魔法学校の清掃員さん
03 清掃員さんと魔法
学園長から届いた新しい制服には、いくつかの白い手袋が添えられていた。清掃用にしては質の良い手袋で、手を通すと柔らかい生地がよく指に馴染む。
普段使わない手袋は、やはり煩わしい。かといって素手でいるのも落ち着かない。この白い手袋をした姿を受け入れるには、まだ少し時間がかかりそうだ。
この学園で迎える二回目の朝に、ヒトハは鏡の前でしばらくその眺め続けていた。
「昨日は大変だったねぇ」
先輩はヒトハを見るなり、開口一番にそう言った。話はすでに聞いているのか、白い手袋を見て気の毒そうにしている。
「ええ、でもクルーウェル先生って方に魔法薬を作ってもらうことになったので、いつか治ると思います」
先輩はヒトハの口からクルーウェルの名前が出たことに少しだけ驚いて「あの先生なら大丈夫だね」と微笑んだ。
デイヴィス・クルーウェルという教師はゴーストにも信頼が厚いのだろうか。昨日の様子だとかなり厳しい印象を受けたが、実力と人柄は必ずしも比例しないということなのかもしれない。ヒトハは漠然と、先輩が言うなら大丈夫だろうと思うことにした。名門校の教師なのだから、その辺の魔法士よりはずっと信用できるはずだ。
それでも汚れ一つない手袋を見下ろすと、ふつふつと憂鬱な気持ちが湧いてくるのだった。
(これが永遠に続くわけじゃないし、治らないって誰も言ってなかったし……)
ヒトハはなんとか自分を納得させて、今日の仕事を始めるべく掃除道具を手に取った。
その日の午前の仕事は昨日と同じく、校舎の中をぐるぐると回りながら教室を掃除するものだった。内容もほとんど変わりなく、慣れが出てきたおかげで昨日と比べればずっと楽だ。唯一違うことがあるとするならば、少しずつ生徒の視線が気になり始めてきたことだろうか。
そもそも男子校であるナイトレイブンカレッジでは、女性は圧倒的に少ない。初日は仕事を覚えるのと緊張で精一杯になっていたが、余裕が出てくると当然周りの目が気になり始める。
「あれ? 前の人は?」
「あの人事故で辞めたんだよ。……掃除してたら大釜に落ちたって」
「うっわ、よく生きてたな。それであの人が代わり?」
そんな他愛もない生徒たちの雑談を聞いていないふりをしながら、箒の先を左右に行き来させる。しかしどうにも自分のことだと思うと、気が散ってしまって上手く塵が集まらない。
ヒトハは生徒たちの声を意識の外に出してしまおうと必死になっていた。いっそ直接話しかけてくれたらいいのだが、男子校の生徒にそれを期待するのは無駄というものだった。
「――あっ、ごめんなさい」
ヒトハが無心で廊下を掃いていると、突然箒の柄が何かにぶつかった。慌てて謝罪しながら振り返り、声を詰まらせる。
そこにいたのは背の高い獣人属の生徒で、彼は深みのある緑の瞳で気だるげにヒトハを見下ろしていた。気崩した制服には素行の悪さが滲み出ている。ような気がする。
「あれ? 女の清掃員さんだ。珍しいッスね」
一瞬の沈黙の後、その生徒の後ろから少し小柄な生徒が顔を出した。丸いライオンのような耳をした怖い生徒とは対照的で、大きな耳をした獣人属の生徒だ。
彼が物珍しくヒトハを観察していると、ぶつかった生徒は「気を付けろ」と不愛想な声で言い、さらには舌打ちまで残してヒトハの脇を通り過ぎて行ったのだった。
「すみません。レオナさん、さっきトレイン先生に怒られて機嫌悪くて。この学園、血の気の多い生徒が多いから気を付けた方がいいッスよ」
小柄な生徒は少しだけ声に申し訳なさを滲ませながら、レオナと呼ばれた生徒を追いかけていく。
(こ、怖……)
ヒトハは二人の背を見送りながら、肩をぶるりと震わせた。
彼の忠告はもっともだ。ここは男子校で、女性である自分は単純な力勝負では彼らには勝てない。いざとなれば、頼りになるのは腰に忍ばせた杖だけだ。魔法だけが性別関係なく平等に行使できる力で、自らを守る盾になる。
(魔法の練習も始めようかな)
ヒトハはしばらくまともに使っていなかった防衛魔法をどう練習するかを考えながら、箒の柄を握り直した。
それは昼休みのことだった。
食事を必要としない先輩は昼休みになるとどこかへ消えていく。ひとりになったヒトハは、今日は中庭にちょうどいいベンチを見つけてそこに腰を下ろした。
最近までずっと嫌になるほどの暑さ続きだったのに、今では時折涼やかな風が頬を撫ぜる。ヒトハはベンチの隣に立つ木が心地よくそよぐ音を聞きながら、買ってきた卵サンドを膝の上に広げた。こんな気持ちの良い日はサンドイッチ片手にピクニック気分も悪くない。
たっぷり卵サラダが挟まったパンを慎重に手に取って持ち上げ、口元に運ぶ。その時、ヒトハの足元を何かが通り過ぎた。
(ん?)
