魔法学校の清掃員さん

21-06 清掃員さんの願い

(また駄目だった……)

 いつも自分にはここしかないと決めて座ろうとしたら、椅子を取り上げられてしまう。ここに居場所はない。でもここしかないと思っていたから、次にどこに行けばいいのかも分からない。また暗闇の中で両腕を彷徨わせて、唯一掴んだ所に行くのだろうか。そこも多分きっと、駄目なのだろう。

「嫌です」

 ヒトハは気が付いたらそう口にしていた。ただ勝手に口を滑って出た言葉だ。しかしそれは間違いなく本心の表れだった。

「お前の気持ちも分かる。だが、犯人にとって自分の顔を見た人間が生きているのは都合が悪い。ここが危険な場所であることくらいは分かるだろう」
「分かりません」
「お前な……」

 ヒトハは顔を背けて精一杯抵抗した。そうでなければ、今かろうじて保っているものが崩れてしまいそうだった。

「もっと厄介なことになる前に極東へ逃げるべきだ」
「嫌です」
「子供じゃないんだ。聞き分けろ」

 クルーウェルの苛立った声に、弾かれるように顔を上げる。

「子供なら……子供なら聞き分けなくたっていいって言うんですか!」
「屁理屈を言うな!」

 びくりと体を震わせる。ヒトハは力なく手元に視線を落とした。握りしめた手が、ただでさえ青白いのに、さらに白く血色をなくしていく。どれだけ抵抗しても、それはただの我儘にしかならない。なぜなら彼の言うことはどこまでも正しく、そして優しかった。

(私はただ、ここにいたいだけなのに……)

 悲しさに、泣いて喚くことだってできた。でも、この学園が好きだ。誰にも迷惑はかけたくない。彼を困らせたくない。それしかできない非力な自分を理解している。

「ごめんなさい……」

 ヒトハは視線を落としたまま、震える声で言った。

「困らせるつもりでは、なくて。ただ──ただ、今はひとりにしてください。すぐに泣き止むので、すぐに」

 ヒトハの肩を捕らえていた手がするりと離れる。クルーウェルが何かを言いかけ、諦めたように小さくため息を落とした。頑なに顔を上げようとしないヒトハを置いて、いつもより力なく靴音が小さくなっていく。扉が開き、そして静かに閉じた時、そこで初めてヒトハは嗚咽を漏らしたのだった。

 自分がどれだけ複雑な状況に立たされていたのか、それを知ったのは、ヒトハが再び保健室に連れ戻されてからのことだった。
 今回ヒトハの直面したアジーム家の事情というのは想像していたものよりも遥かに複雑で、それは身内間の争いであるということが大きく関係している。
 彼らは基本的に内部で起きたことは内部で処理し、外部には公にしない。子供を狙った凄惨な争いが起きていることを世間に知られては、アジーム家という一族全体の大きな不利益になるからだ。よって、学園内でカリムの身に何かあったとしても、そこに警察などの外部の機関が介入することはない。その話はこの学園への多額な寄付と共に、すでに学園に受け入れられていることだった。
 そのため今回巻き込まれたヒトハの状況がアジーム家絡みだと判明した時、学園側は判断に迷い、完全に後手に回ってしまった。犯人の行動の方が遥かに早かったのだ。

「つまり今、学園内部は大混乱中というわけですね……」
「そうなるな」

 クルーウェルは「頭が痛いことだ」と肩を落とした。ヒトハはベッドの上で膝を抱え、隣にいる男をそっと見やる。
 よく見ればずいぶんと疲労が溜まっているようだ。通常の業務に加え、この事件でずっと駆け回っていたのだろう。一日に何度もここへ顔を出しに来ていたことも、今思えば大きな負担になっていたに違いない。その事実を知れば知るほど、自分には何ができるか考えれば考えるほど、ヒトハは逃げ道が失われていくような気がした。
 クルーウェルはすでに、ヒトハをこの学園から逃がす計画を学園長に通しているのだという。余計な衝突を避けるために他の職員にも生徒にも事前に知られないようにするというのだから、かなり強引な計画である。
 全て終えたら、自分のいない学園で彼は一体どんな目に晒されるのだろう。それを思うと、ヒトハの中では悲しさよりも恐ろしさが勝った。

「両手の治療のことはまだ検討中だが、悪いようにはしないから安心しろ」
「……はい」

 ヒトハは両膝を抱える手に視線を落とし、怪我の痕を眺めた。これからもこの優しい日常が続いて、ここでクルーウェルに治療をしてもらって、いつかきっと治るものだと思っていたのに。今はもう、怪我のことなどどうでもいいことだった。

