Seven days for me
04 Fourth day
「へぇ〜! ヒトハさん本当に若返ってる!」
「十七ってことは、年下か」
そう言って興味深そうにしているのはケイト・ダイヤモンドとトレイ・クローバー。どちらもハーツラビュル寮で、エースとデュースの先輩だ。ケイトは人好きのする明るい性格の青年で、トレイは落ち着いた優しげなお兄さんといった印象である。
ヒトハは放課後の魔法薬学室で彼らに囲まれ、せっせとタルトを食べていた。色とりどりのフルーツタルトはトレイの手作りで、大人の自分もよく食べていたという。
そもそもどうして魔法薬学室でフルーツタルトを食べることになったのか──それは三十分ほど前に遡る。
***
あれから四日目になる今日、学園生活に早くも馴染んできたヒトハは、放課後にクルーウェルと魔法薬学室で会う約束をしていた。話によると週に一度の習慣のようなもので、大人の自分は毎週足繁く魔法薬学室に通っては彼と雑談をしていたらしい。
それだけ聞くとかなり奇妙な習慣ではあるが、別段嫌というわけでもない。昨日も一昨日も夕食がてら一日にあったことを報告していたから、ヒトハは似たようなものかとあまり深く考えないことにした。一緒に過ごしているエースもデュースも監督生ですらも、そのことを伝えると「ああ、いつもの」と言うくらいなので、きっと本当に大したことではないのだろう。
「……急いで来たのにな」
そして約束の放課後、ヒトハは誰もいない魔法薬学室でぽつりと呟いた。
こんなことなら来週の課題をすると言っていたエースたちを少し手伝えばよかったな、と少しばかり後悔しながら、やることもなく教室をうろうろと歩き回る。スマホには「遅れる」と驚くほど淡白な連絡が入っていて、しばらくこの暇な時間をひとりで過ごさなければならない。
ヒトハは意味もなく薬品棚を眺めて歩きながら、ここ数日のことを思い出していた。
今日を入れて四日間、まだ重く暗い不安を抱えてはいるが随分と慣れてきたものだと思う。それはきっと、余計なことを考えるよりも他のことを考える時間が増えてきたからだろう。
(色々分かってきた、けど……)
この学園にいる多くの知り合いたちが大人の自分と同じように接してくるたびに、本来の自分の立ち振る舞いがどんなものなのか、何をして、どうやって今に至ったのかを考える。そしてそれを理解して周りに溶け込むほど、自分自身の“今”の存在が薄れていくような気がした。
「あれ? これ……」
しばらく歩き回っていると、ヒトハは薬品棚の一画に気になるものを見つけた。
同じ形の真新しい瓶がいくつかまとめて置いてあり、中身はそれぞれ異なる魔法薬だ。一つひとつにラベルが付けられていて、鋭いが形の良い字で番号が振られていた。その横に覚えのある文字が並んでいるように見えるが、棚には鍵がかかっていて瓶をずらさなければ全部は見れない。
ヒトハは体を傾けたりしながら何とかそれを見ようとして──その時、魔法薬学室の扉が開いた。
クルーウェルかと思って棚から飛び退いたヒトハを目撃したのは、ケイトとトレイ。驚いたような顔をして、白い小箱を手にしていた。
「先生、まだ来てないね」
ケイトはスマホを片手に教室の中をぐるりと見渡してヒトハに気が付くと、にっこりとした。
「先に始めちゃおっか」
***
「美味しいです。とても」
「そいつは良かった」
頬を緩めるヒトハを見て、トレイも同じように微笑んだ。
クルーウェルと約束をしていたのに何事かと思えば、彼らは自己紹介もほどほどにヒトハを強制的に机の前に座らせると、白い箱からこのタルトを取り出したのだ。自室の冷蔵庫にはなにやら渋い食べ物ばかりが詰まっていたし、甘い物は今までの寮生活でもあまり食べる機会はなかった。久しぶりのタルトは格別で、口に含むたびに幸せな気分になる。
「それにしても、何でタルトなんですか……?」
と、今更ながらに疑問が湧いてきて、ヒトハは首を傾げた。
彼らは「甘い物は好きか?」と問うと、これといった説明もなくタルトを勧めてきたし、ケイトに至っては「やっぱトレイくんのタルト、映えるよねぇ」と言いながらスマホで写真を撮り始めたものだから聞く暇などなかったのだ。