そして次の瞬間、涼やかだと思っていた風は突風のような勢いでヒトハに迫り、手にした卵サンドと膝の上にある残りをすべて、あっという間に攫っていったのだった。
「ああーっ!」
地面に落ちた卵サンドの無残な姿を見て、ヒトハは人目も憚らず叫んだ。出勤二日目で昼ご飯を地面に落とす人なんかこの世にいるのか。もしかしたらいるのかもしれないが、その数少ない一人になってしまったことが、この上なくショックだった。
「うわ! すみません!」
立ち直れずに座ったまま卵サンドを凝視するヒトハの前で、三人の生徒が足を止めた。
一人はレンガ色の髪をしたやんちゃそうな生徒、もう一人は深い青髪の真面目そうな生徒。そして最後に彼らの後ろからへろへろになりながら箱を持ってついてきた優しげな生徒と――大きな猫である。猫は耳に青い炎を纏い二本の足で直立していた。普通の猫には到底見えないから、魔物――使い魔か何かだろうか。
彼らはとても焦った様子だったが、昼食を落として落ち込むヒトハを見捨てて走り去ることはしなかった。どうやら先ほどの風は彼らの仕業らしい。
「デュース、お前が見境なく魔法使うから! お姉さんのお昼ご飯駄目になっちゃったじゃん!」
「それを言うならエース、お前が『早く魔法使って足止めしろ』って煽ったんじゃないか!」
「お前ら、喧嘩してる場合じゃねーんだゾ……」
猫が一番冷静なことを言っている。
「みんな、急いでるんじゃないんですか……?」
ヒトハは昼食を諦めて三人と一匹に問いかけた。一番の被害者に嗜められて、そこでやっと彼らは口喧嘩をやめたのだった。
「お姉さん、マンドラゴラどっち行ったか分かる?」
「マンドラゴラ?」
エースは「そう、人の形した根っこみたいなやつ」と両手を動かしながらマンドラゴラの説明をしてくれた。
もちろんヒトハもマンドラゴラのことは知っている。毒薬に使用する植物の一種で、鳴くととても煩い。根が人型をしており、魔力を込めて育てると、その人の性格を映し出すような行動を取る。自分も学生時代に育てたものだが、直立不動のマンドラゴラにしかならなかったものだから、あまり面白くはなかった。
エースによると、彼らはクルーウェルの毒薬の授業で使う育成済みのマンドラゴラを運ぶ最中だったのだという。しかし移動の途中で箱の中が騒がしくなり、気になって蓋を少し開けた瞬間、中にいたマンドラゴラが一匹逃げ出してしまった。それを追いかけ回っていたところヒトハに遭遇したというわけだ。
「逃げるのが好きな人が魔力を込めちゃったんですね……」
ヒトハは彼らの話を聞いて、なんとなく原因を察した。もしかしたら縛られるのが嫌いな人かもしれないが。
エースはヒトハがマンドラゴラを一瞬足元に見ただけだと知ると、頭を抱えて嘆いた。
「はぁ~、クルーウェル先生に殺される……」
「そんなまさか。説明したら分かってくれると思いますよ」
エースの大げさなまでの嘆きに、ヒトハは思わずフォローを入れた。収穫したてならまだしも、走って逃げ出すほど活きのいいマンドラゴラを運ぶ羽目になるなんて思わないだろうし、事故だと言っても通用するはずだ。
しかしヒトハの気遣いはクルーウェルを恐れるエースには逆効果だったらしい。彼は口を尖らせて言った。
「お姉さん知らねぇの? クルーウェル先生、怒らせたら大変なことになるって有名だよ。人としての生活が終わるって」
「え?」
「そういえば、泣いて伏せするまで躾ける……ってダイヤモンド先輩が言ってたな」
「え?」
エースに続けて証言したのはデュースだ。彼らはそれぞれクルーウェルの評判を聞いているようで、いかにも物騒なことを口にした。
(クルーウェル先生って……どんな人なの!?)
