清掃員さんと先生のサマーホリデーの話

14 魔法

 ずっと、魔法が使えるようになりたかった。
 風を、炎を、水を操り、光を灯し、空を飛びたかった。この家の誰もがそれをできたし、自分もできるようになると信じて疑わなかった。
 それがどうしてこうなったのか。ただ素晴らしくて綺麗なものに憧れていただけなのに。
 ひとつ歳を取るごとに失望を見て。やがてそれは嘲りに変わり、そして無関心になった。
 ついに魔法を見せることもできないまま母はいなくなり、父は──父からは、逃げてしまった。胸にある黒いものを曝け出せないまま、ただ駆けて、駆けて。気がついたときには、取り返しのつかないところまで来てしまって。
 何もかもを奪っていく魔法が怖い。
 最初はあんなにも素晴らしくて、綺麗なものだったはずなのに。

 ヒトハの想像以上にアグレッシブな飛行に振り回され、リオは内臓という内臓をひっくり返していた。速い。しかも下降と上昇が激しく、身体がついていかない。
 しっかり腰を抱けと言われ、遠慮がちに抱いていたのは最初の五秒もなかった。今はきついくらいにしがみついている。だから分かる。

(持たないかもしれない)

 激しい動きに比例して魔力はすり減る。クルーウェルから聞かされて理解はしていたが、彼女は想像以上に魔力が少ない。背に滲む汗と、次第に呼吸が荒くなっていくのを見ても明らかだった。

(やらなければ)

 リオは焦っていた。
 飛びたい、と自分で言ったのだ。ここまで連れて来てもらったからには、役目を果たさなければならない。
 ぐんと体が傾く。箒の先は月を指し、猛烈な勢いで高く駆けあがる。下方で急上昇を強いられたルクは、羽を建物にぶつけてもたついた。頑丈な体は屋根を根こそぎ剥ぎ取っていく。

(やらなければ……)

 何もしていないのに呼吸が乱れた。
 やらなければ。魔法を使うのだ。あの鳥に杖を向け、ユニーク魔法を使う。一度できたのだから、難しいことではない。
 でも杖が、手が震える。魔法が怖い。あの魔法が、再びすべてを眠らせたら──目の前で箒を操る彼女を眠らせてしまったら、命はない。まだ人を乗せて飛べるほど、飛行術の訓練をしているわけではないのだ。死にたくない。誰も殺したくない。
 箒はついに空を昇り切り、ヒトハは肩で息をしながら箒を水平にした。夏の夜にしてはやけに冷える、途方もなく高い空。

「リオさん、大丈夫ですか?」
「ちょっと、大丈夫じゃないかもしれません……」

 リオは声を震わせながら笑った。飛んでいる間は生きた心地がしないし、今も足元を見るのが怖い。腹から下が地上に吸い込まれていくような、ぞわぞわとした感覚があるのだ。
 ヒトハは苦笑した。

