清掃員さんと先生のサマーホリデーの話

06 予感

 ボトルグリーンの生地が赤いフロアに向かって流れ落ち、足元で揺れながら遊んでいる。ヒトハはそれを見下ろして、はぁ、と一つため息をついた。
 赤も青も黄色も試したが、なんだかんだで緑が一番似合っているような気がする。いつかの冬にクルーウェルが仕立ててくれたドレスの色だ。それならいっそ、クローゼットの隅で活躍を待つばかりの一張羅を持ってくればよかった。そうすれば、こうやって脱ぎ着を繰り返すこともなかったのに。

(でも)

 どうしてか、持ってくる気になれなかったのだ。きっとあれ以上に似合うものなんてないのに。
 ここへ来る前、実はあのドレスに一度だけ袖を通した。けれど鏡の前に立ったとき、学園の外で──彼の目の届かない場所で、あのドレスを着ている自分が想像できなかったのだ。
 ヒトハはフィッティングルームの扉をそっと開いて、顔を覗かせた。扉の前で店員と共に待っていたリオは一瞬だけ目を見開いて、「よく似合っています」と顔を綻ばせる。
 彼はどの色を着ても同じことを言ったが、反応を見るに、この色が一番似合っているのだろう。ヒトハは申し訳なさを感じながら、あえて気がつかないふりをした。

「やっぱり私、青にします」

 目を向けた先には、紺に近い青色のドレスがハンガーラックにかかっている。大人っぽく落ち着いたデザインだが、それゆえに大人しすぎるデザインでもあった。

「僕はそちらの緑が似合っていると思いますけど……」

 初めて怪訝そうな顔を見せたリオを見て、ヒトハは困ったように笑う。けれど首を横に振って「青が気に入ったんです」と言うと、彼は快く「では、それにしましょう」と微笑んだのだった。

 身の回りの物を一式選ぶのは想像以上の大仕事だった。クルーウェルに引きずられてブティックを渡り歩くこともあったから、慣れているものだと思っていたのだが。
 ヒトハがへとへとになりながらフォレストの屋敷にたどりついたときには、もうとっくに日が沈んでしまっていた。
 半年ぶりに訪れる屋敷は木々の中でぼんやりと浮かび上がるように佇み、雪ひとつない中でも相変わらずの壮観な景色を作り出している。ほぼ全壊していたはずの離れの図書館が元通りになっていたが、リオによれば、最近建て直しが終わったばかりなのだという。修復魔法でもどうにもならないほどだったと語る彼の顔には、申し訳なさでは収まらないほどの苦々しい表情が浮かんでいた。
 ヒトハは屋敷の使用人たちから歓待を受け、美味しい夕食を胃袋に詰め込み、気がつけばベッドの上に倒れ込んでいた。足の裏がじんじんと痛み、体が重い。

「つかれた……」

 ころりと体を転がして天井を見上げる。最初は見覚えのある部屋のように感じたが、前回来たときに泊まった部屋とは間取りが違うような気がするから、恐らく違う部屋なのだろう。一体客室をいくつ持っているのか──考えるのも億劫なくらいだ。もしもリオと結ばれたら「玉の輿だ」とエペルが目を輝かせていたが、やはりこういう生活は合わなさそうだと考える。
 部屋の奥から葉擦れの音がさわさわと響いて、ヒトハはむくりと起き上がった。中庭に面する大きな窓が、少し開いているらしい。屋敷内は空調でよく整えられているから、窓が開いていては、せっかくの冷気が逃げてしまうかもしれない。
 ヒトハはベッドから降り立って、揺れるカーテンに近づいた。薄いカーテンの向こうでは、ぽっかりと夜空を穿つような月が浮かんでいる。慣れない場所で見る夜空だが、ナイトレイブンカレッジで見るものと、そう変わらないように思えた。
 彼は同じ夜空の下で何をしているのだろうか。断ってしまった旅にひとりで出かけているのだろうか。それとも、自分ではない誰かといるのだろうか。

「あれ?」

 ヒトハはふと見下ろした庭の隅で、温かいランタンの光を見つけた。そこに佇む青年は、丁寧に整えられた花壇をじっと見つめている。

「リオさん」

 ヒトハは思わず彼の名前を呼んだ。ここは二階で、叫ぶ程の声量もなかったから、届いたかどうかも分からない。けれどリオは振り返ってヒトハの姿を見つけると、手を振る代わりに、ランタンを振ったのだった。

