魔法学校の清掃員さん
04 清掃員さん、犬になる
『治りが早まるように薬を調合してやろう。一週間に一度、魔法薬学室に取りに来るように』
あの日、クルーウェルはヒトハにそう言った。
不幸にも怪我の痕が残ってしまった両手を治すために、魔法薬を調合してやろうというのだ。ヒトハにしてみれば願ってもない申し出である。効果の高い魔法薬を調合するのは簡単なことではなく、それが非常に高価なものだと知っているからだ。
そして怪我からちょうど一週間となる今日、ヒトハは教室の窓を拭きながらとてつもない焦りと罪悪感に襲われていた。
(一週間経っちゃう……)
あっという間のことだった。毎日必死で掃除をして、段々と慣れてきた生徒たちとも交流して、疲れ切って寝る。それだけなのにもう一週間だ。ものの見事にクルーウェルに会うことができず、こうして「今日会わないとまずい」と焦っている。
しかし彼に会うために何も努力しなかったわけではない。ここ数日は一言でも交わそうと、行く先々で探していたのだ。
問題は、クルーウェルが多忙で捕まらないということだ。彼は複数の理系科目を兼任していて、さらには防衛魔法の授業まで行う。聞くところによると部活の顧問とクラスの担任まで受け持っているのだというから、いつ寝ているのかすら疑問である。そんな多忙を極めた彼になんとしてでも会うために、ヒトハは魔法薬学室と実験室の周辺を見張っていた。
今日こそ、クルーウェルに会って魔法薬を貰わなければ。さもなくば、
(人としての生活が終わる……)
ヒトハは数日前にハーツラビュル寮とオンボロ寮の生徒たちが言っていたことを思い出して、深々とため息をついた。さすがに転職早々に人間を辞めたくはない。今後も辞める気はないが。
指紋一つなく磨き上げた窓の外を眺めながら、ヒトハはあの特徴的な白と黒の姿を探した。しかし大勢の生徒の中にちらほら職員が紛れているくらいで、当然のように現れてはくれない。
こういう時に限って、どうして探している人は見つからないのだろう?
「あ、セベクくん」
「ああ、ヒトハか」
魔法薬室の前を通りかかった時、ヒトハは実験着のセベクと鉢合わせた。男子生徒だらけのナイトレイブンカレッジでも一際身長が高い彼はよく目立つ。
セベクは駆け寄って来たヒトハの前で足を止めた。先日歩きながら話していたら、歩調と歩幅の違いで息切れを起こしたのをヒトハが指摘したからだ。彼は自分より力の弱い“人間”に対してまだ気が回らないようで、時折ヒトハを置いて突っ走ってしまう。
ヒトハはセベクを見上げつつ、魔法薬学室の扉を指差した。
「クルーウェル先生、中にいます?」
「いや、少し前に出て行ったな」
「そうですか……」
目に見えて落胆している様子に、セベクは眉を上げて「大丈夫か?」と問いかけた。
彼はヒトハがクルーウェルを探している理由を知っている。その一言が示すのは、なにもクルーウェルが見つからないことばかりではない。言葉は足りなくとも、これが彼なりの気遣いなのだ。
「ええ、ありがとうございます。実験室に行ってみることにします」
生徒は次の授業に向かう真っ最中で、これ以上無闇に彼を引き留めるのも気が引ける。
ヒトハは早々にこの周辺で探すのを諦めた。遠くに見える校舎に目をやって、力なく肩を落とす。次に行く実験室で捕まえられたらいいのだが。
そんなヒトハの願いも虚しく、その日の午前は気の遠くなるような大移動を何度もする羽目になったのだった。ヒトハにはもう掃除をしているのか、クルーウェルを追いかけているのか、分からなくなっていた。
たとえ人間を辞めることになったとしても仕事だけは手を抜くわけにはいかない。
極東の島国出身は几帳面だとか真面目だとか言われることがままある。いたって普通の一般人を自称するヒトハも、その例に漏れず、どちらかといえば真面目な方だった。いくら私的な用事があってもそればかりを気にするわけにもいかないのだ。
そういうわけで、結局何一つ収穫もなく今日の仕事が終わりを迎えようとしていた。
(大体、『週に一度』って曖昧過ぎ!)
