魔法学校の清掃員さん

21-11 清掃員さんの願い

 カーテンの隙間から差し込む光が顔に当たり、眩しく目を開ける。その日はいつもと変わらず目が覚めた。
 ヒトハは気怠く前髪を掻き上げ、その手に未だ濃く残った傷痕をぼんやりと眺めた。そういえば昨晩も“おまじない”をかけてもらったのだ。遂にその効果を知ることはなかったが、あれが最後だと思うと少し名残惜しい。
 ヒトハはむくりと起き上がると、その手を握り、開いて自分の指の一本一本の感覚を確かめた。
 まだ、昨日のことを覚えている。風で揺れる髪の感覚も、昼と夜の狭間に佇む白亜の城も、優しい声も、この手の温かさも。ヒトハはひっそりと微笑んだ。忘れられないくらい何度だってこの手を握ってくれたから、忘れるはずがないのだ。
 ヒトハはベッドから降り立つと、いつものように制服をクローゼットから取り出して袖を通した。何度も着た制服はお世辞にも綺麗とは言い難いが、丈夫な生地は柔らかく体に馴染み、この上なく動きやすい。いつものように髪を縛り上げ、サイドチェストに置かれた杖を腰に忍ばせる。

「よし」

 誰に言うわけでもなく呟き、そして呼び鈴に振り返った。

 最後の一日はいつものように過ごしたい。そんなささやかな願いを許してもらい、ヒトハは迎えに来てくれた先輩と職場へ向かった。療養中の身であるため箒を握らせてはもらえなかったが、長い廊下の窓を少しずつ磨いて回るのも大事な仕事の一つだ。先輩の仕事について回っては下らない雑談をして、いつもと同じいつもの日常を過ごす。まだ食堂での食事は気が引けて、昼食は中庭のベンチで卵サンドを食べることになったけれど。
 このいつも通りの穏やかな日に普段と変わりなく過ごしているはずなのに、ヒトハの周りには一枚膜を張ったような不思議な感覚がずっと付いて回った。緊張や恐怖、あるいは興奮。その全てが、自分の中で絶えず渦巻いて、ノイズのように現実世界から切り離そうとしてくる。
 肝心な時に一瞬でも躊躇いを見せてしまったら、そこで足元を掬われることになる。それは理解しているが、感情は複雑で、自分ではどうにもならないから厄介なのだ。
 ヒトハは気持ちが揺れそうになるたびに手のひらを固く握って、不安になる自分を誤魔化した。
 こうしてその日の放課後まで何事もなく過ごしたヒトハは、先輩と言葉を交わしながらゆったりと廊下を歩いていた。二人の歩いている場所はちょうど校舎の端で、放課後は生徒も教員もほとんど訪れない。人けはなく、いつもいるのは清掃員の同僚たちくらいのものだった。

「先輩、色々ありがとうございました」

 先輩はいつものにこにことした顔で「いいんだよ」と言う。

「ヒトハちゃんは頑張り屋さんだから、あまり頼ってくれないし。話を聞いた時は吃驚したけど、僕は嬉しかったんだよ」
「……そうだったんですね」

 清掃員は体力勝負で大変な仕事だが、先輩や同僚たちはいつも難なくこなす。だから置いていかれないようにと励んでいたのだが、それが逆に心配をかけることになっていたらしい。
 先輩は立ち止まり、気遣わしげに言った。

「もっと楽をしてもいいと思うよ」

 ヒトハはそれに苦笑しながら返した。

「そうなんですけど、それも性に合わないというか。やれるだけやるのが自分だなって気が付いちゃって。でも、今回は全部終わったら甘えさせてくださいね、先輩」

 ぐっ、と腕を伸ばす。手を開き、指を動かして身体の調子を確認していく。保健室の先生の言う通り中身はボロボロかもしれないが、今日はなかなかに好調だ。

「大丈夫?」
「ええ。実は私、先輩に隠していたことがあるんです」

 ヒトハは肩を回しながら先輩の方へ顔を向けると、目を細め、片方の口の端を吊り上げた。

「私、喧嘩は結構得意なんです」
「わぉ」

 いいね。と笑う先輩の顔は、間違いなくこの学園の清掃員に相応しいものだった。

 景色に溶けていく先輩を見送って、ヒトハは口元を引き締めると再び歩き出した。
 制服のポケットから小瓶を一つ取り出し、歩きながら栓を抜く。迷うことなく飲み干したそれは、強いて言うなら腐ったシチューの味がした。魔法薬というのは慣れはしても好きになれるようなものではない。
 ナイトレイブンカレッジの校舎は内装が城のような造りをしているせいで、場所によっては密閉された洞窟のような感覚に陥ることがある。薄暗い奥へ、奥へと足を踏み込むたびに孤独感に苛まれるのだ。校舎で迷子になったその日から、ここにひとりで来るのは好きではなかった。
 ヒトハは角を曲がろうとして、そして唐突に足を止めた。振り向きざまに杖を抜く。硬い真鍮が夕暮れの光を受けて鈍く輝いた。