これから怒られるかもしれないと戦々恐々とする生徒たちとはまた違った恐怖を抱きながら、ヒトハはこれから来るであろう彼との交流の日々を想像した。
生徒たちのように、犬呼ばわりされて人としての生活を奪われたりするのだろうか。逆鱗に触れないように怯えながら話さないといけないのだろうか。
想像すればするほど、頭を悩ませる生徒たちが気の毒に思えてきたのだった。
「まだ次の授業まで時間がありますし、探してみましょう」
そうしてヒトハはやっと立ち上がり、彼らに告げた。
「お手伝いします!」
とは言ってみたものの、走って逃げたマンドラゴラを見つける算段などもあるはずもなく。ヒトハは手袋に覆われた拳を顎に当てて唸った。
マンドラゴラの生態は知っていても捕獲方法を習ったことはない。大体からして、マンドラゴラなんて魔力を込めてみたところでせいぜい机の上で踊ってみせるくらいのものだ。どれだけ大量の魔力を与えられたのか、はたまた質の良い魔力だったのかは分からないが、そのマンドラゴラを育てた魔法士は大したものである。
「葉っぱ一枚でも残っていれば追跡の魔法が使えそうなんですけどね」
ヒトハは遠い学生時代の記憶の引き出しから、役に立ちそうなものを引っ張り出してみた。しかし、いかに魔法とはいえ万能ではない。それなりの法則と制約があるものだ。世にいう大魔法士であれば話は別だろうが、そんな人が近くにいるのなら、そもそもこんなことにはなっていないのだろう。
頭を悩ませ続けるヒトハを見て、エースは意外そうに言った。
「へぇ、お姉さんって魔法士なんだ」
「ええ、一応。名門校の生徒たちには敵いませんけどね」
ヒトハは三人と一匹の姿を改めて見渡した。
自分よりずっと若い生徒たちだが、このナイトレイブンカレッジに呼ばれたからには素晴らしい魔法士になるのだろう。今でこそ知識では勝っていても、あっという間に追い抜かれるはずだ。それでも今この時だけは、こうして対等に相談し合える魔法士であることが嬉しい。欲を言うならば、せめて先輩として何か一つでも役に立ちたいものだが。
ヒトハは中庭全体に視線を巡らせた。いくら走って逃げ回れるほど魔力を与えられたとはいえ、所詮マンドラゴラ。案外遠くまでは行っていないのかもしれない――そう思っていると、突然「あーっ!」とデュースが叫んだ。
「いた!」
彼が「いた」と指を差したのは頭上。ヒトハが座っていたベンチを覆う枝の上で、手のひら大のマンドラゴラが身軽に動き回っている。
「げぇ! あんなところに!?」
「アイツ、どうやって登ったんだ……」
エースも使い魔の猫も首を反らして頭上を仰ぎ、呆れた声を上げた。箱を持った生徒に至っては絶句である。
マンドラゴラは必死で自分を見つけようとしていた人間たちをあざ笑うかのように、枝の上で飛んだり跳ねたりを繰り返していた。感情と知能がいかほどかは分からないが、少なくとも、そこにいれば捕まらないと思っているようだ。
「一体誰が魔力込めたらこんなことになるんですか……?」
元を辿れば、このマンドラゴラを育てた魔法士のせいだ。性根の悪い魔法士に違いない。
「登るとか?」
「危ないですよ」
「風魔法で……」
「さっき失敗しましたよね……?」
エースとデュースが何とかしようと案を出したものの、どれもいまいち現実味に欠ける。木に登っている最中に逃げられる可能性もあるし、風魔法に至っては吹き飛ばしてしまうかもしれない。
「上手くいくか分かりませんが、やるだけやってみましょう」
ヒトハは腰に忍ばせた杖を抜いた。
浮遊魔法を上手く使えば、あのすばしっこいマンドラゴラを無傷で捕らえることができる。
しかし長らく魔法から離れていたヒトハには、それすら上手くいく自信がなかった。昔なら難なくできていたであろうことが、今も同じようにできるとは限らないのだ。
(でも、やってみないと分からないし)
枝の上で跳び回るマンドラゴラを見上げている生徒たちは、見たところ一年生だ。慣れが必要な浮遊魔法を代わりにさせるなんて、それこそ酷な話である。
ヒトハは慣らすように杖先を手元で二、三回振り、そして狙いを定めた。
「失敗したら……そうですね。一緒にクルーウェル先生のところに行きましょうか」
じわ、と魔力が身体の底から滲み出るのを感じる。この杖先が痺れるような緊張感は、教室で塵を集めている時には感じないものだ。