「私は結構、楽しいんですけど」

 落ち着かせるように、杖を持つ手に彼女の手が添えられる。

「心を静かに。想像してください」

 その手は自分のように震えてはいない。夜風に当てられて冷えた手から、滲む程度の温かさが伝わってくる。いいですか、と彼女は言った。

「リオさんが魔法を使ったら、あの子は少し眠って、それから家に帰るんです。リオさんの魔法は、それを叶える魔法です」

 ふふ、とリオは笑った。

「それは……素敵な魔法ですね」

 彼女は肩越しに振り返り、この状況にはとても似合わない、明るい笑顔を浮かべた。

「魔法はイマジネーションですよ! 全部リオさんの心次第です!」

 下からルクが迫る。大きな翼を横に広げ、怒涛の勢いで追い上げて来る。

「ヒトハさん、その……大丈夫ですか?」
「ええ。せっかく先生に任せてもらえたんです。絶対やり遂げます。リオさんも頑張って! 私、一番近くで応援してますから!」

 ヒトハは箒の柄を捻り、今度は下に向けた。

「では、もうひとっ飛びしましょう!」

 ふっと内臓が浮く。風が押し寄せる。滑るように下降を始めた箒の上で、リオは考えた。
 魔法はやっぱり、しばらく好きになれそうにない。怖いし、長年抱いていたものをすぐに変えることなんてできない。
 けれど魔法を使ったその後の光景なら、想像できるかもしれない。
 あの鳥は森に帰る。緑豊かな場所で、人のいないところで、晴れた大空を飛び、ただ穏やかに暮らす。この魔法は、想像を叶える魔法だ。それはとても綺麗で、素晴らしい魔法のように思えた。
 ヒトハはルクとすれ違いざまに素早く箒を立てた。勢いのまま昇り続ける巨体と並び、ぴたりと動きを合わせる。
 リオは杖を握りしめた手を振り上げた。

 クルーウェルはユニコーンの首に光の輪をかけ、その先を柱に括りつけた。
 興奮状態のユニコーンは酷く暴れた。処女にしか懐かず、それ以外はすべて敵という非常に難しい生物なのである。いかに動物の躾を得意としていても、こればかりはどうにもできなかった。

「殺すな、捕まえろ!」

 暴れるユニコーンをさらに縛り付け、クルーウェルは叫んだ。
 着飾ったゲストたちも、れっきとした魔法士だ。号令をかければそれなりに統率が取れるのは、ツイステッドワンダーランドの魔法教育の賜物である。
 最初は面食らっていた彼らだが、今ではすっかり従順な仔犬と化した。クルーウェルの指示で四方八方に散った危険生物や妖精たちを追いかけて奔走中である。これらを逃がしては不味いという認識を持っているのもあるからだろう。
 こうして会場の魔法士たちに応援を頼む作戦は完全に崩壊した。誰もが忙しく、誰もがルクの相手をする余裕がない。となれば、あとはもうふたりに賭けるしかなかった。
 未だ夜空で激しい追いかけっこを続ける箒とルクを見上げる。

(もう五分経っている)

 当たり前だ。その程度、あっという間の時間だ。その感覚さえ失うほど、彼らは必死で飛び回っているのだ。

(ここまでか)

 散らばった生き物たちを「殺すな」と言って捕らえてきたが、彼らが死んでは元も子もない。生死を問わず生き物たちを大人しくさせ、全員でルクを仕留める。それしかない。
 クルーウェルは号令をかけようと杖を掲げた。指揮棒の形をしたそれには、赤い首輪と共に白い魔法石がぶら下がっている。その魔法石が、何かを反射した。
 素早く振り返った先に見える小さな光。ルクと並んでいた箒が、光を放つ。それは瞬く間に強さを増し、夜空を眩しく照らした。誰もが驚きながら空を見上げる。
 それはまるで日を浴びた新緑のような、美しく鮮やかな緑の光だった。空を覆う魔力はリオのものだ。冬の日に感じたような淀んだ魔力ではない。けれど、すぐに分かった。
 その光が次第に弱まり闇夜に溶け込もうとした、そのとき。ルクは突然、こと切れたように羽ばたきを止めた。大きな羽を広げたまま倒れ、ゆっくりと降下を始める。

「まずい」

 クルーウェルは再び走った。黒いエナメルの靴は、もはや砂ぼこりで白く染まっていた。

 杖を掲げる。魔力を込める。狙いを定め、呪文を口にする。父親に習った基本的な魔法の動作。たったこれだけのことに、こんなにも勇気がいる。
 リオは杖に灯った魔法の光に目を細める。その瞬間、胸がゾッと冷える心地がした。怯えが掲げた手を絡め取る。退いてはならない。分かっているのに。

(あと少し)

 そうだ、あと少しなのだ。怯えるな。震えるな。杖を下ろすな。
 魔力を込め直す。その瞬間、リオの頬を何かが掠めた。白く波打つ髪だ。自分のものではない。目の前で箒を操る彼女のものでもない。──では、誰の?
 杖先から光が溢れる。その光の色は、いつかの夏の日に見た、鮮やかな緑によく似ていた。
 光を全身に浴びたルクは羽ばたくことをやめ、ゆっくりと体を傾ける。
 リオはハッとして杖を下ろし、ヒトハに呼びかけた。