 保健室から脱走した日に保健室の先生からこっぴどく叱られてからというもの、ヒトハはベッドの上で大人しく過ごしていた。というよりは、これといって気力が湧かず、ぼうっとしていることに時間を費やしていた。
 翌日には「明日には部屋に戻っていい」と赦しをもらったものの、今となっては部屋に戻ることが何より恐ろしい。戻ってしまったら、この学園生活は終わってしまうのだ。
 そんな抜け殻状態のヒトハの所にも、生徒たちはたびたび顔を見せた。やはりサイドテーブルの上はお供物のようにお菓子が載るし、セベクは読みきれないほどの本を置いて行く。ある生徒からは男子学生には似合わない花だって貰った。照れながら「魔法薬学の授業で使わなかったから」なんて言っていたのはきっと嘘だ。その花は花粉こそが魔法薬の素材になる。
 そんな出来事が積み重なれば積み重なるほど、ヒトハの心は鉛のように重くなっていった。どんなに自分を納得させようとしても、やはりあの日言い切った通り“嫌”なのだ。

「お、元気そーじゃん」

 ヒトハが小さなグラスに挿した花をぼんやりと眺めていた放課後、エースの弾んだ声が静かな保健室に響いた。パーテーションから顔を出したいつもの三人と一匹の顔は、窓から差し込む夕日のせいか、ちょっとだけ赤らんで見える。

「みんな、どうしたの?」
「だいぶ良くなったって聞いたから、お見舞いに来ました」

 デュースが購買に売っているカットフルーツを差し出しながら言い、ヒトハはそれを受け取って「ありがとう」と微笑んだ。

「っていうか魔法薬飲んでるのは知ってたけど、飲み間違えるってあり得なくね?」

 エースがパーテーションを勝手に動かしながら笑う。彼の意地悪な言い方はいつものことで、ヒトハはむっと口を結んだ。その間抜けすぎる話は学園側の都合のいい嘘で、実際にはそんなことはあり得ない。クルーウェルは几帳面な人だから万が一にも間違えないし、ヒトハも色や匂いで絶対に気が付く。
 その事実を口にできないヒトハの代わりに、デュースとオンボロ寮の監督生は「エース」と名前を呼んでそれを咎めた。

「でも何とかなって良かったじゃねーか。オレ様、もうヒトハからツナ缶巻き上げられなくなるかと思ってヒヤヒヤしたんだゾ」

 ベッドによじ登ったグリムがぎざぎざの歯を見せて笑う。グリムが言うのは、時折彼らと興じるトランプで負けた時に、罰ゲームがてら要求されるツナ缶のことだ。
 生死を彷徨った人間に言うことではないが、かといって素直に無事を喜ぶ子でもない。ヒトハはグリムの鼻を摘まんで「レオナくんと同じ“トドちゃん”にならなければいいですね」と皮肉った。グリムは水生生物の名前をつけたがるフロイドから“アザラシちゃん”と呼ばれているのだ。
 彼らはいつの間にか小さな椅子を移動させて、ベッドの横に腰を下ろしていた。長居する気満々の彼らに忠告するように、保健室の先生がそっと顔を覗かせる。

「そろそろ閉めますからね」
「はぁい」

 ヒトハを含め四人と一匹はそれに素直に応えた。たしかに、あまり長居しては生徒である彼らは夕食の席に遅れてしまう。

「せっかく決着つけようと思って来たのになー」

 保健室の先生が立ち去る姿を目で追いながら、エースは口を尖らせた。そしてトン、とカードの束をサイドテーブルに置く。

「トランプ?」

 ヒトハは首を傾げた。決着、と言われてすぐには思い至らず眉間に皺を寄せていると、エースは親切にも「チップ二枚」とヒントを与えてくれる。彼らは先日オンボロ寮で途中だったゲームの続きをしようとやって来たのだ。

「時間ねーし、“ブラックジャック”でサクッと一発勝負しようぜ」
「ブラックジャック? いつものか?」
「そ、いつもの」

 エースは器用にトランプをシャッフルしながらデュースに答えた。
 ブラックジャックはディーラーとプレイヤーの一対一のゲームだ。最初に配られる二枚のカードを基本として、お互いカードの合計が17以上22以下になるまでカードを引き、より高い点数を出した方が勝ちとなる。この時、合計が21以上になってしまったら即負けだ。
 このゲームにはディーラーが最初に一枚だけ公開することによってプレイヤー側が合計数を予想できるという戦略的要素があるのだが──エースとデュースの言うブラックジャックは、その戦略的要素をなくした“ブラックジャックもどき”のことだった。
 このルールではディーラーとプレイヤーの概念を取っ払い、最終的に最も21に近い数字を出した者を勝ちとする。要するに、完全な運試しである。

「えっと、チップは?」
「それはまた今度ね。チップ二枚からオレを負かすの、ゲーム一回じゃ足りないっしょ」

 エースはトランプを二枚ずつそれぞれに配りながら答えた。本来であれば表向きに配るが、このルールの時はいつも裏向きで配る。彼は全員に配り終えると、テーブルにカードの束を置いた。

