魔法学校の清掃員さん
11 清掃員さんと炎上
秋晴れ。心地よい気候に、ヒトハは仕事ながら散歩気分で魔法薬学室へ向かっていた。
ナイトレイブンカレッジの敷地は広大で、牧場、森に植物園にと緑があふれている。極東のコンクリートジャングルで過ごしていた頃よりは季節を感じやすく、この自然の豊かさはヒトハがこの学園で気に入っていることのひとつだった。
魔法薬学室から移動する生徒たちとすれ違い、知り合の生徒と挨拶を交わし、重い扉を開いた先にいたのは、かの名物教師デイヴィス・クルーウェルである。次の授業の準備をしているのか、教科書を片手に魔法薬の素材を机に並べていた。
ヒトハが箒片手にやって来たのを見ると、彼は手を止めて一言「ご機嫌だな」と鼻で笑った。
「ええ、今日は天気が良くて気持ちがいいですし」
それに、とヒトハは声を弾ませた。今日気分が良い理由はこればかりではなかった。
「聞いてください! マジフトワールドカップの観戦チケットが当たったんです!」
「マジフトが好きだったのか」
「はい! バルガス先生と今度のお休みに行ってくるので、お土産買ってきますね」
以前箒の手配をした際にバルガスとマジフトの話で意気投合し、二人で抽選に挑んだところ、ヒトハが応募した分が見事当選したのだ。二人分応募していたから、当然もう一枚はバルガスに渡している。
クルーウェルはバルガスの名前を聞くと、「ん?」と小さく声を上げた。
「バルガス先生と? 国外なら泊まりか?」
「いえ、鏡の使用許可が下りたので日帰りです。もしかして先生も興味ありました?」
「いや、ないな」
そう言って作業に戻ったクルーウェルは本当にマジフトに興味がないらしい。たしかに汗臭いことは苦手そうだ。
特に話が盛り上がったわけではないが、ヒトハはひとまずこの喜びを伝えるだけ伝えられて満足だった。今日はずっと、誰かにこのことを言いたかったのだ。
ヒトハは次の授業が始まる前にゴミの回収と軽い掃除を済ませようと、そのまま奥の保管庫へ向かった。
「――先生!」
と、保管庫に向かったかと思うとバタバタと戻って来てコートにしがみつく女に、クルーウェルは目を白黒させながら「なんだ!?」と戸惑いの声を上げた。
ヒトハは背に回りすっぽりとその身を隠して頭だけ出し、震える指先で保管庫の方を指した。
「あああ、あそこ!」
クルーウェルは震えるヒトハを見てさすがに只事ではないと思ったのか、素材を机に置き、杖である指揮棒を手に取りそろそろと保管庫へ向かった。
そう、“いる”のだ。この涼やかな心地よい気候の中、しぶとくも夏を生き抜き、満を辞してこの魔法薬学室に姿を現した黒くて素早くて大きなアレが――
「虫くらいひとりでなんとかしろ」
彼はその正体を見るなり「はぁ」と大袈裟なくらいにため息をついた。胸元まで持ち上げた指揮棒をだらりと下げて振り返る。呆れた目でヒトハを見下ろし「離せ」とまで言うのだから一欠片も情がない。
「そこを! なんとか!」
「魔法で燃やすか凍らせるかすればいいだろう」
「も、燃やす!?」
ヒトハはその残忍な発想に驚いて変な叫び声を上げた。いや、叩くよりは良いのだろうか、と部屋の隅を見やる。蠢く黒くて大きくて素早いアレを、今すぐ何とかしなければならない。でなければどこかへ消えて、ひとりで掃除をしている時に出てくるかもしれないのだ。それだけは阻止したかった。でもやっぱり自分で手を下したくはない。
「たしかに先生は虫が嫌いそうな顔してますけど! 私の方が嫌いです!」
「おい、虫が嫌いそうな顔とは何だ」
日焼けを知らない陶器のような肌。すっと通った鼻筋に深く皺を寄せ、忌々しく品の良い唇を歪ませる……こういう顔のことである。これで虫を捕まえてわんぱくしている姿を見てみたいとは思うが。
クルーウェルは頑なに嫌がるヒトハを見て何かを思いついたのか、不服そうにしていた口角をじわりと持ち上げた。
「せっかくだ。特訓の成果を見せてみろ。俺はお前の器用さには一目置いているんだ。お前の魔法であれば、この距離でもあの小さな虫一匹燃やすくらいは容易いはずだな?」
「えぇ? こういう時だけ調子いいこと言って……」
クルーウェルは前回の特別授業、もとい躾でヒトハの魔法を扱う技術に目をつけた。とりわけ魔法の扱いの器用さと瞬発力がお気に入りで、“速くて正確”と評価している。
これは学生時代に修得した技術で、目視できる範囲であればほとんど的を外すことはなく、浮遊魔法は針に糸を通してみせるほどの精度を誇る。この点においては平均レベルを大きく上回っていたが、結局のところあまり使い道はない。どれもが「回数が打てない」「維持できない」で一蹴されるようなことだからだ。しかし彼だけはそうではなかった。
ヒトハは渋々杖を取り出した。今からこの愛用の杖であの虫を燃やすのだと思うと気が進まないが、かといって他に方法もないので仕方がない。
「えい」
思い切って虫に目掛けて杖を軽く振る。火の魔法が一直線に飛んでいき、魔法は見事に命中した。これで一件落着と思えたのだが――
「ひぃっ!」