ヒトハは行き場のない苛立ちを抱えたまま、放課後の校舎を歩いていた。普段であればこれから喜んで帰宅するところだが、今日に限ってはあまり気が進まない。
ヒトハはひとつため息を落として、階段の突き当りにある小窓を見やった。
地平線に向かって傾いた日が、一際背の高い植物園の温室を黄金色に染め上げている。それを囲むように茂った緑は未だ夏の鮮やかさを残したままだ。そしてその先に見える建物こそが、魔法薬学室である。
何度期待して行ったか分からない場所で、もう行きたいとも思わない場所だ。けれど無視をして帰るという選択ができるほどの度胸もないし、なにより、やはり後ろめたいのだ。
週に一度も魔法薬を用意するというのは、多忙を極めた彼にとっては大きな負担である。いつ寝ているのかと思うほどの忙しさの一つに自分のことが含まれるというのなら、やはり相応の努力をするべきだ。
ヒトハは大きく息を吸って深く吐き出すと、階段を駆け下りた。
やらずに後悔するより、やって後悔をした方がいいに決まっている。
ついに夕日が沈みきった頃、ヒトハは魔法薬学室の前にたどり着いた。生徒はほとんどが部活を終えて寮に向かい、昼間の様子から一転して校舎周辺からは人けがなくなっている。
額に滲んだ汗を拭い、肩で息をしながら見上げた教室からは、昼間には見ない灯りが漏れていた。校舎からここまではそれなりの距離があったが、最後の踏ん張りどころだと思って駆けて来たのだ。
ヒトハは最後の望みをかけて、その重たい扉を開いた。
「遅かったな」
「すみません……」
今日一日の疲れがどっと押し寄せてくる。ヒトハは教室の入り口に体を預けて大きく息を吐いた。
クルーウェルは教室の奥でゆったりと椅子に腰をかけ、優雅に本を広げていた。コートスタンドにいつもの毛皮のコートを掛けてラフな格好をしている。
彼は鋭い目を少しだけ見開き、入り口付近で息を落ち着けているヒトハに問いかけた。
「……体調でも悪いのか?」
「いえ、気にしないでください……」
ヒトハは言葉を濁した。まさか「あなたを探して走り回ってました」なんて、言えるわけもなかった。
魔法薬学室は薬草を扱っているせいか、光を多く取り込む造りになっている。一面ガラス張りの壁で、晴れた日なら外の景色がよく見えるが、今はぼんやりと近くが見えるだけで真っ暗だ。棚に大小さまざまな薬草が陳列されているが、これもまた実験室の薬品と同様に触れるのに注意がいる。土と独特な薬草の臭いが入り混じっていて、ヒトハはこの教室が少し苦手だった。
生徒用の机を通り抜け教壇の前に行くと、クルーウェルは辞書のように厚い本を閉じ、薄汚い沼の色のような液体が入った瓶をトンと机に置いた。濁り切った液体には気泡が浮かんでいて、見るからにドロドロとしている。
「ま、まさか……」
「そのまさかだ。この俺が、直々に、最高の素材で、最高の調合をした魔法薬だ」
ヒトハは無意識に口元をきゅっと結んだ。
たしかに彼の言う通り、最高の素材で最高の調合がされているのだろう。少々自己評価が高すぎる気がしないでもないが、それほどまでの価値があるということなのだ。恐らく。
それにしたって酷い見た目である。魔法薬の効果は多種多様で、色や見た目もそれぞれ異なる。ヒトハ自身も学生時代に多くの魔法薬を見てきたが、これほどまでに口を付けたくない魔法薬は記憶にある限り存在しない。
(これを飲めと?)