「――あなた、よくも私に毒を盛ってくれましたね?」

 ヒトハは杖の先を生徒に向けていた。生徒もまた、胸元のマジカルペンに手をかけている。数メートルほどの距離を取り、お互い見えない線の前に立つように一歩も動かない。
 前髪から覗く目には見覚えがあった。あの日、ヒトハを見下ろしていた目だ。二人きりになって改めて感じる底知れない闇に、ぞっと背筋に冷たいものが走る。
 それでも勝つと決めて来た。杖を向ける手に震えはなく、その先はまっすぐ生徒に向けられている。

「他に人はいないので安心してください。私を、殺しに来たのでしょう?」

 ヒトハは杖を握る手に少しばかり力を込めた。

「私はノコノコついてきた間抜けなあなたと勝負がしたいだけなのです。正々堂々、一対一でやりましょう」

 そう言った瞬間、相手の指がついにペンを握り胸元から引き抜く。ヒトハはそれがこちらを向く前に杖を振るった。十八番の相手の杖を奪い取る動作は、一瞬手応えを感じながらも弾かれる。

(さすがに駄目か)

 素早く二、三歩後退して、ヒトハは内心舌打ちをした。
 通じれば幸運で、通じなくても想定の範囲内ではあったが、ここで杖を奪うのが最も効率がいいことに違いはない。こうなっては、ここから先はただひたすらの撃ち合いになる。
 だから、魔法薬を仕込んだ。
 アズールに注文した魔法薬の効果は魔法力と魔力の増強。重い副作用の代わりに得る力は本来持ち得ないものだ。
 ヒトハは飛んできた魔法を防ぎながら、また数歩後退した。本気で人を殺そうとする魔法は、防衛魔法の授業ではお目にかかれないほどに強く鋭利だ。

(でも、先生よりは弱い!)

 クルーウェルと戦わせたなら、彼の方が強いに違いないだろう。ヒトハはギリギリのところで持ち堪えながら、そう予想した。魔法薬を飲んだとしても、やはり自分はその程度なのだ。
 しかしこの密閉された狭い空間なら、よほどではない限り相手は向かい側に立つことになる。一挙一動を見て、動きを読めるのだ。それがこの場所を選んだ意味で、それこそがヒトハの勝ち目だった。

 ヒトハは生徒と一定の距離を保ちながら、ひたすら攻防に努めた。
 一瞬の隙もない撃ち合いなのは相手が焦っているからだ。時間をかけては応援が駆けつける可能性がある。
 そしてヒトハもまた、この戦いには時間をかけたくはなかった。魔法薬の効果は有限で、今まさに襲い来る副作用の辛さは長く耐えられるものではない。
 攻撃を受けるままに後退を続け、ヒトハはついに階段の近くまで追い込まれた。これ以上は行き止まりか足場の悪い階段となる。もはや選択の余地はなく、眉間を狙った炎を相殺して勢いよく階段を駆け上がる。振り返りながら登るのは困難で、追う者の方が有利なのは目に見えていた。追いつく前に登りきりたい――そう考えていたのに、ここに来て副作用の辛さが足を引っ張る。右足が最後の一段を踏みしめながら、左足が上がらない。
 その時、視界の端に光が走った。

(あっ――)

 まずい、と直感した瞬間、杖を持ち上げたものの間に合わない。反射的に目を瞑る。
 すると突然、耳元でパンッと何かが弾ける音がした。

(今のは……)

 ほんの一秒にも満たない間の出来事だ。頭部への直撃は免れないと思っていた魔法は見えない膜に弾かれるように宙で消えた。どこか覚えのある魔力を感じて動きを止めたが、しかし追撃の手は緩まない。火の魔法は再びヒトハの足元で弾けた。

「ぐぅ……!」

 慌てて防御をしようにも間に合わず、ヒトハは爆風に押される形で階段の上に転がり込んだ。強かに背を打ちつけ、痛みに声が漏れる。副作用の吐き気、枯渇し始めた魔力では限界が近い。
 ヒトハは壁伝いになんとか立ち上がり、敗走のごとく足を引きずり後退した。先ほどの攻撃のせいで挫いてしまった右足がうまく動かない。
 それでも、諦めるわけにはいかなかった。
 ヒトハはついに、あの通路にたどり着いた。使われていない机や椅子、障害物が多く、それを魔法で引き倒しながら時間を稼ぐ。相手も疲弊し始めたのか、もう勝つつもりでいるのか、鬱陶しそうにそれらを跳ね除けながら早足でヒトハに迫る。
 通路はこれといった窓もなく、巻き上がる埃は容赦なく視界を奪った。追撃の手が緩んだのをいいことに、ヒトハは奥へ奥へと突き進む。この先は大きな窓が一つあるだけの行き止まりだ。だが、それでよかった。