ヒトハの予想を大きく裏切って、なんと虫は火を灯したまま恐ろしい速度で走り回り始めたのだった。蠢く黒くて素早くて恐ろしいアレが予測不可能な動きを繰り返している。鳥肌なんて生易しいものではない。ヒトハはプライドを投げうってクルーウェルの背にしがみついた。さすがに彼も嫌なのか、姿勢が引き気味である。
火力が足りず一発で仕留めきれなかったのだ。「なんて酷いことをしてしまったのだろう」という後悔の気持ちと「早く死んでくれ」という残酷な気持ちがせめぎ合う。
ヒトハがちょろちょろと床を這いずり回る虫を目で追いながらコートの長い毛をぎゅぎゅうに握りしめていることにやっと気が付いて、クルーウェルは「おい」と声を低くした。
「コートを掴むな……ん?」
「ん?」
彼は突然言葉を途切れさせたかと思うと、身を乗り出してやっと命尽きたまま燃え盛る虫を凝視した。ヒトハはそれを見て、虫がいる棚にある薬品が何なのかを悟って手を叩いた。最近始めた魔法薬学の自主学習の賜物である。
「あ、あれ火気厳禁」
ですよね? と問う間もなく薬品の瓶が猛烈な勢いで破裂して、ヒトハは跳び上がった。
「うわ――――っ!?」
同時に解き放たれたように朦々と煙が噴出し始め、二人は慌てふためいて教室から脱出したのだった。
何かを燻したような、かと思えばどことなく甘い匂いを感じる。絶妙に危険そうな紫の煙を吐き出そうと咳き込んでいると、クルーウェルも壁に手を当てて同じように咽せていたのだった。
「貴様!!」
「ごごごごめんなさい!!」
激昂したクルーウェルに、ヒトハは思わずセベクもびっくりするほどの大声で叫んだ。
でもまさか、火気厳禁の棚に走っていくとは思わなかったのだ。それにしたって言い出したのは彼なのに、一方的に怒鳴られるのは納得がいかない。
「あれっ? 先生、ご自慢の髪型が乱れていますよ?」
腹いせに、ヒトハは彼の髪型が乱れているのを笑った。いつもきっちり後ろに流している前髪が落ちていて、酷く焦った跡がある。ここにハーツラビュル寮のやんちゃコンビ、エースとデュースあたりがいたら面白かっただろうにな、と思うと残念だ。
クルーウェルはクスクスといやらしく笑うヒトハを鬱陶しそうに睨め付けて、鼻で笑った。
「お前、前髪焦げてるぞ」
「え!」
「冗談だ」
「え!?」
ヒトハは前髪を押さえたまま唇を噛んだ。
最近やたら嫌味ったらしい声で冗談を飛ばしてくるようになったのは気を許されている証拠なのか、馬鹿にされているのか、まるで判断がつかない。ただ一つ分かることは、自分をからかって面白がっているということだけだ。
こうして二人は重箱の隅を突くようなどうでもいい冗談の応酬を続けていたが、いつか止まるだろうと思っていた紫の煙は、なぜか朦々と立ち込めたままだった。ヒトハは口を抑えながら、そっと中を覗いた。
「あーっ! 先生、なんか燃えてません!?」
「なんだと!?」
魔法薬学の教室には貴重な薬品も、植物も多く保管されている。それこそ熱を与えたら何が起きるか分からない危険なものも多い。
慌てて杖を握り締めて、ヒトハは「水!」と叫んだ。今すぐ消火しなければ辺り一帯がどうなってしまうか分かったものではない。
「水が欲しいのか?」
「ええ! 早く火を消さないと!」
「わかった!」
とやたら快活な声で答えてくれる声の主に振り返る。
「カリムくん?」
カリム・アルアジーム。熱砂の国の大富豪の息子、そしてスカラビア寮の寮長だ。清掃員になりたてのヒトハにも「見ない顔だな!」と気軽に話しかけてくれるいい子で、家が富豪なせいか豪快なところがある。いつもであれば従者だという副寮長のジャミルと行動を共にしているようだが、次の授業が魔法薬学なのか、今日はひとりのようだ。
彼はいつもの人好きのする顔でヒトハに尋ねた。
「水だろ? たくさんあればいいんだよな!」
「え、ええ、そうですが」
一緒に消火してくれるのだろうか。
魔力が貧弱なヒトハにとっては願ってもない申し出だが、しかし、もう一人にとってはそうではなかった。
「な……! アジームだと!? やめろ! ステイ! ステイ!」
「え? でも火を消すんだよな? じゃあたくさん降らせないと!」
「降る?」
カリムはにこにことしたままペンを振り上げて呪文を口にすると、〈枯れない恵み(オアシス・メイカー)〉! と高らかに唱えたのだった。
この大炎上からの大洪水事件で魔法薬学室は一時閉鎖、ヒトハは無茶苦茶になった教室を一週間近く掃除する羽目になった。クルーウェルのよく回る口、巧妙な隠蔽により減給こそ免れたが、マジフトチケット当選の幸運をはるかに上回る不運に、ヒトハはしばらく立ち直ることができなかった。もしかしたらこれが幸運の代償というやつなのかもしれない。
のちに『虫は火で殺さないように』と謎の御達しがあり、各教室に殺虫剤が一本ずつ配られることになったのだが――生徒のほとんどはその理由がわからないまま、首を傾げることになったのだった。
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