ヒトハの当然の問いに、トレイは思い出したかのように「ああ」と言うと眼鏡を指先で持ち上げた。
「実はクルーウェル先生に頼まれてね。『あいつが好んでお前に頼んでいたものだ』って。ヒトハさん、俺が作ったタルトをここに持って来ていたらしいからな」
「オレ、それ聞いてびっくりしちゃった。トレイくんがたまに欠けたタルトを寮に持って来てたのが不思議だったんだけど、そういうことだったんだな〜って」
「ワンホール分頼んで二切れしか持って行かないからな。あれはヒトハさんの奢りだよ」
「へぇ、今度お礼言っとかなきゃ」
トレイとケイトが楽しそうに話しているのを片耳で聞きながら、ヒトハはいつの間にか空になった皿に目を落とした。
これは大人の自分が好んでいたタルト。だから今の自分も当然好きなはずだと予想して用意されたもの。確かにその予想は当たっていたのかもしれない。トレイのタルトは極東で食べたどのタルトよりも美味しかった──けれど。
どこか残る違和感の答えは、考える間もなく返ってきた。
「これは先生には秘密なんだが、ヒトハさん、この前一度だけ『先生、このタルト好きみたいだから』って言ってたよ」
「私が?」
ヒトハは思わずトレイを見上げた。悪戯っぽく笑う姿に、違和感の正体を見つけて悟る。
きっと、どこかで気がついたのだろう。表情か仕草か、はたまた言葉かは分からないけれど。彼はこれが好きなのだ、と知る瞬間があって、だから週に一度のこの時間に時折トレイのタルトを持ち込んだ。結局、自分の好きなものと勘違いされてしまったのは不器用と言う他ないが。
何も言えずにいるヒトハの代わりに、ケイトが「あー」と気まずそうに声をあげた。スマホを置いて、苦笑を浮かべる。
「噛み合わないねぇ」
確かにそうだ。相手のためを思った行動が伝わりもしないなんて、こんなに馬鹿馬鹿しいことはない。
しかしヒトハには確信に近いものがあった。きっと、これで良いのだ。なぜならこれは、たとえ結果的に思い違いを生んだとしても、それでいいと思えるほどに素朴な真心だから。もしもこの真心を知られたいと願うなら、一度くらいは「好きでしょう?」と問うはずだ。そうしなかった気持ちが、まるで手に取るように分かるのだ。
(ただ少し喜ばせたかっただけ。でも、どうして?)
こればかりはどんな推測をしても答えが出ない。結論ばかりが提示されて理由が分からないのは、ひどく気持ちが悪かった。
「あの、何で毎週私がここに来てたか、知っていますか?」
「ああ、それは」
ヒトハが意を決して問い、トレイが口を開いたとき、魔法薬学室の扉が静かに音を立てた。
「なんだ、もう来ていたのか」
その声に、ヒトハはどきりとして一瞬息を止めた。二人も示し合わせたかのように口を噤んで、そして何事もなかったかのように扉に目をやる。
クルーウェルは一直線に三人の横を抜けて教壇へ向かうと、抱えた紙の束を下ろして小さく息を吐いた。いくらか疲れた様子を見せる彼に、いち早く切り込んでいったのはトレイだ。
「昔のヒトハさんと少し話してみたくて早めに来たんです。俺たちはそろそろ帰ります」
「もう帰るのか?」
「ええ、タルトもいつもと同じ数しか持って来ていないですし」
トレイはヒトハに「聞いてみたらいい。きっと教えてくれる」と囁くと、帰りを急かすようにケイトの肩を叩いた。
去り際にケイトが振り返り、「ヒトハさん、またね」と軽く手を振る。その姿に手を振り返しながら、彼らとの“また”がどの自分になるのか分からなくて、それが少しだけ寂しかった。
結局二人だけになってしまった空間に、ヒトハはかつてない居心地の悪さを感じていた。
あんな話を聞いた後では、とても今までのような目で彼を見ることはできない。大人の自分は一体どんな感覚で、どんな態度で、どんな思いで接していたのだろう。これほどまでに元に戻りたいと感じたことは、ここ四日間で一度もなかった。
「そういえば、あの棚の魔法薬……私の名前が書いてありますよね」
言葉に迷いに迷ってふと思いついたのは、トレイとケイトが来る前に抱いた疑問。
クルーウェルはコートを脱ぐ手をぴたりと止め、ゆっくりとこちらに視線を移すと、珍しく困ったように眉間に皺を寄せた。
「私、自分のことを知りたいんです。教えてください、クルーウェル先生」
