める。椅子に座って足を組み、彼はスマホで何か調べ物をしているようだった。
「ちょっとお手洗いに。もしかして先生、眠いんですか?」
「ん? ああ、そうだな。少し眠い」
「やっぱり……昨日ベッドで寝てないから……」
はっとして気まずく返すと、クルーウェルは眉間を押さえながら「まぁ、そうかもな」と苦々しく答えた。
彼がこんなに眠気と格闘しているのは珍しいことだ。学園で働き始めた頃に一度遭遇したくらいのものである。
「少し仮眠を取ったらどうです?」
「そうだな。お前が戻ったらそうすることにしよう」
クルーウェルは欠伸を噛み殺しながら言った。いつもであればきりりと上がった目が、ぼんやりとしている。戻ったら、と言いながら今にも眠ってしまいそうだ。
ヒトハは慌てて扉に手をかけた。
「急いで戻ってきますね」
「走るなよ」
「走りません!」
と憤った声で荒々しく扉を開く。その先の長い赤絨毯の廊下を見て、ヒトハはほんの少し不安になった。明るさこそあれ人のいない夜の屋敷はどこか不気味で、走らずに帰れる気がしない。
(早足で……)
かつ大股で。
ヒトハは自分のために早く帰ろうと急いだ。
幸いなのは、それが遠くない道のりだったことだ。震えながら素早く用を済ませ、ヒトハは元来た道を戻った。寒さからか、怖さからか、勝手に足が早まる。しかし宣言した手前、ここで走るのはあまりにも悔しい。
「あれ?」
堪えながら角を曲がったとき、ヒトハはその先に人影を見た。元いた部屋の先にぼんやりと見えるのは、執事ではない。はっきりとした容姿までは分からないものの、青年であるのは確かだ。もしかすると、彼は使用人のひとりかもしれない。
ヒトハは慌てて駆け出した。
「あっ! まって……!」
青年はこちらに気がつくと、立ち止まるどころか踵を返した。
年季の入った床板が軋んで不安定な音を立てる。走ると靴音がうるさいが、そんなことを気にしている場合ではなかった。
この屋敷にはまだ人がいる。なんとしてでも、この状況を説明できる情報が欲しい。
そんなヒトハの走りも虚しく、青年は突き当たりに消えていく。そこへたどり着いたとき、ヒトハは思わず手にしていたランタンを掲げた。
そこにあったのは、ただ暗く、先の見えない廊下だけだった。
「あら、寝てる」
ヒトハは扉を開けて拍子抜けした。今しがた見た青年のことを今すぐクルーウェルに伝えたかったのに、彼はヒトハを待つことなくベッドに倒れ込んでいたのだ。掛け布団も毛布もなく、コートも着ていない。
よほど眠かったのだろう。ヒトハはそう思ってランタンを置き、ベッドにそっと歩み寄った。
(起こしたら悪いかな……)
昨日から今日までずっと気を張り詰めて、昨晩なんかは気を遣って硬い椅子で寝ていたくらいだ。彼の苦労と心労を思えば、とても叩き起こす気にはなれなかった。
ヒトハは壁掛けの豪奢な時計を仰ぎ見た。夜といってもまだ十時そこそこ。人が寝静まるにはまだ少し早い。それに自分も疲れていないわけではなかった。
「少しならいいよね」
そう呟いて、部屋に鍵をかける。ほんの気持ち程度の魔法もかけたが、濃い魔力に気が散ってしまい、上手くかけれたかどうかはよく分からなかった。
ヒトハはクルーウェルにそっと毛布をかけてスマホのアラームを二時間後にセットすると、それをサイドチェストの上に置いた。
そして自分もベッドに仰向けになって天井を眺める。この古めかしくも豪奢な屋敷は、天井に至るまで手を抜かれていることはなかった。
(何が起きてるんだろ……)
ぼうっとしていると、底知れない不安が襲ってくる。
相変わらず魔力は濃く漂い、意識すればするほどその不可思議さに頭がおかしくなりそうだ。これは普通ではない。でも、その理由が分からない。教授には会えないし、執事は頑なに話を逸らし、話をしようとしないのだ。
ひょっとして、あの廊下で見かけた青年さえ捕まれば、何か分かるのだろうか──
ヒトハは疲れに従って瞼を下ろした。暗闇の中で漂い続ける魔力の尾を掴もうと手を伸ばす。けれどやはり、何も分からない。
するとどうしてか、軋むような叫びに触れた気がして、ヒトハはその手を引っ込めた。
『ごめんなさい、ごめんなさい……』
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