「──やった! やりましたよ、ヒトハさん!」

 しかし答えはない。それどころか、箒を掴んでいる指が緩んでいるようにも見える。リオは慌てて箒の柄を掴み、ヒトハの体を支えた。彼女の頭はがくりと重力に従って傾く。

「ね……寝てる!?」

 その寝顔の穏やかなこと。

「まさか」

 最も近い場所で魔法を当てられたのだ。狙っていたわけではないが、弱った体ではうっかり眠りに身を落としてしまってもおかしくはない。

「ヒトハさん! 起きてください!」

 リオの呼びかけも虚しく、箒はふっと力が抜けたように墜落を始める。リオは柄を固く握った。
 箒は駄目だ。まだ魔力の込め方がよく分かっていない。ただでさえ怖いのに、運転手が気を失い、こんなスピードで落ちては操作などできようもなかった。

「うわあああああああ!」

 リオは絶叫しながらルクと共に落ちていった。

(ぶつかる! 死ぬ!)

 けれど、そうはならなかった。
 いきなり下から吹き上げてきた風がルクの体を支え、続けて落下の速度を落とした箒が、その体にぶつかる。ルクの柔らかい羽毛は、ふたりの体を優しく包み込んだ。
 リオは羽の上で仰向けになり、徐々に遠くなる月を眺めながら、ほとほと疲れた声で呟いた。

「た、助かった……」

 ルクの体はゆっくりとした速度で地面にぶつかった。羽の先まで横たわったところで、下から吹き上げていた風が止む。リオはヒトハの体を支えながら起き上がり、ルクの腹の上から、その周囲を見渡した。
 巨体を囲むように点々と配置された魔法士たちが杖を下ろし、ほっとした顔をしている。みな煌びやかな格好をしているが、誰も彼もがその服装と髪形をくたびれさせていた。

「ナガツキ! リオ!」

 自分たちの名前を呼ぶ声を聞いて、リオは声のほうに体を捻った。魔法士たちに道を譲られながら、クルーウェルがこちらへ駆け寄ってくる。彼は多くのゲストの中でも一段と髪と服装を乱していた。それがなんとも意外に見えて、リオは笑った。
 穏やかに眠りについているヒトハをクルーウェルに受け止めてもらい、リオはルクの体から滑り降りる。ずっと高速で飛び続けていたせいか、足元がふわふわとして居心地が悪い。
 ルクはよく眠っていた。それもそのはずで、自分は昨年、屋敷中の人間を一晩以上は眠らせているのだ。どれだけ衝撃を与えようとも、しばらく目を覚ますことはないだろう。
 クルーウェルは受け取ったヒトハを抱きかかえると、一直線に魔法士たちの輪の外へ向かった。人けの少ないところまでやって来ると、彼はヒトハを抱えたまま座り込んだ。リオはそれを追いかけ、傍に膝をつく。

「先生、服が汚れませんか?」

 クルーウェルは片眉を上げた。

「今更だ。タキシードのダメージ加工なんて、そうそうできることではないぞ」

 と笑いつつも「高かったんだがな……」と呟く声には若干の後悔が滲んでいる。以前父親の服をリメイクしたと聞いたから、相当な服好きなのだろう。
 服といえば彼の腕の中ですやすやと眠っている彼女、ヒトハはおそらくこの会場の中で最も乱れた姿をしていた。纏め上げていた髪はほつれているし、グローブも靴もどこかに捨ててしまっているし、ドレスなんかはワイルドに切り裂かれ、夜のパーティーにしても過度な露出状態である。
 クルーウェルは彼女にジャケットを被せると、頬をぱちぱちと叩いた。

「ううん…………ぼん……じり……」
「なんだそれは。起きろ」

 クルーウェルが肩を揺すって、やっと薄く目を開く。ヒトハはぼんやりとした顔でクルーウェルを見上げ、リオを見て、首を傾げた。

「あれ? 鳥は?」
「終わりましたよ! 成功しました!」

 リオがすかさず答える。すると、横から腕が伸びてきた。

「ウェルダン! お前たち、よくやったな!」

 クルーウェルは片腕でリオの肩をがっちりと抱き寄せ、そしてもう片方の腕でヒトハを抱いた。彼は大きな手のひらで、ふたりの頭を容赦なく撫で回す。
 もういい大人なのに、と照れ臭い気分にもなったが、こうして生死をかけた戦いの後に誰かに褒めてもらえるというのは、存外悪いものではなかった。
 ヒトハはやっと頭がはっきりとしてきたのか、乱された髪を手櫛で梳きながら言った。

