清掃員さんと先生のサマーホリデーの話
01 再会
燭台の炎が揺らめく。冷たい石の壁に、男の影が映り込んだ。
男は頬に薄い傷があること以外、とりたてて特徴のない男である。
男は片手に箱を抱えていた。それを部屋の隅にあるテーブルに置き、どかりと椅子に腰を下ろす。
箱は鳥籠だった。上から布を被せた長方形の籠である。中からカタカタと音が鳴っているが、男はそれを無視して部屋の中をぐるりと見渡した。まともな灯りは壁の燭台くらいのもので、窓もなく、蛍光灯すらない部屋は薄暗い。
その部屋には大小さまざまな檻があった。男はそれに一つひとつ目を留め、鼻で笑う。
──なんとボロい商売か。
命に値は付けられないと言うが、それが真っ赤な嘘であることがよく分かる。命だからこそ、これだけ莫大な値が付くのだ。
ピピピピピ……
室内にアラーム音が鳴り響く。男はうんざりと言った。
「時間か」
ズボンの後ろポケットからスマホを取り出し、画面を指で叩く。黙り込んだスマホをテーブルに放ると、男はその近くにあった革手袋を片手にはめた。ジャケットの内側に入れていた小瓶を慣れた手つきで取り出し、蓋を捻る。
「さて、お前はいくらになるだろうな」
男は籠にかかった布をはぎ取った。
鉄格子の中にいたのは、小さなドラゴンだった。その体は翼から長い尾の先まで燃えるような赤い鱗で覆われており、わずかな灯りを反射して、てらてらと怪しく光っている。
ドラゴンは長い首を伸ばし、細い瞳孔で男をじっと睨んでいた。その額には、小さな赤い石がひとつ、飾られていた。
***
ふう、ふう、とリオはせわしなく息をしながら、落ち葉の混じる土を踏みしめた。目の前を進む父は大きなリュックを背負っているにもかかわらず、歩みを緩めることはない。前を塞ぐ草を払いのけ、視界の悪い中も難なく進んでいく。
老齢であるはずの父が、これほどまでに活発な人だとは知らなかった。彼は目的のものがあれば世界中どこへでも足を運ぶ。北から南へ、西から東へ。山を登り、海をも渡る。たとえ災害に見舞われようが、獣に襲われようが、それすら楽しんでしまうような人だった。本人は魔法薬の研究のためだと言うが、リオにしてみれば、それは冒険に行くための都合のいい言い訳でしかない。
父、モーリス・フォレストは輝石の国では名のある魔法士だが、彼にとっての魔法とは、ただの冒険の助けにすぎないのである。
「あっ」
ずるり。
ぬかるんだ地面に足を取られ、リオは近くの蔓に縋った。当然、細い蔓では体を支えることはできない。そのまま握った蔓を引き千切り、派手な音を立てながら尻餅をつく。
前を歩いていたモーリスは数歩先で足を止め、顔の皺を深くしながら笑った。
「大丈夫か?」
「……大丈夫に見えますか?」
リオは苦々しい顔で父の差し出した手を握り、立ち上がった。湿ったズボンがひんやりとしていて、尻に張り付くようで気持ちが悪い。
「どれ、〈乾燥の魔法〉をかけてやろう」
モーリスは杖を抜き、それを軽く振った。リオの後ろを温かな風が通り抜け、不快感が取り払われる。
「まぁ、尻が土まみれなのは仕方ないな」
腰を捻りながら尻回りを見下ろす。一部だけみっともなく茶色に変色したズボン。森の中であればまだいいが、街中を歩くのはかなりの勇気がいりそうだ。パサパサになったそれを手で叩き落としながら、リオはさすがにうんざりとした。
「父さん、もう目的の星屑草は見つけたじゃないですか。これより奥に行って何があるんです?」
リオの不機嫌な声に、モーリスは眉を上げた。
「何かあるかもしれないし、何もないかもしれない。何もなくとも、“何もなかった”と知れるだろう。ならば行くしかあるまい」
