深雪の魔法士
01 輝石の国
カタンカタンと尻を打ち付けるような振動に体を揺らしながら、ヒトハは窓枠に指をかけて外を眺めていた。流れる平坦な景色は次第に白さを増し、窓に細かな水滴を浮かび上がらせる。金属製の窓枠は冷たくなり、それはいよいよ愛用の手袋に染み渡るほどだった。
「飽きないのか?」
「全然! ねぇ先生、もうそろそろですかね?」
ヒトハは雪が見え始めた窓から目を離し、声を弾ませた。向かい側に座る男は本から顔を上げ、ふむと考える。
「あと一時間ほどか?」
「あとちょっとですね」
「それはちょっとなのか……?」
クルーウェルは読み飽きた本を閉じて呆れた声で言った。
旅の雰囲気を味わおうと列車のコンパートメント席をわざわざ選んで若干後悔をし始めていたが、同行者がこれだけ楽しんでいるのだから、ある意味これで正解だったのかもしれない。長い乗車時間も一瞬に感じられるのなら、何よりなことだ。
ナイトレイブンカレッジのウィンターホリデー。年の瀬にやってくるこの長期休暇に、クルーウェルはヒトハを旅行に誘った。
目的地は〈輝石の国〉。寒い時期に寒い場所には行きたくないとまで言っていた彼女をこの国へ誘ったのには、理由がある。当然、遊びではない。
「はしゃぐのはいいが、本来の目的を忘れるなよ」
「もちろん忘れてませんよ」
ヒトハは椅子に座り直して胸を張った。
「先生が昔お世話になった教授に会いに行くんですよね。も……もり……」
「モーリス・フォレスト教授。魔法薬学界の権威。魔法植物や魔法薬に使う素材の研究が専門だ。絶対に忘れるなよ。俺の躾が疑われてしまう」
「フォレスト教授。覚えました」
「お前はそれを二時間前にも言ったのを覚えているか?」
教授に会ったら挨拶だけさせて後は黙らせておくべきか。クルーウェルはため息をついて揺れる座席に背を凭れた。
長旅になるからとそこそこ良い席を取ったおかげでそれなりの座り心地だが、やはり揺れる。長々と本を読むには耐え難く、再び活字に目を落とす気にはなれなかった。
「ちょうどいい、旅程のおさらいをしておくか」
クルーウェルは流れる景色に目をやり、トンネルに差し掛かったところで言った。
「まず、駅に着いたら迎えを待つ。教授の屋敷に招待してくださるとのことだ。ここでお前の魔法薬の相談をして、一泊させてもらう手筈になっている。その翌日から観光」
はい、とヒトハが手を上げる。
「有名な発明家がいたって村に行くんですよね。少し離れたところに大きな城もあるって、バルガス先生が言ってました!」
「そうか、バルガス先生は輝石の国出身だったな」
「ええ、美味しいご飯の話とか有名なお酒の話とか、色々教えてもらいましたよ! で、次の日は先生のブランド本店巡り……」
しゅん、と明らかに語気を萎ませ、ヒトハは上げた手を下ろした。
それをクルーウェルはムッとした顔で見つめる。彼女はこの旅行の計画を立てている間、ずっとこの予定だけは乗り気ではなかった。
「なんだその顔は。伝統ある由緒正しいブランドはその歴史を理解してこそ真の価値が分かるというものだ。本店には一度足を運ぶべきだろう」
「はいはい、そうですね。私みたいなのが入っていい場所か知りませんけど」
ヒトハはクルーウェルが行きたがる店、とりわけハイブランドの店にとにかく行きたがらなかった。着ていく服がない、田舎者には敷居が高すぎる、値段が気になって落ち着かない、買わずに出られる気がしない、などという小心者過ぎる理由からである。
訪れる客など千差万別なのは当たり前だし、後ろを黙ってついて回れば特に困ることもないはずなのに、彼女は何をどうしてか嫌がる。仕方なく、クルーウェルは策を講じることにした。
「そのために俺が仕立ててやったんだろうが。そのシックで、フォーマルで、優雅な一着を」
と言いながら目線で示したのはヒトハが着る紺色のダブルブレストコートだ。ヴィンテージものを手ずから直した一着で、ウエストをベルトで絞り、裾は控えめながらも上品に広がっている。元々はもっとゆったりとした作りだったが、細身の彼女にはこちらのほうがよく似合う。上質なウールで仕立てられたこのコートは、どんな場へ出ても引けを取らない自信があった。
ヒトハはクルーウェルの満足そうな視線から逃れるように、襟元から覗くハイネックに首を埋めた。
「堂々としていろ。今はどこへ出しても恥ずかしくない毛並みだぞ。黙っていればの話だが」
「む……。というか先生、今回はシックでフォーマルって言い続けてますけど、ブランドの店に行くのは明後日だから気が早いんじゃないですか?」
「気が早いのではない。今日は目上の方にお招きいただいているのだから、当然の装いだ」
クルーウェルが両腕を広げて見せるのは、いつもよりずっと落ち着いた色合いの服だ。白と黒のコントラストがはっきりとした仕事服から一転して、黒を基調としたスタイルは落ち着いている。差し色の赤も今日ばかりは控えめだった。それでもその姿が地味ではないのは、こだわりの小物使いと元々持つ容姿の派手さゆえだろう。
「まぁ、たしかに今日はきちんとしておかないといけないですね」
ヒトハは渋々といった様子で頷く。
「で、その三日目の夜、花の街に行き、新年を迎える。翌日帰国、解散。三泊四日の旅だな」
「はぁい」
パッと周囲が明るくなる。列車は白い山脈の間にかかる橋を渡っていた。