泥水のような液体とクルーウェルを交互に見ると、彼は澄ました顔で「後ろの机を使え」と言ってのけた。何を言いたいのか分かっているはずなのに、意地の悪い男である。
もはやどんなアピールをしても無駄だろう。ヒトハは言われた通りにするしかなく、渋々自分の後ろにある机に瓶を置き、栓を抜こうとした。
しかしあまりにも飲みたくない気持ちが強いせいか、手に力が全然入らない。「身体は正直」とはよく言ったものである。
クルーウェルはヒトハがもたつく様子に苛立ったのか、突然大股で隣にやってくると、横から瓶の口を摘まみ上げた。ヒトハの両手では少し大きさを感じる瓶も、彼の手に収まってしまえば一回りほど小さく見える。
そしてポン、と子気味の良い音が響き、瓶は難なく開いた。クルーウェルは「開くじゃないか」と嫌味を言いながらヒトハの前に瓶を戻す。
彼が隣に立った時にはどことなく洗練された香りがしたというのに、栓が抜けると同時に漂ってきたのは得もいわれぬ異様な臭いだ。こんなに身綺麗にしているのに悪臭の中で働いているなんて、なんて勿体ないんだろう。
「さっさと飲め」
それでもなお渋るヒトハに、クルーウェルは相変わらず冷たかった。はなから優しくされることを期待していたわけではないが、ここまでくるといっそ清々しいほどだ。きっとこの面倒な仕事を早く終えてしまいたいのだろう。その気持ちはヒトハにもよく分かった。自分もそうだからだ。
目の前に置かれた瓶を手にして恐る恐る飲み口に鼻を近づける。魔法薬からはドブ水にハーブを漬け込んで、生ゴミを混ぜたかのような臭いがした。学校を卒業してしばらく魔法薬からは離れていたが、はたしてここまで酷い臭いだっただろうか。
「はい、先生」
「なんだ」
「一部の魔法薬には同じ効果を得られる調合方法が複数あります」
クルーウェルは腕を組み、呆れた顔でヒトハを見下ろした。
「さっきの話を聞いていなかったのか、駄犬」
「駄犬……」
「俺は『最高の素材で最高の調合』と言ったな? 同じ効果が得られる調合方法が複数存在するとして、それらの違いはなんだ」
質問を投げられながら、ヒトハは学生時代の魔法薬学の先生を思い出した。なんだか似たような問答をしたことがあるような気がする。
「効き目の程度、ですか……?」
「その通りだ。同じ治癒系の魔法薬でも擦り傷程度にしか効かないものもあれば、お前が先日使ったような皮膚の再生まで効くものもある。俺はやると決めたからには半端なことはしない。当然、最高のものを提供してやる。分かったなら、さっさと済ませるんだな。それとも俺を帰らせないつもりか?」
クルーウェルは途端に教師の顔をして一気に捲し立てた。
この意地悪な教師が黒板の前に立って難解な解説を息継ぎなしで諳んじる姿が目に浮かぶ。彼の反論を一切受け付けない言い様は、ヒトハを完全に黙らせるのに十分だった。
(飲みたくない……)
ヒトハは仕方なく瓶を両手に包み込み、その濁った飲み口の先を見下ろした。怪我をして今日この時まで、クルーウェルに会って魔法薬を貰わなければと意気込んでいたのが嘘のようだ。
嫌だ。すごく嫌だが、「最高の調合」とまで言わせた手前、飲まないわけにはいかない。
ヒトハはあの日うっかり怪我をしてしまった自分を心底恨みながら、瓶を口元に持っていき、一気に流し込んだ。
「――――!」
例えるならそう、邪悪なスムージーだ。液体ではなく、もはや固形物である。沼の水でハーブと生ごみを混ぜ合わせた後十日くらい熟成させたような味がする。体が治るどころか体調が悪化しかねない味に、ヒトハは吐き出せるシンクを探して素早く周囲を見渡した。
しかしすぐ隣の男を見て、すんでのところで踏み留まったのだった。吐き出そうものなら無言で口を抑えつけられるに違いない。彼はそんな冷えた顔をしていた。