「はぁ」
気の抜けた返事をする息子の肩を叩き、彼は溌剌とした声で言った。
「さあさあ、人生は冒険だ! 行くぞ、若人よ!」
意気揚々と前を歩き始めたモーリスを追いかけながら、リオは深いため息をつく。
我が父ながら無茶苦茶である。自分の記憶では、もう少し冷静な人だったと思うのだが。
(……いや)
違う。記憶の奥の奥にうっすらと残る父の姿。緑あふれる屋敷で過ごした、あの夏。少なくとも、父と母と三人で過ごした最後の夏までは、こうだった。
けれどふたりになってからは共に過ごすことが減り、思い出らしきものもない。ただただ静かで空虚な時間。その頃の記憶はいつも曖昧で、灰色の情景ばかりが残っている。
自分は逃げたのだ。人生で一番辛い出来事に直面したことをきっかけに、自分を苦しめるすべてのことから逃げた。そしてその中に父がいた。だから自分たちの間には、ぽっかりと“穴”がある。
(あのとき逃げずにいたら、何かが変わっていただろうか……)
今更考えたって仕方のないことだと、分かっているけれど。
「リオ」
呼び声を聞いて、リオはハッとした。数メートル先でモーリスがしゃがみ込み、何かを見ている。慌てて駆け寄ると、彼は地面を指差した。ぬかるみに凸凹とした跡が残っている。それは獣の足跡ではなかった。
「人の足跡……?」
靴の跡だ。それも、複数人の。
この森に用のある者は少ない。それこそ足を踏み入れるのは研究や調査を目的とした者くらいのものである。それにこの森には住人がいる。魔法士でなければ危険だ。
「最近のもののようだ。まだいるかもしれないな」
立ち上がり、断ち切られた蔓の先を摘まむ。彼はその先を見据え、おもむろに足を踏み出した。その先は更に深い森の奥地になる。リオは慌てた。
「父さん」
「同業者かもしれないじゃないか。情報交換ができたら最高だ」
彼は口元だけで笑った。そしてそのままの表情で、静かに続ける。
「杖をいつでも握れるようにしておきなさい。場合によっては、少々危険なことになるからね」
道は険しかった。今まで選んでいた道は、まだ人の歩ける道だったと今更ながらに思い知る。リオは先ほどよりもいくらか息を上げ、斜面から飛び出した木の根に足をかけた。差し出された手を握り、ぐんと体を持ち上げる。
上りきったのを確認すると、モーリスは数歩前に進んで、唐突に足を止めた。その背に鼻先をぶつけそうになったリオは、慌てて立ち止まる。彼は振り返り、口元に人差し指を立てた。
「〈ルク〉だ」
「ルク?」
聞き返すと、彼は目の前にぶら下がる枝葉を掻き分けた。その隙間から見えるのは開けた空間だ。そして青空を背に鎮座する枝と枯草の集合体。緩やかな半円形をした、鳥の巣である。形だけならどこにでもある鳥の巣だが、しかしこの鳥の巣には、一つだけ異様な点があった。
恐ろしく巨大なのだ。枝の集合体といっても小枝ではなく、一本一本が腕よりも太く長い。高さはリオの背ほどもあり、中に何があるのかさっぱり分からない。現実離れした大きさだ。
「昔読み聞かせてやった“船乗りの青年と子トラの冒険物語”を覚えているか? ルクはそれに出てくる巨大な怪鳥だよ。しかし、こんなところに巣があるとは……おや?」
モーリスは何かに気がつくと、そっと草を掻き分けて前へと歩み出た。リオはその姿に目を剥き、慌てて引き止める。
「大丈夫なんですか!?」
彼は振り返り、楽しそうに片目を覆った。
「私を誰だと思っている? 輝石の国に名を轟かせる〈深雪の魔法士〉だぞ」
「都合のいいときだけ使わないでくださいよ、それ……」