「私、もしかして一番いいところを見逃しました? 最後どうなったんです?」

 そうだ、魔法を使った時点で彼女は気を失ったのだ。リオは気がついて、そのときの状況をふたりに説明しようとした。けれど、上手い表現が見つからない。

「もう駄目かと思いました」

 あのとき、杖を掲げて魔法を使おうとした。しかし魔力を込めたところで躊躇ってしまったのだ。

「ユニーク魔法を使うことを躊躇ってしまって……でも、なんとかなりました」

 そしてリオは頬を染めた。

「その……なんだか亡くなった母が応援してくれているような気がして。都合のいい妄想だと思いますけど」

 白く波打つ髪。あの夏の姿、そのままを見た。大丈夫だと言われたような気がして、それが最後の一押しとなったのだ。それが妄想だったとしても構わなかった。ただ、前に進む力になればよかった。
 ヒトハはリオの話を聴くと、不思議そうに首を傾ける。

「ひょっとして、お母さんの姿を見たんですか?」

 頭がおかしくなったと思われただろうか。リオが赤い頬をさらに染めて頷くと、ヒトハはにっこりとした。

「それならたぶん、私も去年お屋敷で見ましたよ」

 クルーウェルはびっくりとしてヒトハを見た。

「そうだったのか?」
「ええ。みんな気を失ってたので、見たのは私だけだと思います。白くてウェーブした髪の方ですよね?」

 ヒトハが指で「これくらいの」と長さを示し、リオは呆然と頷く。

「ナイトレイブンカレッジは魔力の濃い地にあるので、ゴーストが見えるんです。お母さん、リオさんの魔力で姿を見せてくれたのかもしれませんね」

 そうなのだろうか。いや、そうなのだろう。彼女も同じ姿を見たと言うのなら、きっと本当だ。だとしたらあの冬のときも、ずっと傍にいてくれたのかもしれない。

(いなくなってなんか、なかった)

 胸にあった冷たいものがじんわりと解けていくような気がして、リオは「そうだったら嬉しいですね」と微笑んだ。

「リオ……?」

 突然、聞こえるはずのない声が聞こえ、リオは振り返った。

「父さん!?」

 立ち上がり、その姿を見つけて驚いた。
 モーリスが着の身着のまま佇んでいる。ずいぶんと慌てていたらしく、この会場のゲストたちに紛れてもおかしくないほどには髪が乱れていた。
 彼は大股でこちらへ向かって来ると、リオに質問の隙を与えないほどの勢いで詰め寄った。

「屋敷に戻ったら聞こえるはずのない鳴き声がしたものだから、そのまま飛んできたんだ。暗くてよくは見えなかったが、この大きさと鳴き声はルクだと……先ほどの魔力はお前だろう? これは、お前がやったのか?」

 これと言って指をさした先には未だ地面でぐっすりと眠っている巨大な鳥がいる。
 リオは思い出して、頷いた。

「はい。ユニーク魔法、成功しました!」

 ついに成功したのだ。誇らしく報告するリオを見て、モーリスは「なんてことだ」と目を丸くする。
 すっかり喜んでもらえると思っていたのだが、モーリスは血相を変えてリオの体をくまなく観察し始めた。ぐいと頬を両手で包み、左右に傾ける。両手を掴み、ひっくり返したり戻したり。硬直するリオに、彼は焦って言った。

