魔法学校の清掃員さん

10 清掃員さんと躾の時間

 魔力が少ないということ。
 魔法士と非魔法士が混在するツイステッドワンダーランドにおいて、魔法士の能力というものは、まさしく千差万別だ。非魔法士に限りなく近く火を灯すことすら困難な者もいれば、雷を鳴らし雨を降らせる者もいる。平均的な魔法士であれば鍛錬によって魔法力の向上は見込めるだろう。しかるべき訓練によって飛躍的に成長することもあるかもしれない。そんな彼らでも生まれながらに限界は定められている。ここまで。そうやって無慈悲に引かれた線の先へ行けるのは、才能、遺伝あるいは種族の要因を除いて、ほとんど不可能に近いことだった。
 ヒトハ・ナガツキはその多くの魔法士たちの背を見てきた。引かれた線を越える方法はない。同じような魔法士たちは皆いなくなってしまった。彼らはやがて非魔法士たちの生活へ溶け込んでいくのだろう。それでも諦めきれずに線に立ち前を見据える姿に、限界を悟った魔法士たちは「諦めろ」と嘲りながら冷水を浴びせるのだ。

 空に鈍色の厚い雲がかかった淀んだ昼下がり。ヒトハは箒とバケツを携えて、人けのない倉庫の近くを歩いていた。生徒が水属性の魔法を派手に使った後処理をしていたせいで、もう雨が降りそうな天気だというのに体中が湿っている。その上このところ風の冷たさが鋭さを増して肌を容赦なく刺してくるのだから、今日はまったくついていない。

「さむっ」

 ひゅうと吹く風が湿った手袋を突き抜け指先を刺す。バケツの取っ手を何度か握り直して寒さを誤魔化してみたりもしたが、気持ちが紛れるくらいで何一つ良くはならない。ナイトレイブンカレッジの冬は極東よりも過ごしやすければいいと思っていたが、どうやらその望みは叶わないらしい。
 冬場の外仕事が憂鬱だ。ヒトハは冷えた肩を強張らせつつ校舎の裏へ回った。広いグラウンドや図書館、植物園がある方面とは逆側で、こちらは日中あまり陽が差さない。
 湿った土を踏みしめ落ちる木の葉を目で追っていると、ふと穏やかではない声が耳に入った。

(ん……?)

 剣呑な低い声だ。教師ではない。言い争っている感じはないが、一方的な圧を感じる。声は二人。ということは、少なくとももう一人いるはずだ。
 ヒトハはこの嫌な感じを知っていた。指先の冷たさも忘れ、踵を返す。声のする方へ向かって早足で向かう途中、鼓動が煩く耳に響いた。
 向かう角の先で行われていることが何なのか分からないわけではない。そこに自分が介入したところで何か好転するとも限らず、そして自らが無事で済むかも分からない。それでも胸を突く衝動が足を止めることを決して許さなかった。

「魔法を使った私闘は校則で禁止されてますよ」

 ヒトハは人目につかない校舎の裏でたむろする三人の生徒を見咎めて、静かに言い放った。
 私闘と言えば聞こえはいいが、実際は二対一の暴力行為といったところで、一人がマジカルペンを手からこぼして膝をついている。日々ただただ派手でやんちゃな喧嘩ばかりを見ていたから忘れてしまっていた。すべての生徒がそんな豪快な性格であるわけがないというのに。

「何、お前」
「清掃員です」

 二人の生徒は顔を見合わせて鼻で笑った。名門校であるナイトレイブンカレッジにおいて、生徒たちは並の魔法士より優秀だ。選ばれた教員ならまだしも清掃員ごときわけないと思っているのだろう。それもまだ若い女一人、魔法を使うまでもない。
 ヒトハは浅く息を吐いた。

「杖を下ろしてください。先生を呼びますよ」

 苛立ちを隠しもしない生徒を見据えながらバケツと箒を握る指先に力を入れる。さっきまで冷え切って痺れを感じていたほどなのに、今は爪先まで神経が通っているかのようによく動く。いつの間にか熱が体中を巡っていた。