リオは再びため息をついて、何の躊躇いもなく巣のほうへ向かっていく父の背を追いかけた。
巣は切り立った崖の上に作られている。周りに背の高い木は生えておらず、見晴らしがいい場所だ。巨大な巣に住む鳥なのだから、これだけ広いスペースが必要なのだろう。
各地を旅しているモーリスはさておき、リオにとっては見たこともない光景だ。生き物の気配はまるで感じないが、たまたま留守にしているのだろうか。それとも、子育てを終えて放棄したのだろうか。
「ああ、これは……」
嘆きの声を聞いて、リオは顔をモーリスに向けた。
彼の目の前には破裂したかのように粉砕された枝や抜け落ちた羽が散らばり、何者かが暴れた跡がある。巣は三分の一が大きく崩壊し、中が筒抜けになっていた。そこから何かを引きずり出したようで、地面に残った跡が巣から少し離れた場所まで続いている。
この巣はもう使えない。誰が見ても一目瞭然だった。そこでリオは、散らばる枯草や枝の中に大きな白骨がごろごろと混じっていることに気がついた。
「これはルクの骨ですか?」
モーリスは渋い顔のまま首を捻る。
「いや、象か何かだろう。雛が食べるために親鳥が狩ってくる餌だ」
「ぞ、象……」
リオは足元に転がる白い骨を見て、顔を青くした。この一メートルは優に越える骨の持ち主を雛が食べるのだ。親鳥ともなれば、雛鳥の比ではないだろう。それを考えれば、ルクは想像絶する体躯を持っていることが分かる。
彼は崩壊したところから巣の中を覗き込み、残念そうに肩を落とした。
「誰かが荒らしたな。かわいそうに……」
「荒らした?」
「密猟者だよ。魔法の形跡がある。奴ら、卵を狙っていたのかもしれない」
「卵を……」
リオは巣を見上げた。崩れてもなお、恐ろしいほど巨大な巣だ。しかしこれも、生まれてくる雛鳥のために作られたゆりかごなのである。こうして無惨なまでに破壊され、巣をこじ開けられた跡を見ていると、いいようのない悲しさが込み上げてくる。卵を持って行ったとしたなら、親鳥はどうなったのだろうか。親鳥は、この光景にどんな感情を抱いたのだろうか。
「もう使われている巣ではないだろうが、他の個体や親鳥が近くにいるかもしれない。戻ろう」
「そうですね」
リオは頷いた。この巣の持ち主の安否は不明だし、ここが彼らの生息地であると分かった以上、他のルクが現れてもおかしくはない。
言われた通りに踵を返し、元居た茂みへ向かう。そのときだった。
踏もうとした地面が鞭打つように抉られる。土が跳ねると同時に前髪が舞い上がり、リオはそれが風であることを遅れて理解した。咄嗟に強く腕を引かれ、止まっていた呼吸を吹き返す。
「参った。目をつけられてしまった」
苦々しく言いながら、父は迫りくる風の刃を魔法で防いだ。リオは彼の杖が向いているほうに素早く目を走らせる。
「妖精……?」
森の緑に混じる、いくつかの小さな姿。木の妖精たちは木の根のような衣をぐるりと体に纏い、四枚の羽で宙を飛んでいた。
自然と強い繋がりのある彼らは、もともと人間に友好的ではない。だからなるべく避けていたのだが、知らぬ間に森を荒らす不届き者とみなされてしまったらしい。警告音のような、不快な鈴の音が鳴り響く。
「リオ! ユニーク魔法は使えるか!?」
「えっ!?」
父の魔法障壁が妖精たちの風魔法を防ぎ、目の前で火花を散らした。
リオのユニーク魔法。それはかつて冬の日に、屋敷の人たちを一瞬のうちに深い眠りにつかせた強い“呪い”だ。目の前で器用に魔法を使いこなす父すらも、その餌食としてしまった。
自然に囲まれたこの場所で、妖精たちを刺激するべきではない。そうであるならば眠らせてしまうのが最も効率がよく、最も穏便に済む。