(ううっ……)
ヒトハは冷汗を滲ませながら飲み切ると、崩れ落ちるように机に伏した。胃袋が体の中に異物を入れるのを完全に拒絶していて、抑え込むのに集中しなければ、このまま外に戻してしまいそうだ。
間を空けず、トンと新たな瓶を置くような音がする。顔を上げて見ると、それはグラスに注がれた、ただの水だった。ヒトハは慌てて置かれた水を飲み干した。
「あ、ありがとう、ございます……」
言い様のない気持ち悪さが引いていき、ヒトハはやっと声を絞り出した。
あらかじめ用意していたのだろう。クルーウェルは驚くほどの手際の良さでヒトハに水を提供すると、仕事は終わったと言わんばかりに教壇へ戻って行く。冷たいのか優しいのかよく分からない人だ。
彼は教壇に置き去りにした本を拾い上げ、続きのページを正確に引き当てながら言った。
「次も来週のこの曜日だ。覚悟しておけ」
「来週も」
「来週と言わず治るまでだ」
「分かりました……」
ヒトハはこっそり目尻に涙を浮かべた。毎週この苦痛を味わうのかと思うと、とても耐えられる気がしない。
クルーウェルはヒトハのそんな様子に気が付くと、鼻で軽く笑ったのだった。
「すぐに慣れる。毎週欠かさず飲んで早く治すことだ」
ヒトハはその言葉を聞いて、そっとクルーウェルの顔を窺った。彼は相変わらずファッションモデルのような出で立ちで、黙っていると――黙っていなくとも、どこか冷たい印象を抱かせる人だが、そればかりでもないように思えたのだ。
「あの、もしかしてこれは先生のお仕事ではないのでしょうか?」
「だとしたら何か問題でも?」
「いえ、私のためにここまでしていただくのは、なんだか悪いなと思って」
ヒトハは歯切れ悪く答えた。
魔法薬を調合してもらえるのはとてもありがたいことだ。無償で、しかも頼んでもいないのに高価な魔法薬を毎週提供してもらうなんてことは普通はありえない。だからこそ、そんなことを何のメリットもなしにさせてしまうのが申し訳なく、自分はそれだけの価値がある人間なのか疑ってしまう。
クルーウェルは意外そうに整った眉を跳ね上げた。
「早く治したいのではないのか?」
「そうですけど、でも、これは自分のせいなので……」
彼はたっぷり間を置いて「呆れた頑固さだな……」と驚きとも呆れとも取れる声で呟いた。
「これは学園長の依頼で作ったものだ。材料費も気にしなくていい。俺はこれを仕事と認識しているから、お前もそのつもりで来るように。いいな」
「は、はい……先生」
「よろしい」
ヒトハは言われるがままに頷いた。どうにも従わないといけないような気になるのは、彼が教師だからだろうか。ヒトハは自分が一瞬だけ生徒に戻ったことに気が付いた。今この瞬間、大変ありがたくないことに、自分は彼の“犬”だったのだ。
「毎週この時間に、この教室だ。忘れずに来い」
ヒトハが教室を後にしようと扉に手をかけた時、クルーウェルは一言だけヒトハに投げかけた。
力を込めた手を扉から離し、振り返る。彼の視線はすでに手元の本に戻っていて、ヒトハはほんのひと呼吸の間、その姿を眺めた。
ツンとしていて素っ気なく、見た目に違わない尖った性格。他人のことを平気で犬扱いするし、それにちょっと意地悪だ。
(でも、結構面倒見のいい人なのかも)
“怒らせたら人としての生活が終わる”。
本当にそんな人なのだろうか。聞いた通りの人ならば、とっくに匙を投げていたっておかしくはない。仲良くなるのは難しいかもしれないけれど、少しだけ頼ってみてもいいだろうか。
ヒトハは手袋で覆われた両手を胸の前で握り締めて、静かに答えた。
「はい。よろしくお願いしますね、先生」
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