「やれるもんならやってみろよ」

 大股で近づいてきた生徒に突然手首を捕まれ、箒を手放す。箒は湿った土の上で呆気なく転がった。生徒を見上げ、ヒトハはひっそりと唾を飲んだ。
 いくら気丈に振舞ったって怖くないわけがない。痛いのは嫌いで、背に滲む汗がその証拠だ。けれど「馬鹿にしないで」と自分を奮い立てる言葉を口にすれば覚悟は決まる。覚悟が決まればやることは見えてくる。

「手を離して」

 ヒトハは答えを待たずにバケツを手放した。そのまま空いた手を腰に滑らせ杖を抜く。携帯用に形状変化させた小ぶりの杖は常用するには心もとない細さだが、魔法を使う動作を理解している魔法士の不意をつける。誰もそこに杖があるとは思わないからだ。
 一閃。手首を掴む手に炎が走る。続けて逆側に払い足を引っ掛ける。目の前の生徒が体勢を崩して倒れる瞬間、遠くでマジカルペンを胸ポケットから抜こうとする生徒に杖先を向けて小さく跳ね上げた。

「動かないでください。杖も持っていないのに魔法は使いたくないでしょう?」

 生徒が崩れ落ちるまでの数秒にも満たない間。ヒトハの手には魔法石が一つはまったペンが一本収まっていた。
 尖った杖先を地面に手をつく生徒に向け、視線を遠くに投げる。すると二人の生徒の戦意はみるみるうちに削がれていったのだった。
 魔法を使うたびに発生するブロットは魔法士にとって大きな足枷だ。蓄積されれば体を蝕む毒になる。これを肩代わりする魔法石は大抵の場合杖に付いていて、杖がなければ魔法士は魔法を使うことを躊躇う。よって、魔力が乏しく長期戦を避けたいヒトハにとって、杖を取り上げ魔法を封じ、無力化することこそが勝利条件だった。もっとも、この学園の生徒に通用するかは博打も大博打だったが。

(なんとかなった……)

 ヒトハは内心へたり込みながら深々と息をついた。結局は油断と実戦経験の差に助けられたにすぎない。相手は子供で、自分は大人だ。

「そこのあなた、先生を呼んでください」

 ヒトハは外壁の近くで膝をつき呆然としていた生徒に言った。よろけながら走って行く背が曲がり角に消えた時、再び沈黙は緊張に変わり、自分を睨み上げる生徒の目に戦意が滲みだす。
 もし自分が生徒だったなら、どうにか誤魔化して逃げただろう。これ以上拘束するのは無意味で、教員に突き出すのも骨が折れる。それでもここで彼らを逃がすわけにはいかない。今は大人としての責任があり、そしてなにより虐げられる者の歩む道を見て見ぬふりをすることだけは、我慢ならなかった。

 その瞬間は汗の滲む手のひらで杖をゆっくり握り直した時に訪れた。一瞬の緊張のたわみだ。ぶれた杖先を手の甲で叩き落とされたのは、まったくの予想外のことだった。

「はっ――うぐっ」

 遠くで金属の棒が叩きつけられる音がした。なだれ込むように地面に背を擦りつけて圧迫された喉の奥から変な音がする。
 ヒトハは片腕を地面に押さえつけ馬乗りになる生徒を見上げた。振り上げられた拳ともう一人の生徒が制止する声。頭に血が上り切った生徒に理性はなく、この暴力を振るえば何が起こるか分かっていない。できれば口元は避けて欲しい。咄嗟にそんなことを思いながら固く目を瞑る。
 ――結局、拳が振り下ろされることはなかった。見えないものに弾かれるように体から重みが消える。そっと目を開き、背中の痛みに身を捩ると、ヒトハは視界の隅に上等な革靴を捉えた。

