魔法学校の清掃員さん

21-07 清掃員さんの願い

 硬いシーツと柔らかな枕に埋もれて、ヒトハは静かに息をしていた。

「本当にこれでいいのかな……」

 保健室の先生はとうに帰ってしまって、ここにはもう誰もいない。恐らくこの部屋は今、厳重な魔法に守られている。
 最低限の灯りに照らされながら、ヒトハは誰に言うわけでもなく呟いた。
 本当にこれでいいのか。
 その疑問は生徒たちと触れ合えば触れ合うほど大きくなっていった。この学園にいたいのは、なにも自分のためだけではない。この学園にいたいのは生徒たちの役に立ちたいからではなかったのか。このまま危険を残して、自分だけ逃げていいのか――
 その疑問にぶつかっては自分のために駆け回ってくれた人たちの姿がちらついて、そんな我儘は言えないと思い直す。そうやって何度も何度も堂々巡りをしてしまうのは、やはり心の底では納得ができていないからだ。それは分かっていたが、だからと言って学生の頃のように我を通すほどの度胸もなかった。
 ぼうっとパーテーションを眺めていると、不意に保健室の扉が開く音がする。ヒトハは反射的に杖を手にして、その足音が誰のものかを悟ると、そっと手を離した。

「不貞腐れているのか?」
「……ちがいます」

 ヒトハは枕に埋めた頭を起こして、クルーウェルを見上げた。
 彼は相変わらず疲れた顔をしていたが、ヒトハが小さく頬を膨らませるのを目に留めると、口の端を少しだけ歪めて笑った。

「ナガツキ、手を出せ」

 クルーウェルはベッドサイドに置かれた簡易な椅子に腰掛けて手を差し出した。彼が夜どんなに遅くなってもやってくるのはヒトハに“おまじない”をかけるためだ。未だに効果が不明なおまじないだが、習慣化され始めたおかげで、その意味を知りたいと思う気持ちもいつしかなくなった。分からなくとも、自分にとって大切なことであるのは間違いないと知っているからだ。彼はいつも通りベッドに腰掛けたヒトハの手を取り、何かの呪文を唱え終わると、いつものようにその手を離そうとした。

「あの」

 いつもと違うのは、その手をヒトハが握り返したことだ。
 クルーウェルは少し驚いた顔をして「どうした」と問いかける。

「あっ、えっと、その……」

 ヒトハはハッとしてまごついた。今日はつい、手を握って引き留めてしまった。そんなことをしなくとも、いつも満足するまで会話に付き合ってくれるし、すぐに帰ることなんてないのに。
 クルーウェルは頬を赤く染めて慌てるヒトハをじっと見ていたかと思うと、そのまま立ち上がり、ヒトハの隣に座り直した。ベッドのスプリングが軋んで傾き、そのせいでヒトハの体は少しだけクルーウェルに寄った。柔らかなコートに繋いだままの片腕が埋もれて心地いい。思えば、素手でコートを触ることはあまりなかった。

「先生、このコート気持ちいいですね」
「素材にはこだわっているからな」
「好きですねぇ、服」

 ふふ、と小さな笑い声が保健室の高い天井に響く。

「ね、先生、今日も仔犬どもがいっぱいお見舞いに来てくれましたよ」
「それはよかったな」
「はい。お菓子とか色々貰って、それからセベクくんがまた本を貸してくれたんです。あと、あのお花も貰いました」
「……あれは素材じゃないか?」
「素材じゃないです」

 ヒトハは口を尖らせながら、グラスに挿した花の隣に飾ったトランプを一枚片手で手繰り寄せた。なんとなく眺めていたくて、これだけ飾っていたのだ。

「先生のクラスのみんなも来てくれましたよ。トランプ、今日は勝ちました」

 硬いカードを親指でさする。束の間の勝負が思い起こされて、ヒトハは笑えばいいのか、泣けばいいのか分からなくなってしまった。昨日からもうずっと感情がぐちゃぐちゃで、すぐに泣きたくなってしまうのだ。
 誤魔化すように深く息を吐いて、ヒトハは話を続けた。

「知ってました? エースくんっていつもイカサマするんですよ」
「イカサマ? 分かってるのにゲームをしているのか?」
「ええ、いつか見破ってやろうと思って。だから私、いつも勝てないんですけど。でも今日勝てたんです。『ツキが回ってきた』んですって」

 ヒトハは歪み始めた視界をそのままに視線を落とした。
 ――あの優しい子供たちは、これからどんな成長をするのだろう。
 パタパタと滴が落ちてカードを濡らす。染みになってしまうから止めなければいけないのにと思うほど止まらない。ずっと握ってくれている手に力がこもって、ヒトハは応えるように握り返した。

「私、あの子たちにたくさん貰ったのに、まだ何も返せてない……」
「それは違うだろう。お前の行いが返ってきているだけだ」

 ヒトハはゆるゆると首を横に振った。

「溢れるくらい貰ったから、まだまだ足りないんです」

 成り行きでここへ来てから、たくさんの生徒に出会い、多くの経験をしてきた。良いことばかりではなかったが、それでも人生で一番楽しい時間だったと胸を張って言える。そのほとんどはきっと、彼らのおかげだ。生徒たちのおかげでやっと「ここにいたい」と心から思える場所を見つけることができた。彼らに報いたい。けれど、もうそれすらも許されない。

「お前は俺の知らない間にずいぶんと楽しい学園生活を過ごしていたようだな」
「ええ、先生にはまだ話してないこと、たくさんありますよ。生徒たちとの秘密もあるし、約束も。なのに私は――」

 ヒトハはその先を躊躇って、口を噤んだ。萎れるように肩が丸まって、このまま小さくなって消えてしまいそうだ。いっそ、消えてしまえたら楽なのかもしれない。
 ずっと繋いでくれていた手が離れ、そっと背に回る。ヒトハは柔らかな毛皮に遠慮がちに寄りかかった。

「私は、ひとりでここから逃げてしまう……」

 その声は、静かな保健室に懺悔のように響いた。
 危険な人を放って、それで大変な目に遭う人たちを見ないふりをして、ひとりで逃げる。いつか犯人が捕まって、ここへ戻れる日が来るかもしれない。けれどその時、胸を張って戻れるかといえば、そうではないと思うのだ。きっと恥ずかしさと後ろめたさに苛まれて、この学園の門をくぐることができないだろう。それが分かっているから辛くて涙が止まらない。

「出ていきたくない。先生、嫌だ。私はまだ、ここでやりたいことがたくさんあって、まだ見たいものがたくさんあるんです。私にできることだって、きっとまだ……」

 一息に吐き出し、我に返る。
 ヒトハは背を丸めて隠れるようにコートに頭を埋めると、うわ言のように繰り返した。

「ごめんなさい、ごめんなさい……」

 何度も何度も背を撫でる手は優しく、それはヒトハが泣き疲れて眠りに落ちるまで、絶えることなく続いたのだった。

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