「怪我は? 痛いところはないか?」

 リオが顎を引いたまま首を横に振ると、彼は飛びつくようにリオの体を抱いた。そして「はぁ……」と深く息を吐く。

「ユニーク魔法なんていいんだ。魔法なんか使えなくたって、お前が無事なら」

 ぎゅうぎゅうに抱きしめられながら、リオは困惑した。

「で、でも、父さんは僕を仕事に連れてまで魔法を教えてくれているじゃないですか。あれは僕を早く一人前にしようと思って……」
「そんなの」

 モーリスはリオの言葉を遮って笑った。

「そんなの、息子と冒険するのがずっと夢だったからに決まっているだろう!」

 ヒトハはリオがモーリスに抱きしめられているのを見て、ほっと息をついた。
 身体がだるくて一歩も動けない。魔力は空っぽで、指一本動かすのもしんどい。クルーウェルに抱きしめられているのも普段だったら突き飛ばして脱走するところだが、今日はそれをする体力もなかった。大人しくされるようにしているのが一番楽だ。
 彼は完全脱力状態で寄りかかるヒトハを胸に抱き寄せながら言った。

「よくやった。リオを乗せていたにもかかわらず、すさまじい飛行術だった。バルガス先生が見たら驚くぞ」

 ヒトハは照れ臭く笑った。バルガスが見たら驚くだろう。けれど同時に、危ないからやめろと怒るかもしれない。いつもだったら彼も同じことを言うだろうが、今日はうんと甘やかしてくれるようだ。
 とはいえ思うところはあったらしく、クルーウェルは呆れたように言った。

「しかし、さすがに肝が冷えたな……。一体何がお前をそこまで突き動かすんだか」

 ヒトハは苦々しく笑った。
 何が自分をこうまで突き動かしたのか。それはたぶん、同情であったり、正義感であったり、矜持のようなものであるのだろう。でも、そういうものは同じ状況に立てば、大抵の人たちが抱くものだ。
 ひとつ、思い当たることがあるとするならば。

「私、リオさんがオーバーブロットしたとき、先生を引っ張って逃げようとしました」

 あのとき、頭をよぎったのは年末のことだった。初めてオーバーブロットというものを前にしたとき、ヒトハは本能的に「勝てない」と判断した。勝てないと思ったから、彼の袖を引っ張ったのだ。

「でも、先生は逃げなかった。だからリオさんは死なずに済んだ。私は、そういうのいいなって、思っただけなんです」

 あの冬の日、自分は恐れに背を向けた。死は怖い。それは自分のものであっても、大切な人のものであっても。
 けれど恐れを乗り越えたとき、手にしたのは友であり今日だった。手にして初めて「よかった」と思えた。そんな瞬間が、今回の出来事でも起きるかもしれない。助けてよかったと感じられる日が、来るかもしれない。
 つまり、結局のところ、やらずに後悔したくなかっただけなのである。
 あとは、とヒトハは続けた。

「やっぱり……私にあんな……屈辱を…………」

 そう、あの許しがたい男たち。忘れかけていた怒りがムカムカと腹の底で燻り始める。

「あんな人たちのせいで罪のない子が傷つけられるなんて、とにかく許せません。……やっぱり魔法、かけてきていいですか?」

 ヒトハが問うと、クルーウェルは「なんという執念だ……」と引き気味に言った。彼にだけは言われたくない一言である。
 ふう、とひとつ呼吸を置いて、ヒトハはいつの間にか体にかかっていたジャケットに気がついた。夏の夜は当然暑いが、空を何度も高速で飛び回りながら風にあたっていたものだから、少し体が冷えているような気がする。と、思ったが、そういえば靴もグローブも失くし、ドレスは自分で引き裂いたのだ。パーティーに行く前までは「汚しでもしたら」と不安に思っていたが、もはや汚すというレベルを超えている。
 過保護な彼がよく許してくれたものだ。不相応なパーティーに参加するのを心配して、遠方から駆けつけてくれたほどなのに。
 ヒトハは少し眠くなってきた頭を叩き起こしながら言った。

「先生、私を行かせてくれて、ありがとうございました」

 見上げると、彼は柔らかく目を細めながら「いいや」と笑った。

「お前にだって、自分の力で守りたいものがあるのだろう?」

 ヒトハは目をまばたいた。
 そして地面に垂れ下がった腕をなんとか持ち上げ、彼の体をぎゅうと抱いた。応えるように抱きしめ返す腕の中で、幸せに瞼を落としたのだった。

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