「うっ」

 覚束ない足が絡まって廊下に倒れ込んでもなお、歩みは止めない。
 倒れても、足が使えなくとも両手がある。這ってでも進むのだ。そう決めた。そうしてでも、今度こそやりきると決めた。他の誰でもない自分自身の力で、自分自身のために、ありとあらゆる手段を使って。そしてこの手に掴むのは、完璧な勝利しかありえない。
 大きな窓を越え、ヒトハは膝を折った。壁に体を預けながら魔法を防ぐのはあまりにも難しいことだった。
 もう通路は無茶苦茶で、障害物は全て取り払われている。迫る足音に緊張を感じながら、しかし杖を握る手に震えはなかった。

(私なら“できる”……)

 それだけがこの状況の中で心を静かに保つ支えだった。杖をしっかりと握った手をもう片方の手で包み込む。この温かさを覚えているうちは絶対に挫けることはない。
 生まれつき魔力の乏しいヒトハが最も得意とするのは魔法のコントロール。その威力の調整、発動のタイミング、精度、おおよそ力以外の全てを針に糸を通すほどの正確さでこなしてみせる。それはクルーウェルのお墨付きで、それだけでいえば、目の前に迫る生徒に後れを取ることはない。その確信があった。

「ふふ、私の勝ちですね」

 渾身の力を込めて突きつけた杖の先。とどめを刺さんと駆け寄ろうとする生徒を見つめながら、ヒトハは杖を払うように振るう。
 それは間違いなく魔法士が魔法を使用する際に取る動作だったが、この廊下では何も起きることはなかった。前方に魔法障壁を張った生徒が一瞬狼狽えて、ヒトハはにっこりと微笑む。
 逆側にもう一度払ったその時、遠くの空を鋭く掻き切りながら、猛烈な一陣の風が迫る。この通路において最も大きな窓。昨日まで錆びついて開かなかったその窓は、容易に開いてそれを呼び込んだ。突風などというには生温く、人の体を持ち上げるほどには容赦がない。
 生徒は防御の隙も与えられず、逆側の壁に叩きつけられた。嫌な音がして力なく床に倒れ込む。ヒトハはそれを、静かに見つめていた。

 そのまま倒れた生徒を注意深く観察していたが、完全に気を失っていると確信すると、ヒトハはよろける体を壁に預けながら、やっと重い体を起こした。もうなにもかもが限界で、踏み込む足に感覚がない。真っ直ぐ歩けているのかもよく分からなかった。

「まさか、死んでないよね……?」

 ヒトハは杖を握り直して生徒に跨るようにして立つと、襟元を掴んで上半身を少し持ち上げた。浅く胸が上下しているが意識はない。しかし今ここで目を覚まされたら厄介で、先輩に頼んだ応援がここへたどり着くまで、杖先を突きつけるのはやめられそうになかった。
 ヒトハが生徒の襟元を握り直した時、傾いた生徒の顔から前髪がはらりと落ちた。露わになった顔を直視して、ヒトハは唇をゆっくりと、強く噛む。まだ大人になりきれず、幼さを残した顔。

「やっぱり子供じゃない……」

 やはり彼は、この学園に通う生徒なのだ。
 それがこのありとあらゆる苦しみの中で、最も堪えたのだった。

***

「ナガツキ!」
「――はっ」

 心臓が跳ね、息を吹き返したかのように緊張が戻ってくる。
 ヒトハが我に返った時、杖を握りしめている手が何者かに掴まれていた。反射的に杖を振るおうとするのを、その手が強く押さえる。

「あっ……せ、せんせ……?」

 ヒトハは自分の後ろで支えるように肩と杖を持つ手を包む男を見上げた。怒っているのか、焦っているのか、その全てが入り混じったかのような顔で、クルーウェルはヒトハを見下ろしていた。
 下に跨いでいたはずの生徒はいつの間にか引きずり出され、少し離れた所で他の教員たちに囲まれている。

「お前は一体何を……いや、聞かなくても分かるが……」

 ヒトハは呆れかえるクルーウェルを見て、ゆっくりと瞬きをひとつ落とした。

「――ふふ」

 強張った体から力が抜けていく。やっと自分が目的を達成したのだと実感して、なぜか笑いが込み上げてきたのだ。
 訝しげに自分を見下ろす目を見据え、ヒトハは得意げに胸を張った。

「どうです? 先生の猟犬に相応しい活躍でしょう?」

 クルーウェルは何か言おうと何度か口を開閉して、結局は最大級の呆れ顔で「たわけ」と呟いたのだった。

送信中です

×

※コメントは最大10000文字、5回まで送信できます

送信中です送信しました!