魔法学校の清掃員さん
21-10 清掃員さんの願い
一人での行動は慎むように。
クルーウェルからの言いつけを守り、ヒトハは放課後まで先輩と同僚、時折親しい生徒たちのいる所を渡り歩きながら、最後に中庭のベンチに座っていた。つい先ほどまで同僚がいたが、今はリーチ兄弟の片割れ、ジェイドが隣にいる。彼は用もなくベンチで暇を持て余すようなことはしない。当然、ヒトハに用があってのことだった。
「二つ目のご注文の品です」
ジェイドが黒い革手袋で包み隠すように差し出したのは、緑色の魔法薬が入った瓶である。いつも飲んでいるものとは違い、濁りの一切ない澄んだ液体だ。それを大事そうに受け取って、ヒトハは「早いですねぇ」と感心した。
モストロ・ラウンジの商人はあらゆる願いを叶えてくれる。その対価は大きかったが、その分の価値があるものだ。
ヒトハが制服のポケットにそれを仕舞っていると、ジェイドは遠慮がちに「でも、良いんですか?」と問いかけてきた。まさかこの生徒にそんな心配をされるとは思わず、ヒトハは目を瞬いた。
「ええ、自分の納得いくようにしたいんです。自分のためにも」
そんな回答で納得がいくかは分からない。オクタヴィネル寮の生徒は基本的には冷静で、とても頭がいい。論理的な考え方をするものだから、自分のような考え方は好まないだろう。そう思っていたのに、ジェイドは少し目を見開き、そして「幸運を祈ります」と微笑んだのだった。
「もう日が暮れますね。部屋まで送りましょうか?」
「ああ、それは大丈夫です。もうお迎え頼んじゃったんですよね」
ヒトハはスマホを取り出し、画面に指を滑らせた。新着は一件。丁寧すぎるくらいにお願いをしたというのに、素っ気ない返事だった。
ヒトハはその間にできることを考えて、ジェイドに一つお願いをすることにした。
「そうだ! ジェイドくんの連絡先、教えてもらえると嬉しいです!」
ジェイドが席を立ってすぐに、ベンチで足をぶらつかせるヒトハの元へ迎えがやって来た。
傾いた陽で細く伸びる影を足元に見て顔を上げると、クルーウェルが呆れ果てた顔で見下ろしている。
ヒトハは構わず頬を緩めて、ベンチから腰を上げた。
「お前というやつは、本当に俺の言うことを聞かないな。仔犬どもの方がまだ従順だぞ? それになんだあの噂は。まさか、本当に犯人探しなんてしているんじゃないだろうな?」
クルーウェルは現れて早々、苦々しい顔をしながら説教を始めた。彼の仔犬たちもなかなかに奔放だが、今この状況においては自分の方が手がかかる存在らしい。
ヒトハはベンチから立ち上がると、クルーウェルを見上げながら口を尖らせた。
「そんな! 確かに今日はずっと部屋の外にいましたけど、私は残り短い学園生活を楽しんでただけです!」
「本当だろうな?」
「本当です!」
クルーウェルは疲れ切ったように大きく息を吐いた。
「……まぁいい。部屋まで送ろう」
彼は相変わらず事件のことで振り回されて疲れているのか、珍しく肩を落として姿勢を崩す。ヒトハは申し訳ないと思いつつも、コートの袖を掴んで引き留める。
「先生、ちょっと付き合って欲しい所があるのですが、いいでしょうか?」
放課後の夕日が差し込む校舎を、ヒトハは迷うことなく進んだ。この時間帯になると生徒は寮に戻ってしまい、校舎には残っていない。思い返せば、彼と初めて出会ったのもこんな時間帯だった気がする。
ヒトハは後ろに気配を感じながらも、目的地に着くまでほとんど振り返ることはなかった。
彼は歩幅の長さの割に、律儀にも、あえてゆっくりと後ろからついて来た。あるいは何かに警戒してのことかもしれないが、惜しむように校舎内を眺める自分に何も言わないのだから、きっとそれだけではないのだろう。
ヒトハはその厚意に甘えながら、静かな校舎を楽しんだ。広大な校舎の廊下と階段、その古びた装飾やいつの間にかついた傷痕、もういくら頑張っても取れない汚れの一つひとつを知り尽くしている。優しい先輩と同僚たちが教えてくれた、秘密の部屋や近道をするための方法を覚えている。
彼はどれだけ知っているだろうか。共有出来たら、それはとても楽しいことだろうな、とヒトハは思った。しかしそれをするにはあまりにも時間が足りない。だから一つだけ、とっておきの場所に連れて行きたかった。
「埃っぽいな」
先に口を開いたのはクルーウェルだった。上等なコートと革靴が汚れないか気になるのかもしれない。