「オレが親ね。時計回りで引いて」

 ヒトハは配られた二枚のうち一枚を捲った。“クローバーの10”だ。
 21を目指すこのゲームでは、2から10までは数字通りに数え、絵札は全て10と数える。もう一枚を捲り、ヒトハは目を瞬いた。

「ステイ」

 エースはカードを一枚も引くことなく、自分の手元にある二枚を見ながら言った。ここで言う『ステイ』はこれ以上カードを引かずに、この手札で勝負するという意味だ。合計が21を越えてしまったら意味がなく、これ以上数字を足す必要のない良い数字を出したのだろう。

「エース、余裕だな……」

 デュースが自分の手札を見ながら不安そうに一枚引き、ほっと胸を撫でおろす。監督生とグリムは一人と一匹のセットで、一枚引いたグリムが目に見えて嬉しそうにした。ポーカーフェイスが上手な監督生に対してグリムは表情豊かだ。しかし厄介なのは、実際に戦略を立てているのは監督生で、グリムの表情は参考になる時とならない時があるということである。

「ステイ」

 ヒトハは自分の番に、エースと同じく宣言した。
 二週目はカードを引かないエースを飛ばしてデュースが一枚引き、あからさまに肩を落とす。監督生は少し険しい顔で「ステイ」と宣言し、グリムは「まだいける」と騒いだ。

「デュースはまだ引く?」
「いや、ステイだな……」
「オッケー。ってかデュース、お前21超えたんじゃねーの?」
「うっ……」

 エースが「分かりやすすぎ」と笑い、ヒトハも思わず笑いをこぼした。デュースの顔を見れば、彼がこのゲームですでに負けているのがよく分かる。デュースはその素直な性格のせいで、度々ゲーム中に墓穴を掘るのだ。
 エースは「じゃあ結果発表ね」と自分のカードを表にした。カードはKとJでどちらも10と数える。一枚も追加で引かずに20を叩き出すのは結構な強運だ。これに勝つには21を出すしかない。
 すでに負けが確定したデュースは四枚を表にして「22」と声を落とす。9、2、4を引き、追加したカードが7だったのが悪かった。続けて監督生が表にした三枚は5、2、10で合計が17。グリムはもう一枚引けばもっと21に近づくと踏んだが、慎重な監督生がカードを追加せず、エースに一歩届かなかった。

「ヒトハさんは?」

 デュースに問われ、ヒトハは最初に配られた二枚を表にした。

「“ブラックジャック”ですね」

 このゲームには“ブラックジャック”と呼ばれる最高の組み合わせが存在する。最初の二枚で21に到達する組み合わせ、すなわち10と11だ。このゲームでは、2から10までは数字通りに数え、絵札は全て10と数える。ヒトハの手元には、唯一11になれるカードがあった。

「クローバーの10とハートのAです。今日はついてますね、私」

 ヒトハはハートのAを指で叩いた。Aは普通に数えれば1だが、このゲームにおいては“1もしくは11”として数えることができるのだ。Aと10を同時に引き当てることができれば、本来のルールでもチップの配当が1.5倍になる大当たりとなる。

「ふなっ! オメーこんな所で運使い果たして、また死にかけても知らねーんだゾ!」
「なんて負け惜しみだ……」

 憤慨してベッドで跳ねるグリムをデュースが呆れた目で見やる。監督生から強制的にベッドから下ろされてなお、両耳に燃える不思議な青い炎は激しく立ち上った。

「グリム、野暮なこと言うなよ。これは“ツキが回ってきた”ってゆーの」
「月ぃ?」
「いや、ツキ! 運!」
「運が回転して来るのか?」

 エースはため息を落とした。

「悪いことがたくさんあったから、次は良くなっていく番ってこと!」

 全員からトランプを搔き集め、束を手元で整えたエースはそれをヒトハに差し出す。

「これ、今日の記念。今度の勝負まで運、とっておいてよ」

 ヒトハはトランプを受け取りながら声もなく頷く。両手に大事に包んだのは、いつもみんなでゲームをする時にエースが持ってくるトランプだ。たくさん遊んで、結局勝てずにいたトランプ。まさか今日、勝ってしまうなんて。

「もう閉めますからねー」
「はぁい」

 保健室の先生が催促にやって来て、エースたちは慌てて立ち上がった。勝手に持ち込んだ椅子を返したりパーテーションを戻して回る。最後に「お大事に」と言って去ろうとする彼らの背に、ヒトハはトランプを握りしめながら声を掛けた。

「みんな」

 振り返る三人と一匹の姿を見て、ヒトハは一瞬、名残惜しさに声を失った。

「……ありがとう」

 微笑みながら声を絞り出す。灯りがともった保健室ではっきりと見える彼らの顔は、やはりちょっとだけ赤らんで見えた。

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