 庭に下り立つと、リオは「疲れていないですか?」とヒトハを気遣った。疲れていないわけではなかったが、ヒトハは「いいえ」と首を振る。どうにも放っておけなくて、話しかけてしまったのは自分だ。
 ヒトハはリオの持つランタンをつついて言った。

「上達してますね」
「ええ、最初に教えてくれた“先生”がよかったのかもしれません」

 ほら、と光を点けたり消したりして、リオは得意そうに言った。魔力を無尽蔵に垂れ流していた昨年の姿からは想像もできないほど、魔力の扱いが上手くなっている。
 けれどランタンを下ろした彼の顔は、暗く陰っていた。

「でも、実はまだ魔法を使うのは怖くて。ユニーク魔法もあれから一度も使えていません。僕がオーバーブロットしたせいで多くの人たちを失いかけてしまいましたし、ヒトハさんやクルーウェル先生にも、申し訳ないことをしてしまいましたから……」

 昨年末にリオが起こした事件は、この屋敷にいる全員を危険に晒すものだった。
 彼は魔法が使えるようになって一番に魔法の恐ろしさを刻み込まれたのだ。それはたぶん、これからもずっと心に残り続ける傷になる。それを今すぐに克服するというのは、あまりにも難しいことだろう。

「焦ることはないですよ。だって、リオさんが魔法を使えるようになったのは半年前のことでしょう?」

 ヒトハが言うと、リオはゆるゆると首を横に振った。彼はおもむろに腕を伸ばして指先を遠くに向け、それを広く横に滑らせる。

「よく見えないですけど、実はあそこからあそこまで、僕たちの土地でして。結構質のいい魔法石が採れるんです」
「へっ!?」

 広い敷地にヒトハの間抜けな驚き声が響き渡る。リオはそれを面白そうに笑った。

「そういうわけもあって、親戚たちはみんな父の跡を継ぎたいんです。だから最近僕が魔法を使えるようになったのが、どうにも気に食わないみたいで」
「リオさんの代わりになれると思っていたんですね。リオさんが魔法士じゃなかったから……」

 リオは頷いた。
 彼らにとって昨年末の出来事はさぞ衝撃的なことだっただろう。当たり前のように後継者の枠から外されていた息子が、とてつもない力を得て戻ってきたのである。
 ヒトハは暗い夜の山々をじっと見つめた。日中の景色は朧気だが、あれだけ腕を動かしていたのだ。山ひとつふたつは軽いだろう。彼はそこから質のいい魔法石が採れると言った。どうりでこの豪邸、あの羽振りのよさだ。所有権を巡って争うのも、分からなくはなかった。

「父も若くはないですし、これ以上の苦労はかけたくないと思っていて。だから僕は早く力を示して、父を安心させたいんです。僕が後継者として相応しい魔法士になれば、誰も文句は言えなくなるはずですから」

 それから彼は、ぽつりとこぼした。

「だから、怖がっている場合ではないんです……」

 まるで暗闇の中をひとりでさ迷っているようだと思った。右も左も分からないまま、ただ「たどりつかなければ」と、どんなものかも分からないゴールを探している。
 ヒトハは何か言葉をかけようとした。けれど、どんな言葉をかければいいか分からなかった。
 自分はリオの苦しみが分からない。生まれも育ちも今の環境も、まるで違う。彼が人生の中でどんな目に晒されてきたのか、想像のしようもない。魔法が上手く使えなくて焦った時期もあるが、それは自分のためであって、誰かのためではなかった。
 共感することができないのだ。だからといって下手な慰めをしたところで、彼の心が晴れることはないだろう。
 ヒトハは懸命に言葉を探した。そして、一つだけ見つけた。
 何か伝えられるものがあるとすれば、それは経験だけだ。唯一、彼にはまだなくて、自分にはあるもの。

「魔法は恐ろしいものです。私たちにとっても」

 魔法という力を行使するには、多少なりともリスクを伴う。振るう魔法や場所を間違えれば誰かを傷つけるし、自分だって無事では済まないこともある。無茶をすればブロットとして必ず体に返ってくるのだ。だからそれを知っているクルーウェルは、ヒトハに無謀な真似をさせたがらない。

「魔法は便利ですが、危険なこともたくさんあります。だから、怖さを知ることも大切なことだと思います」

 魔法の怖さを知らない魔法士は危険だ。彼がかつてヒトハに言って聞かせたように、“災害のようなもの”で“理性のない獣”でしかないからだ。

「たぶん、リオさんに必要なのは怖さを失くすことじゃなくて、魔法の良さを知ることです。魔法はとても美しいものなので、良さを知れば、きっと好きになれると思います。好きになれば、魔法を使う勇気が湧いてくるかもしれません」