二人がやって来たのは、あのホリデー中に先輩から教わった通路だった。〈忘れ去られた通路〉と呼ばれたこの通路は、この広大な学園の中で掃除も行き届いていない珍しい場所だ。石造りの古びた階段を上った先、校舎の端に位置し、物置のように使われない机や椅子が適当に放置されている。錆びついて開かない大きな窓が印象的で、この窓を開けるのはヒトハの力では到底無理だった。
もう一度その窓を押し開けようとして力を込めてみたが、当然びくともしない。
「実はこれを開けて欲しくて」
クルーウェルは拍子抜けしたような顔をして深々とため息をつくと、コートを脱ぎ、それをヒトハに押し付けた。
「持ってろ」
そう言って窓に手をかける。窓は男性の力をもってしても開くことはなかった。
「重いな……」
クルーウェルは指揮棒を手に取った。形状変化させた杖で、いつもこれを振り回しては生徒たちの躾をしている。それで軽く窓の縁を叩き魔法をかけると、窓は驚くほど容易に開いた。
「へぇ、こんなマイナー魔法知りませんでした」
「知らないならよく調べておくように」
「はぁい」
ヒトハはコートを返し、開いた窓をさらに大きく開いた。
湿気った風が通路を通り抜け、埃臭さを消し去っていく。白くぼやけて見えていたロイヤルソードアカデミーの外観が、夜に差し掛かる空のもとにはっきりと見て取れた。ナイトレイブンカレッジと対極の校舎は強く輝く光の城のようだ。麓で灯り始めた街の光が温かく、ヒトハはその絶景にため息を落とした。
あの日ここを訪れた時から、これを見たいと思っていたのだ。
ヒトハは窓枠に手をかけると、強く床を蹴った。
「よっと」
「おい、落ちたらさすがに助けてやれんぞ」
クルーウェルの焦ったような声がしたが、ヒトハは構わずそこに腰かけ、上半身を外に捻った。
風が髪を揺らす。校舎のより高い位置から見るナイトレイブンカレッジは、あのホリデーに見た雪景色とは大きく異なっている。これから緑が少しずつ鮮やかに色づき始め、いずれ本格的な春へと至るのだろう。その景色をここから見るのだと思っていたが、前倒しになってしまったのが少し惜しい。
「落ちませんよ。ここから外を見てみたかったんです」
ヒトハはクルーウェルの方に向き直り、足をぷらぷらと揺らした。ちょうど目線が同じくらいで、それに少し緊張してしまう。
「先生、私のせいで色々すみませんでした」
「お前のせいじゃない」
「明日の夜には出て行く予定です。今のところ」
「そうか」
クルーウェルは静かに目を伏せた。彼の瞳と似たシルバーグレーのアイシャドウが、まだ夕方だというのに星のように瞬く。あえて口にしたことはないが、ヒトハはその輝きが好きだった。
「そうだ。ドレス、サイズ合わなくなっちゃったんですよね」
「だろうな。直してやるから持って来い」
「ええ? あ、でも極東はとっても遠くて……。なので、パーティーの件はなかったことに……」
ヒトハがそう言うと、クルーウェルはぴくりと眉を動かした。
「つまりそれが目的だな? どこに行こうが迎えに行ってやるから覚悟しておけ」
「ええ!? あ、諦めてくださいよ……!」
この学園から極東の島国は途方もなく遠い。乗り継ぐ交通機関の量が膨大で、今回は特別に鏡の使用許可が貰えたからいいものの、あそこに自らの足を使ってやってくるのは並々ならぬ根性が必要だ。本当にそんな所まで追いかけてくるような執念深さを持っているのだろうか。と、疑ってみたが、よくよく考えればあり得なくもない。彼は一度怒らせたら泣いて伏せをするまで躾ける執念深い男である。
「生徒たちの課題もこともそうですけど、先生って本当に意地悪ですよね」
「なんとでも言え」
そんな嫌味を口にしながら、ヒトハはくすくすと笑った。
俺の躾が疑われると言いながら厳しく教鞭を振るい、煙たがられているのを揶揄してのことだ。けれどそれで確かに成果を出していることを、ヒトハは知っている。彼の真意が生徒たちの身に染みるのは、きっと自分のように、大人になってからなのだろう。
穏やかな沈黙の後、ヒトハは重い口を開いた。
「あのですね、先生。実は私、やりたいことができたんです。でもまだちょっと不安で」
恥ずかしいけれど、口にするのは難しいことではない。ただ少し、緊張するくらいで。
「先生、私に『できる』って言ってください。そしたらきっと私は、“できる”んです」
彼のことを信じている。きっとそれは今まで出会ってきた誰よりも。彼の持つ、強く眩い自信が好きで、それにいつだって惹かれてきた。その彼が言うのなら、そうなのだと信じることができる。