「ステイだ、駄犬ども!!」

 その声は地面で蹲っているヒトハをも震え上がらせた。苛烈なまでの怒りが、首元を抑えつけて頭を上げることを許さない。

「俺はこの学園で野良犬の粗相を許した覚えはない」

 クルーウェルは低い声で撫でつけるように言うと、手にした指揮棒を激しく手のひらに打ち付けた。

「大人しくしていろ。動けば次はただでは済まさん」

 ヒトハはその声を聞きながら、やっとずるずると体を起こした。その場にいた生徒は言葉を失い、命令通りに指一つ動かさない。
 たったひと声だ。彼のたったひと声で片付いてしまった。恐ろしいことに、彼はそれだけの力を持っている。暴力でも、魔法でもない。彼が持つのは見えない力。他人を従わせる、強い力だ。
 座り込み、落ちた前髪の隙間から男を見上げる自分の姿は、さながら敬虔な信者のように見えたことだろう。これだけの力を前にして抱いたのは恐れではなかった。目を焼くほどの輝きに、ただただ惹き付けられたのだった。

 ことは収まるべき所に収まり、終わりを迎えた。
 教員を呼びに行った生徒はすでに保護されたという。加害者の生徒はこれから嫌と言うほど絞られ、罰を受けることになるだろう。ことの経緯はこれから明らかになるのだろうが、ヒトハはそこにまで関わっていこうとは思わなかった。この問題が今回限りで終わると言い切れず、それに対処するのは自分ではないからだ。
 それらすべてのことが目まぐるしく過ぎ去った時、曇天の下に取り残されたのはヒトハとクルーウェルのふたりきりだった。彼は「この清掃員にも事情を聴く」と他の教員に全てを任せてヒトハの元に残り、誰も居なくなったと知るやいなやヒトハの前で膝を曲げた。その時の第一声が「怖くないのか?」という疑問だったことに、ヒトハは強張った口元を歪めて笑みをこぼす。

「怖いですよ。震えてるし」

 そこで初めてまともに発した声は掠れていた。体はもうとっくに冷え切って、指先に震えが戻ってきている。
 血が沸騰していたのだ。生徒に理性を問いながら、自分もすっかり抜け落ちていたことを今更思い知った。あの拳を顔に打ちつけられていたかと思うと、到底この行いはまともとは思えない。

「でも、先生もああいうの嫌いでしょ?」

 クルーウェルは意表を突かれたように目を瞬くと、「気が合うな」とにやりとした。

「一対一なら好みだがな」
「同感です」

 差し出された赤い手袋に自分の白い手袋を重ねる。土で彼の手袋を汚してしまうことに一瞬躊躇って手を引こうとしたが、体を引き上げようと指に込められた力には抗えなかった。震えが伝わってしまったのだろうか。
 ヒトハは指先から温まっていくのを感じながら、知らずのうちに早まっていた呼吸をゆっくりと整えた。

「すみません、あと少し、あと少しだけいいですか。すぐ落ち着くので」

 いくら気丈に振舞ったって怖くないわけがない。痛いのは嫌いだ。殴っても殴られても痛い。そんな当たり前のことを、ヒトハはよく知っている。
 彼は何も言わなかったけれど、その手はじっとそこにあって、ただひたすら温もりを分け与えてくれたのだった。

「今回は無事で済んだからいいが、二度と一人で突っ込むような真似はするな。お前は清掃員で、生徒の問題をどうこうする義務はない」
「はい……」
「それから自分が女であることも自覚しろ。ここは男子校だ」

 クルーウェルは呆れた目をして言った。
 土まみれになった体を叩き、起き上がったヒトハに待っていたのはクルーウェルの小言、説教、いわゆる躾である。大半はヒトハの行いを咎めることだが、その中には身を案じるものもあった。ここは男子校で、お前は女で。そう彼の口から語られることがむず痒く、ヒトハは照れ隠しに手を後ろで組んだ。

「心配してくれてます?」
「いくらお前とはいえ知り合いが暴行されてはいい気はしない」

 なんとも可愛げのない答えだが、それが彼らしい。
 クルーウェルは何か考えながら指揮棒を手で弄んでいたかと思うと「防衛魔法の成績は」と唐突に問い掛けてきた。防衛魔法。魔力と魔法力が物を言う苦手教科だ。