彼の考えはすぐに理解できたが、しかしリオはそれを使う術をまだ知らなかった。二度目を使えたことがないのだ。そればかりか、眼前に迫りくる蔓を弾く魔法すらも、上手く使えた試しがなかった。
「──うわっ!」
目の前で妖精の操る蔓が弾かれる。モーリスは短く呪文を唱えながら、杖を持つ手を捻った。
杖から放たれた青白い光が妖精たちを捕らえ、バチバチと弾ける。すると妖精たちは、糸が切れたように次々と地面に墜落していったのだった。リオはその一瞬の攻防を、呆然と見ていることしかできなかった。
「大丈夫か?」
モーリスに気遣われ、リオは額を抑えて大きく息を吐いた。手のひらに、じっとりとした汗が滲む。
「すみません……」
「謝ることはない。魔法はすぐに習得できるようなものでもないからね」
彼は顔を曇らせるリオの肩を叩き、杖を仕舞った。
魔法を使おうとすると、いつもこれだ。あの最悪の日がフラッシュバックして魔法どころではなくなってしまう。また誰かを傷つけてしまうのではないかと思うと、恐怖で身がすくむ。
(せっかく使えるようになったのに)
これでは宝の持ち腐れだ。父が仕事の時間を割いてまで魔法を教えてくれているのに、とりわけ防衛魔法では成果を感じたことがない。
(これでいいのだろうか……)
不安と同時に、焦りも募った。父がこのところ親戚たちから「後継者は誰にするのか」と迫られていることを知っている。まさか魔法士として未熟な息子に継がせる気かと難癖をつけられていることも。だから一刻も早く魔法を習得し、力を示して、父を安心させなければならないのだ。それが自分のせいで長年苦労をかけてしまった父への、唯一の恩返しになるのだから。
「さぁ、この森はもう我々の味方ではない。急いで帰ろう」
背を叩かれ、リオはハッとした。妖精たちを攻撃したのだ。それが他の妖精たちに知れ渡れば、再び戦闘になるかもしれない。リオは先を進む父を追いかける前に、少しだけ振り返った。そこには動きを封じられ、小さく痙攣する妖精たちが点々と地面に伏している。
かわいそうなことをしてしまった。自分が上手くユニーク魔法を使えていたら、こんな目には遭わなかっただろうに。
(早く魔法を習得しないと……)
そのとき、リオの耳元で何かが羽ばたいた。
「わあ!?」
前を歩いていたモーリスは、息子の大声を聞いて素早く振り返った。杖に手をかけ、いつでも魔法を放てるように身構える。しかしそれも一瞬で、彼は「なんだ」と拍子抜けした様子で杖から手を離したのだった。
「小鳥じゃないか」
「と、鳥!?」
モーリスの視線をたどり、リオは自分の肩を見下ろした。そこには白い小鳥がいた。くりくりと丸い目をまばたきながら、可愛らしくピチチと鳴いている。
引き返してきたモーリスは鳥をじっと観察し、顎をさすった。
「いや……これは鳥ではないな。そんな古臭いもの、一体どこからだ?」
「どこから?」
リオは肩から腕をつたってトントンと下りてくる鳥を凝視した。
鳥はリオの手の中で再びピチチと鳴く。どこからどう見たって鳥だ。嘴まで白いが、文鳥に近い大きさと見た目をしている。そう思ったが、やはり鳥は“鳥”ではなかった。
鳥はリオの手の上で急にくるりと翻ったかと思うと、長方形の薄い紙に姿を変えたのである。大自然にそぐわない滑らかで肌ざわりのいい真っ白な紙。そして金色の封蝋に刻まれた仰々しい紋章。
鳥はリオの手の中で、一枚の封筒に変身したのだった。
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