白線の先へ踏み出す勇気が欲しい。
ヒトハは今の自分に必要なもの、その最後の一つにそれを願った。それさえあればこの先いくらでも、どこへだって駆けて行ける。そんな気がするのだ。
「俺を願掛けに使おうとするとは、いい度胸だな」
クルーウェルは腕を組みながら呆れたように言った。
「だが、これからの目標ができたのは良いことだ」
「えっへへ」
「なんだその笑い方は。まぁいい」
ヒトハの前に赤い手袋が差し出される。
「お手」
ヒトハはほとんど反射的に、その手に自分の白い手袋を重ねた。大きな赤い手はヒトハの手をすっぽりと包み込む。そうすると、お互いに手袋を挟んでいるはずなのに、仄かに優しい体温が伝わってくる。
「いいか。お前はそのそそっかしい性格と慎ましい魔力で魔法士養成学校を卒業するくらいには根性がある」
「いや、それ悪口……」
「ビー クワイエット! 俺が話している時に口を挟むな。無駄吠えは減点対象だ」
仔犬どもを叱り付けるような厳しい声に、ヒトハは慌てて口を噤んだ。
「お前は、膨大な借金を抱えながら助けを断り返済しようとするくらいには頑固で、危険な場に自分から突っ込んで行き仔犬を守るくらいには勇敢だ。読まなくてもいい本を読むほどに律儀で、時に仔犬どものいいカモにされながら勉学に励む勤勉さがあり、死の淵でも生還して見せるほどには幸運でしぶとい」
そして彼は、今まで聞いた中で一番優しい声で言ったのだった。
「それでもってお前は優しすぎる。誰もお前の持つ強さに気が付かないかもしれないが、俺は知っている。お前ならできる。この俺を信じろ」
洪水のように浴びせられた言葉にヒトハはしばらく呆然として、そして熱くなり始めた顔を隠すように俯いた。
「へへ、なんだか照れちゃいますね」
こうして彼の評価を聞くことは初めてではない。それでもこれは今までの全てを見てきた評価で、最大級の褒め言葉で、そして激励なのだ。
「先生、ありがとうございます。私、この学園に来るまで魔法士としての自分に自信がなかったんです。でも魔法が好きで、魔法士として生きていくことを諦めきれなくて」
将来の夢。立派な魔法士になること。いっぱい勉強して、魔法で誰かの役に立てるようになること。
それを捨て去り、自分の願いは叶わないと自覚して、どれだけの時間を過ごしただろう。その中でかつての願いはゆっくりと溶けて消えていくはずだった。
でもこの学園に来て、目を焼くような強い光を見てしまったから――それに照らされてしまったから、再び願ってしまったのだ。この学園で生徒たちの成長を見守る人に、彼らの役に立てる魔法士になりたいと。
「私、先生のおかげで少し自信が持てるようになりました。私はやっぱりまだ何も諦めたくない。もっと頑張れる。私はきっと、これからなんです。先生が信じてくれる私なら、何だってできるはずです」
ヒトハは繋いだ手を強く握り返した。
この温かさを覚えているうちは、きっと挫けることはない。彼の信じた強さを信じることができるから。
夜風がそっと背を押す。顔を上げ、眩しそうに細められた目を真っ直ぐに見返して、ヒトハははにかんだ。やはり少し恥ずかしいのだ。
そうやって照れているヒトハを見ていたクルーウェルは、突然穏やかだった笑みを、悪戯を思いついたかのように深くした。くん、と腕を引かれる。
「わぁっ!」
いきなり廊下に引き戻され、ヒトハはその勢いで鼻先をクルーウェルの胸にぶつけ、情けのない声を上げた。
「もう! 本当に意地悪ですね!?」
「いつまでもそんな所に座っていたら危ないだろうが」
崩れそうになった体を支える腕に縋りながら、ヒトハはクルーウェルを見上げた。
一歩間違えたら廊下で転がっていたかもしれない。ドキドキと心臓を跳ねまわらせるヒトハを見下ろして、彼は笑いながら肩を震わせる。ヒトハはそれに釣られて赤くなった頬に笑みを浮かべた。
「先生、クルーウェル先生、ありがとうございます」
視線を落とし、小さく息を吐く。
「それから、ごめんなさい」
「気にするな。お前が無事ならそれでいい」
軽く肩を叩かれて離れる胸元に少しだけ名残惜しさを感じながら、ヒトハはゆっくりと頷いた。
やがて月が上り、夜が明け、そして明日が来る。それはヒトハにとって大事な、最後の一日だった。
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