ヒトハの真っ直ぐな問いに、ややあってクルーウェルは小さくため息をつくと棚の鍵を開け、ガラス戸からいくつか瓶を取り出して机に並べた。
「これは全てお前のための魔法薬だ」
決して綺麗とは言い難い色をした魔法薬の瓶を前に、彼はそう答えた。そして一瞬の躊躇いの後「実は」と続ける。
「お前はこの学園に来て働き始めたその日に薬品で手を溶かしてな」
「………………は?」
「まぁ、なんとか再生はしたんだが、皮膚に酷い火傷痕のようなものが残ってしまい」
「え?」
「この俺が元に戻す手伝いをしているというわけだ。週に一度、この魔法薬を作ってな。……やはり自分の手がそんなことになると知るのは刺激が強すぎたか」
ヒトハはあまりのことに数えきれないほどの瞬きをして、静かに眉間を抑えた。
「えっと、いえ、あの……待ってください」
手を薬品で溶かしたということは、素手で薬品を触ったということだ。あれだけ口酸っぱく手袋をしろと先生に言われておきながら、すっかりと忘れてしまって。
「で、でもこれは自己責任ですよね? どうして先生が魔法薬を? 先生にメリット、ないですよね?」
「ないな。だが『色々あった』と言っただろう?」
混乱のまま問うと、クルーウェルははっきりと言い切った。メリットはない、だがそうするだけの理由がある、ということだ。初日に彼の言った「色々あった」という言葉を思い出すと心が急いてしまう。
その色々を知りたいのだ。なぜならそこに、大人の私が彼をほんの少し喜ばせたかった理由があるから。
ヒトハがその疑問を口にするより先に、クルーウェルはヒトハの前に立つと片手を差し出した。
「それより、手を見せてくれないか」
「え? は、はい……」
ヒトハは突然のことに、おずおずと手を差し出した。
彼の大きな手に比べると、すっぽり収まるくらいの小さな手だ。ペンだこが角ばって見えて、女の子らしく可愛い手とは言い難い。それを今まで気にしたこともないくせに、今更恥ずかしく感じた。
(温かい)
その手を広げたり傾けたりしてつぶさに観察しようとするクルーウェルをぼんやりと眺めながら、ヒトハはそんなことを考えていた。温かい。大人の自分も、そんなことを思っていたのだろうか。少し恥ずかしくて、でも嫌じゃないなんて、矛盾したようなことを考えていたのだろうか。
クルーウェルは「なるほど」と言うと、あっけなくその手を離した。
「俺は怪我をした後しか知らないからな。早くここまで戻してやりたいが」
彼の独り言に近い言葉は、か細い針で突き刺すように、ヒトハの胸に小さな痛みをもたらした。
目の前にいるのは紛れもなく自分なのに、彼はその先の大人の姿を見ているのだ。
考えてみれば当然のことで、たった一週間程度入れ替わった人間のことなど気にかけても仕方がない。どうせこの魔法が解けてしまえば、何もかも元通りになって、自分は消えてしまうのだ。
そう思うと、急にこの世界から弾き出されたような気がした。恐怖ではない。ただただ、悲しい。
当然そんなことを考えているなど知るわけもなく、彼は一切れ余っているタルトを見つけると、それを自然にヒトハの前に差し出した。
「クローバーは菓子作りにかけては学園一だからな。美味しかっただろう?」
「はい」
「あいつもよく持って来ていたからな」
ヒトハはそれを受け取って手前に引き寄せた。鮮やかな苺、まるまるとしたブルーベリー、瑞々しいオレンジ。
(違うのに)
これはあなたのためなのに、と言ってしまいたくなる。けれど結局のところ、彼のために行動したのは自分ではない。
違うのに。
なんとか飲み下しても、一度溢れ始めたものに蓋をするのは難しい。否定したいことはこればかりではなかった。
本当は「ここにいるのはあなたの知る私ではない」とも言ってしまいたい。しかしそれだけは飲み下すこともできなかった。この感情を受け入れるにはまだ未熟で、かといって吐き出してしまえるほど子供でもない。
ヒトハは誤魔化すように、譲ってもらったタルトに口を付けた。
(味がしない……)
それは舌触りだけを残して、これっぽっちも幸福感を与えてはくれなかった。
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