 ヒトハは腰から抜いた杖を振った。金色の粉がパッと舞い上がり、輝きながらふたりに降り注ぐ。触れるたびにぱちぱちと弾ける光を、リオは両手に受け止めた。

「僕も……」

 彼は伏した瞳に優しい光を宿しながら微笑んだ。

「僕も、ヒトハさんの好きなものを、好きになりたいです」

 か細い声で囁かれたその言葉は葉擦れの音に攫われて、夜へと消えていく。
 ふたりは同じ光を見つめていた。その輝きが彼の手のひらに溶け切ってしまうまで、ずっと。

***

 一方その頃、クルーウェルはビーチを背にモーリスと酌み交わしていた。
 夜も更けていい時間ではあったが、海沿いに並ぶ店は煌々として、昼間と変わらない賑やかさを見せている。掻き入れ時なのか、店員たちの声もひときわ大きかった。
 ふたりがいるのは広いテントの下、テラス席だ。真夜中でも感じる暑さは鬱陶しいほどだが、海風はそれ以上に心地いい。

「それにしても、まさかここで再会するとは思っていませんでした」

 クルーウェルは久々に見る顔を前に、しみじみと言った。
 昼間のテレビ番組で声を聞き、「まさか」と思い連絡をしてみたら、宿泊先近くまで駆けつけてくれたのだ。
 モーリスは片目を瞑ってにっこりとした。

「ラッキーだったよ。明日には輝石の国に戻る予定だったからね」

 彼はぐいとビールを煽った。滞在の間にすっかり焼けてしまった肌を赤くして、嬉しそうに笑っている。

「私はパーティーには出席しないんだけど、久々に家でゆっくりしようと思ってね」

 クルーウェルはモーリスの話を聞きながら「そうですか」と一つ頷いた。パーティーの話は初耳である。彼はどうやら少し酔いが回り始めたらしい。気持ちよく話しているところを遮る気にもならず、クルーウェルはその続きを待った。

「それで──そうだ。ヒトハさんを借りて悪かったね。気を悪くしていたら申し訳ない。でも、本当に助かったよ。私の知り合いにお願いしてもよかったんだけど、息子も気の知れた人がいいだろうし」

 クルーウェルはテーブルの上に置かれた瓶に手を伸ばそうとして、その手を引っ込めた。

「ナガツキを? 借りる?」

 モーリスは酔いが回ったにしてもはっきりとした話し方をしているが、クルーウェルには何を言っているのか理解ができなかった。『借りる』とは、どういうことなのか。
 モーリスは話が通じなかったことにもどかしさを感じたのか、椅子に座り直し、片腕をテーブルに載せた。

「ヒトハさんを明日のパーティーに借りて悪かった。クルーウェルくんは彼女のことをとても大切にしているみたいだから、嫌な気持ちにさせてしまったのではないかと……」

 クルーウェルは堪らず額を抑えた。
 急に頭の中を引っ掻き回された気分だ。彼女はサマーホリデーの期間中はずっと極東にいるはずである。
 しかし彼によると、そうではないらしい。それに、しきりに言っている“パーティー”とやらは一体何なのだ。

「ナガツキはサマーホリデー中、極東の実家でご両親の手伝いをしているはずですが」

 クルーウェルが少し苛立った声で言い返すと、モーリスは大きく目を見開いた。

「え?」
「え……?」

 彼は一瞬だけ眉根を寄せてクルーウェルとまったく同じ表情をしたが、じわじわと状況が理解できてきたのか、目を泳がせ始める。右へ左へと忙しく、穴が開くほど見つめてくる相手のことは一瞥もしない。

「教授」

 けれどクルーウェルが低い声で脅しつけると、彼は渋々白状したのだった。

「ヒトハさんは輝石の国にいるはずだよ。明日、息子の出席するパーティーで、パートナーを務めるためにね」

 クルーウェルは目を閉じて、一か月近く前のことを思い出した。魔法薬を飲ませた夜にヒトハが受け取った謎の手紙、翌々日に断られた旅行、そのときの彼女の顔。思い返せば、先ほどのモーリスのようにずっと目が泳いでいた。
 手紙はプライベートのことだから詮索するのも悪かろうと思って見逃した。父親の看病で実家に帰ると言ったときは、純粋に心配をしていて気にしている場合ではなかった。
 それがすべて、パーティーに誘われたことを誤魔化すための嘘だったのである。なんという小賢しさだろう。他人の善意まで踏みにじり、よりによって、あの仔犬と!

「──あの! 駄犬が!!」

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