ヒトハは窓から見える絶景に目を奪われて、とっくに横を向いている。輝石の国はこの広いツイステッドワンダーランドの中でも冬の寒さが厳しい地域だ。嫌がってついて来ないかと思えば、意外にも人一倍楽しんでいる様子である。上向きの睫が世話しなく上下に動く姿を眺めながら、クルーウェルは一つ気になっていたことを尋ねてみることにした。
「そういえば、残りのホリデーは極東に帰るのか?」
ヒトハは窓枠に指先をかけたまま振り返った。
「いえ、母に『先生と旅行に行く』って言ったら『あらあらあら~! 帰ってこなくていいわよ! 先生によろしく!』って言われちゃって。なのでもう学園にいようかと。父は泣いてたらしいですけど」
「泣い……大丈夫なのか……?」
「大丈夫なんじゃないですか? どうせ春頃に帰りますし」
「そういう問題ではないと思うのだが……」
なるほど母親似か、と妙に納得してクルーウェルは密かに父親に同情した。とはいえ泣かせる原因を作ったのは自分なので、仲良くできるかというと、それも難しい気がする。どうやら大事に育てた娘のようだから、会ったこともない男への憎しみはひとしおだろう。母親はともかく。
再び長いトンネルに突入したとき、ヒトハはクルーウェルに向き直りながら「そうだ」と手を叩いた。
「そのフォレスト教授ってどんな方なんですか?」
「ああ、そうだな。軽く説明しておこう」
クルーウェルは椅子に深く凭れていた背を起こした。
「教授の家門は代々優秀な魔法士を輩出してきた名門中の名門だ。彼もまたそのひとりで、教授以前に優秀な魔法士でもある。輝石の国の雪深いところに屋敷を構えていることから〈深雪の魔法士〉とも呼ばれているな。教授はあまりこの名を好まないようだが、古くから続く一族だからか代々当主はそう呼ばれる」
頷きながら話を聴いていたヒトハは小さく手を挙げた。
「はい、先生」
「なんだ」
「そんな明らかに忙しそうな教授のお家に年末にお邪魔して大丈夫なんですか? ご家族とかご親戚がいるのでは?」
ヒトハのもっともな質問に、クルーウェルは「そうだな……」と顎をさすった。
今回この輝石の国までやってくるきっかけになったのは、そもそもフォレスト側の提案があったからだ。何か有益なことを知っているのではないかと連絡を取ってみたところ、それなら久々に顔を見せに来ないかと言われたのが発端である。
「ご子息がおられるようだが、魔法士ではないようだから詳しくは聞いたことがない。夫人はずいぶん昔に亡くなられている。まぁ、この時期に俺たちを招くということは、問題ないということだろう。名門一族の現当主とはいえ、おおらかな性格だからな。遠慮する必要はないはずだ」
「へぇ、教授は優しい人なんですか?」
「そうだな。この手の魔法士にしては珍しいほどに優しい方だ」
ヒトハはそれを聞いて満足そうに頷く。
他に聞きたいことはなかったのか、山並みを抜けて平地に民家が見え始めたのを境に、その話はそれきりとなった。
「──あ」
もうそろそろ目的地に着くかと思われる頃、ヒトハはコートのポケットからチケットを取り出そうとして、ひらりと何かを落とした。
「なんだこの禍々しいのは? 呪具か何かか?」
揺れる車内の床に落ちたそれを覗き込み、クルーウェルは眉をひそめた。
二枚の長方形の薄い紙で、どちらも所々に黄ばんだ染みがある。ずいぶんと年季の入った物のようだ。この決して広くはない紙には、ミミズが這ったような禍々しい線がいくつも引かれ、異様な不気味さを醸し出していた。拾い上げようとした手も引っ込めたくなるというものである。
「いやっ、これは、その……」
ヒトハは口籠もりながら慌ててそれを拾い上げた。
「母校の魔法薬学の先生に就職の報告がてら手紙を出したら、この前ホリデーカードと一緒にこれが送られてきて……『パートナーと仲良く分けなさい』とのことです。なので、一枚どうぞ」
「俺はお前のパートナーではない」
クルーウェルは差し出された禍々しい札を避けるように体を引いた。どう見たって怪しい代物だ。名門魔法士養成学校の教員をしているからには専門分野以外の知識も深いと自負しているが、このような物は見たことがない。触れたら呪われそうだ。
ヒトハはいくら経っても受け取ってくれないクルーウェルに痺れを切らし、ついには座席から立ち上がった。
「旅のパートナーじゃないですか! はい、どうぞ!」
「いらない」
「そう言わず先生も一緒に呪われてくださいよ!」
「それが目的だな!? おい、勝手にポケットに入れようとするな!」
到着のアナウンスが響く。緩やかに停車する車内で紙を渡すことを諦めたヒトハは、渋々身を引いた。
クルーウェルは忌々しそうによれたコートの襟を整え鼻を鳴らすと、座席上の棚に置いたトランクに手を伸ばす。この魔法道具のトランクは普通のトランクよりも大量に荷物を仕舞うことができる。しかも性能が良ければ良いほど小型化する優れものだ。
クルーウェルは棚に並んだ二つのうち、一回り大きなものを手にして「ケチったな、お前」と舌打ちをした。
そうは言いつつも二つとも手にして客席を出ようとする姿を追いかけながら、ヒトハは「先生、優しいですね」と甘えた声で言い、こっそり彼のコートのポケットに禍々しい紙を一枚差し込んだのだった。
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