魔法学校の清掃員さん
24.5 幕間 清掃員さんのいない日
先生、と呼び止められた声に振り返る。
クルーウェルは階段の踊り場から駆け下りてくる二人の生徒を見上げた。
つい先ほどの錬金術の授業で見た顔だ。彼らは階段を下りきると、少しだけ息を上げながらいくらか長身のクルーウェルの前に立った。
「ヒトハさん、どこにいるか知りませんか?」
「ナガツキか? あいつは極東に帰省中だ」
生徒たちは顔を見合わせ「せっかく漫画持って来たのに……」と肩を竦ませた。生徒の片手には重く底の沈んだ紙袋が一つぶら下がっている。
クルーウェルはそれをちらりと見やって、ため息混じりに言った。
「聞き間違いでなければ漫画と聞こえた気がしたが?」
「……せっかく読みたがってた本を持って来たのに」
「そうだな。まさか俺の仔犬が勉学に不要なものを校舎に持ち込むわけがない」
次はないぞ、と睨むと、生徒たちは決まりが悪そうに笑う。これで言うことを聞けばいいのだが。
教師でもない彼女が生徒たちと仲がいいのは悪いことではないが、行き過ぎては規律を乱す。それに多感な時期の男子学生の中に紛れているのだから、もう少し危機感というものを持って欲しいものだ。
やれやれと話を終えて次の教室へ向かおうとするクルーウェルを、生徒は再び呼び止めた。
「じゃあ先生、ヒトハさんっていつ帰ってきます?」
足を止め、ほんの少し首を傾げる。
「……なんで俺に聞くんだ?」
生徒はキョトンとした顔で一瞬言葉を詰まらせると、「先生なら知ってるかと思って」と平然と答えた。
どうして清掃員の休暇スケジュールなんてものを把握していると思っているのか。子供ならまだしも、相手は成人女性だ。わざわざプライベートに干渉する必要もなければ理由もない。もし保護者のように思われているのなら心外である。とはいえ、否定のしようがないのも事実だが。
クルーウェルは疲れた顔をしながら、結局は生徒の質問に答えたのだった。
「一週間後だ」
「クルーウェル先生、ヒトハ知りませんか?」
どこかで聞いたような質問をするバルガスを見上げ、クルーウェルは口に付けかけたマグカップを下ろした。
「極東に帰省中です」
「ああ、それで。昨日から見ないなと思いました」
職員たちが職員室からぞろぞろと出て行き退勤する中、バルガスは勝手に隣の椅子に腰を下ろした。長話でもする気か、とクルーウェルは警戒しながら手元の紙をちらりと見やる。魔法薬学室の備品の購入申請がまだ済んでいないのだ。
「あのあと、どうでした?」
「あのあと?」
「飲みの日です。俺と別れたあとの」
バルガスは重い上半身を少し前に屈ませて声を低くした。
彼が言いたいのは、あの飲み会の夜、ヒトハと二人で学園に戻った時のことだ。彼女が自ら進んで「バルガス先生が協力してくれた」と言っていたから、協力者である彼は気になって仕方がないのだろう。
「どうもこうも、今後の治療の方針を話しただけです」
クルーウェルが言いながらデスクの書類に向き合うと、バルガスは「それだけですか!?」と上擦った声を上げた。わずかに残った職員たちの視線が刺さる。せっかく静かに話し始めたというのに、これでは意味がない。
「ご期待に沿えず申し訳ない。詳しくは彼女から聞いてください」
クルーウェルの素っ気ない態度を気にも留めていないのか、彼は「はぁ」とぼんやりとした声を漏らしながら、椅子に深々と体を沈める。
「あれだけ深刻そうにしていたから俺はてっきり……いや、彼女にとっては怪我のことも深刻だとは思いますが」
バルガスの言わんとすることは分からないでもなかった。「親しい男性に大事な話をしたい」と言われたなら、自分だって
「それで、彼女はいつ戻るんですか?」
と、またもやどこかで聞いた質問が飛び出して、クルーウェルはペンを手にしたまま仕方なく答えた。この回答も、今日はこれで四度目である。
「一週間後です」
そして少しだけ椅子を回してバルガスに体を向ける。
「そんなに俺が彼女の行動を把握しているように見えますか」
「え、ええ、まぁ……」
バルガスはクルーウェルの刺々しい問いに顎を引いて答えるも「いや、違うんです」と慌てて続けた。
「ヒトハがいつもクルーウェル先生のことを話しているから、休暇のことも当然知っているだろうと」
「……俺のことを?」
クルーウェルは眉を顰めて聞き返した。
「先生がああ言ってたとか、こんな話をしたとか、そういう細々としたことですよ。最初のうちは『クルーウェル先生は意地が悪い』とか言ってましたけどね」
余計なことまで言いながら、バルガスは思い出し笑いをした。
思い返せば、彼もヒトハがこの学園に来た時から親しくしている人物の一人だ。もしかすると自分よりずっと先に彼女の心を開き、日々の話を聞いていたのかもしれない。
じわ、とインクの染みのように、あの日に抱いた仄暗いものが胸に滲み始める。この感情が何なのか知らないわけではなかった。だからといって、どうすればいいのか知っているわけでもなかった。
「バルガス先生は本当に彼女と仲がいいですね」
クルーウェルが投げやりな言葉を口にすると、バルガスはもはや人目も憚らず大きく笑った。
「クルーウェル先生ほどではないです!」
そして逞しい眉をハの字に曲げて、声に笑いを含んだまま問う。
「だって、顔を合わせるたびに俺の話を聞かされたりしないでしょう?」
誰もいなくなった職員室で、ぽつりと残った灯りを頼りに細いペン先で空欄を埋めていく。結局、バルガスが席を立っても今ひとつ仕事は進まず、今日は酷い残業だ。
(一週間か……)
クルーウェルはデスクの隅に置いたスマホをちらりと見やった。画面は黒く、今日はまともに通知も見ていない。しかし今手にしたところで、誰から連絡がきている気もしなかった。
彼女とは日頃あまり連絡を取り合わない。それはそもそも「用もないのに連絡をするな」と言った自分のせいでもあるが、毎日のように顔を合わせているおかげで、わざわざメッセージのやり取りをする必要性を感じなかったのだ。
(何か送ってみるか)
しかし今更思い立って連絡を取ってみようにも、どう切り出すべきか悩ましい。それにきっと、今は余計な干渉をするべきではない。自分で考えてくると言ったのだから、その通りにさせてやるべきだ。
それでもどこからか入り込む隙間風は、胸の片隅にひっそりと寂しさをもたらしたのだった。
「長いな……」
誰もいなくなった職員室の片隅で、クルーウェルはぽつりとこぼした。
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