ヒトハはそのまま枝の上を走り回る小さな的に狙いを定め、そして――引いた。
「やった!」
マンドラゴラは見えない糸で勢いよく引っ張られたようにヒトハに向かって飛んで来ると、すっぽりと手袋の中に納まったのだった。
相変わらず動き回る体力だけはあるらしく、両足はじたばたと動いていたが、一度捕まえてしまえばこちらのものである。
ヒトハは杖でマンドラゴラを素早く二度叩き、睡眠魔法をかけた。
「私の魔力では長くは持ちません! 早く連れて行ってください!」
急げ急げ! と急かされながら、箱を持っていた生徒が慌てて蓋を開く。大小さまざまなマンドラゴラが詰め込まれた箱に放り込んだところで、昼休み終了の鐘が鳴った。
「まずいぞ! 授業が始まる!」
「お姉さん、ありがとう!」
そして生徒たちはマンドラゴラの箱を二度と開けまいと強く抑え、慌ただしく次の教室へ向かって行ったのだった。
「はぁ……」
嵐のような出来事だった。卵サンドは一口も食べられなかったし、昼休みは潰れたし、一マドルの得にもならない。散々だ。
それでもヒトハはどこか満足した気持ちでいた。生徒たちの役に立つというのも、なかなか悪くないことだった。
「お姉さん」
「ああ、さっきの……」
その日の授業の合間に、ヒトハは再び彼らと出会った。校舎の入り口付近を箒で掃いていたら、エースにトントンと肩を叩かれたのだ。
「授業はどうでしたか?」
ヒトハは三人と一匹に問いかけた。実はあの後どうなったのか、ずっと気になっていたのだ。すると彼らは気まずそうに顔を見合わせて「実は……」と重く口を開いた。
あの後、彼らは無事にマンドラゴラの入った箱をクルーウェルに届けきった。しかしいざ蓋を開けてみると、あれだけ元気のよかったマンドラゴラだけが座り込んだまま動かなくなっていたのだという。
「『こいつは蓄えた魔力を全部使い切ってるな。廃棄だ』って言われてしまって」
デュースが肩を落としながら取り出したのはマンドラゴラの亡骸だ。はしゃぎすぎて完全に燃え尽きたようで、座り込んでいるような姿には達成感すら感じられる。
「本望ってやつですかね……」
どのみち毒薬の素材になっていたのだから、これはこれで彼にとっては良い結末だったのかもしれない。こちらからしてみたら、ただただ迷惑なことだが。
ヒトハはそのマンドラゴラを“廃棄”の名目で受け取った。清掃員はこれを適切に捨てるのが仕事だが、この哀愁漂う姿を見ているとどうにも捨てられるような気がしない。
受け取ったマンドラゴラをしげしげと眺めているヒトハに、エースは「ねぇ」と弾んだ声で言った。
「お姉さん、名前教えてよ」
名前? と目を瞬く。そこでヒトハはまだ自分が名乗っていなかったことに気が付いた。
「ヒトハです。ヒトハ・ナガツキ。清掃員なのは……もう知ってますよね?」
「うん、ヒトハさんね。今度ハーツラビュル寮かオンボロ寮に遊びに来てよ。お礼するからさ」
また勝手なこと言ってるんだゾ……と使い魔の猫が呆れる。
エースとデュースがハーツラビュル寮の寮生であるのは制服を見れば分かるが、この猫はあのオンボロ寮の関係者だろうか。
「そういえば私も皆さんの名前をまだちゃんと聞いていなかったですね」
ヒトハは改めて彼らに名前を尋ねた。
口が達者な使い魔の猫はグリムと名乗った。猫ちゃん、と言ったら怒ったので猫ではないらしい。彼とペアでいる優しげな子は、あのオンボロ寮の監督生。そしてこの一人と一匹と仲が良いのがハーツラビュル寮のエースとデュースだ。いかにも騒がしい彼らは、やはり今年入学の一年生なのだという。
ヒトハは彼らの寮にいつか遊びに行く約束をした。その時は卵サンドを用意してくれるというから、今からその日が楽しみである。
仕事を終えて自室に帰り、ヒトハはこっそり持ち帰ったマンドラゴラを出窓のあたりに飾ることにした。ナイトレイブンカレッジの夜景を背に座り込む姿には、渋めの哀愁が漂っている。
「うん、可愛い。……たぶん」
インテリアとしてはいまいちだが、今日の思い出が詰まったマンドラゴラだ。
満足に頷いて、ふとスタンドミラーに映る自分に気が付く。真新しい制服に白い手袋。口元は緩く弧を描き、今朝の姿よりも柔らかい。ヒトハはすぐに鏡から目を離してエプロンの紐を解いた。
明日の仕事も頑張ろう。そんなことを思いながら。
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