「中の……下」
「わかった。下だな」
「いや中……」
「ほぼ下だろうが」

 クルーウェルは頑として譲らなかった。最近扱いの雑さが違う方向に向き始めたのは、きっと気のせいではない。
 彼は指揮棒をぴしゃりと手のひらに叩きつけた。

「よし、この俺が、特別に防衛魔法を教えてやろう」
「はぁ」

 そうと決まれば方針を決めなければ、と勝手に悩み始めるのを、ヒトハはついていけないまま見守っていた。いきなり防衛魔法を教えてやろうと言うのだ。多忙を極めた彼に。ナイトレイブンカレッジの教師である彼に。まるで想像していなかった展開に拒絶の言葉も出てこず、気が付けば「火の魔法を撃ってみろ」と杖を握らされている。
 ヒトハはわけもわからずクルーウェルに火の魔法を二、三発撃ち込んだ。当たれば当然痛いがそれだけの火球で、それなりに訓練を受けた魔法士なら難なく受け流せる。
 クルーウェルはそれを羽虫でも飛んでいるかのようにつまらなく払い除けながら不服そうに言った。

「俺を舐めているのか?」
「そんなまさか」

 これでも結構本気でやっている。魔力の枯渇は体調に響くから全てを出し切ることはないが、それでも手を抜いてはいない。
 これがヒトハが正面からぶつかっていけない理由だった。まともな撃ち合いで他の魔法士に勝てた試しがなく、だからこそ背後を狙い、不意を打ち、杖を掠め取ろうとする。
 クルーウェルはしばらく疲弊していくヒトハを観察していたかと思うと「ああ、分かったぞ」と笑った。最後の魔法を指揮棒で振り払い、興味深く顎をさする。

「お前、よくそれで養成学校を出たな」
「それって褒めてます?」

 何、とは言わない。状況を察し、辿り着いた答えはおそらく正解で、今度はヒトハが杖を弄る番だった。この学園の優秀な魔法士である彼に、あまり知られたいことではなかった。
 魔法士としての資質がないことは理解している。見えている限界に挑み、学校に通った四年間をほとんどふいにした。
 馬鹿にされるだろうか。多くの魔法士たちがそうしてきたように。
 しかしクルーウェルは面白そうに笑みを浮かべたまま「当然、褒めている」と返したのだった。

「何かおかしいとは思っていた。魔法薬学の成績が平均である理由がよく分からなかったが、やっと腑に落ちた」

 ペーパーテストは点数が良かっただろう? と言い当てられて、ぎこちなく頷く。先日の残業の時に見抜いたのだろうか。

「なかなか気骨のあるやつだ。俄然やる気が出る」
「はぁ……。でも私、当時の先生にも匙を投げられたので……」

 ヒトハが気を遣って言った言葉は、図らずして彼の自尊心に火をつけた。眉を顰め、細める目が不服そうに鈍く光る。

「俺をその辺の無能と一緒にするのか? それとも、この俺に躾けられない仔犬がいるとでも?」

 ヒトハはびくりと肩を震わせた。
 他人の恩師を躊躇いなく無能呼ばわりするとは、なかなかご立腹のようだ。しかし、それでいちいち腹を立てるほど防衛魔法の恩師に思い入れもなく、ヒトハはただ漠然とクルーウェルの自信のありように圧倒されていた。
 彼は「お前ならまだ伸びる」と言い、「俺なら可能」と高らかに宣言しているのだ。

「喜べ。この俺がお前のために教鞭を執るんだ。必ず立派な猟犬にしてやる」
「猟け――ひえっ!」

 風を切って鼻に突きつけられた指揮棒の先を見つめながら情けない声をあげると、これもまたヒトハを“俺の仔犬”にしてしまったクルーウェルの不興を買うことになってしまったのだった。

「返事は、『はい』だ」
「は、はい……」

 ぽつぽつと小さな雨粒が頬を濡らし、どこか遠くで雷の音がする。
 彼の躾が役に立つ日が来るのか来ないのか――この時のヒトハには、知る由もないことだった。

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