魔法学校の清掃員さん

21-03 清掃員さんの願い

「ヒトハ、お前はよく頑張った」

 寡黙な父親が運転席で静かに言う。後ろに座るヒトハはそれをチラリと横目で見ると、また窓ガラスの向こうを眺めた。後ろに流れていく代わり映えのない景色とガラスに映り込む暗い目。
 頑張ったからなんだ。なにも得られなかったじゃないか。
 それを父にぶつけるのは理不尽で、かといって飲み下すにはあまりに苦い。
 成績は悪くはなかった。筆記は模試で十分な点数を出していたし、本番でミスをすることもなかった。何がいけなかったのか、その原因は理解できたが、受け入れることとは全く別の話である。
 大学の不合格通知を貰ったその日、どうにかして娘を慰めようと両親が連れて行ってくれた普段行かないレストランの料理は、どれもこれも味がしない、人生最悪の食事となってしまったのだった。

 ヒトハ・ナガツキは魔法士ではない二人から生まれ、幸か不幸かエレメンタリースクールに通う前には魔法が発現した。
 聞けば曽祖父が魔法士だったというから、あり得ないことではなかったのだろう。ナガツキ家唯一の魔法士となったヒトハは、相応の教育を受けるために魔法士の子供たちの中で過ごすこととなった。魔法は便利なもので、生活を豊かにし、誰かの助けになる。一方で危険なものであり、誰かを傷つけ、時に命を奪うものだと学ぶ必要があるからだ。
 そうしてミドルスクールまで通う間に魔法の基礎を身につけたヒトハがその先に進もうと決めたのは、幼い頃に魅了された魔法の美しさと、家で高い所にあるものを魔法で取ってやったのを、両親がよく喜んだからという素朴すぎる理由からだった。
 この時すでにヒトハは魔力が伸び悩んでいて、周りは彼女の進路を手放しに応援してやれる状況ではなかった。それでも母親は「やれるとこまでやってみなさい」と背を押したし、幼い頃から頑固で一直線すぎる性格を持つヒトハを止められる者は、誰一人として存在しなかったのである。
 こうしてヒトハの選んだ魔法士養成学校は全寮制かつ共学で、希望すれば誰にでも門戸を開く。良くいえば寛容で自由、悪くいえばハードルが低く誰でも入学ができてしまう学校だ。実のところ、選んだというよりは、選ばざるを得なかった。だが卒業後は魔法士としての専門職に就ける可能性が高く、大学への進学の道も開ける。
 ヒトハは自分の能力のことを自覚していたが、それでも一度決めたからには必ずやり通すと心に決めていた。ミドルスクールの先生の反対も、父親の反対も、同じように魔法士としての資質に恵まれなかった友人たちの呆れも全て跳ね除けて選んだ道だ。
 人一倍頑張れば切り開けない道はない。努力をすれば叶わない夢はない。しかしヒトハがそんな漠然とした希望を抱き、少しずつ失っていくまでには、そう時間はかからなかった。

「大丈夫?」

 ホリデーで実家に戻るといつも母親は開口一番にそう言った。寮で過ごす娘が帰ってくるたびに顔を暗くしていっては心配もしたくなるというものだ。ヒトハは毎回、それを曖昧に笑って躱した。
 勉強が思うようにいかなくて辛い。魔力が不足して周りに置いていかれるのが辛い。それを笑われるのが辛い。そのくせ座学だけ成績が良く、変に目立って素行の悪い生徒に目をつけられるのが辛い。たくさんの辛いことを抱え、それをなんとか吐かせようとする両親の気遣いが辛い。
 一度やると決めたから「やめろ」と止められるのが恐ろしくて、誰にも助けを求められなかった。こうして意固地になって周りに壁を作ることが悪手であると気づくにはまだ未熟で、すっかり口を閉ざしてしまったヒトハには、誰かが助けの手を差し伸べる隙すらなかった。
 幸いにして一部の教師は努力を続けるヒトハを好意的に見ていたが、彼らはヒトハが卒業したら一般企業に勤めて非魔法士に近い生活を送ると信じきっていた。よく面倒を見てくれた偏屈な魔法薬学の教師を除いて、誰もヒトハの魔法士としての能力を見ようともしなかったのである。

 キ、と車が信号前で立ち止まる。
 動きをやめた景色を背景にしてガラスに映り込む目は相変わらず暗く陰気だったが、その奥底にはどこか落ち着いた色も見えた。
 よく頑張った。たしかにそうだ。自分にできる限り、これ以上なくよくやった。もう走らなくていいのだと思うと、悔しさと悲しさと憤りとやるせなさの中に、どうしても安堵の気持ちが滲んでくるのだ。
 すると黙って話を聞いていた助手席の母親が、唐突に父親の肩を強く叩いた。

「何言ってるのお父さん、ヒトハはこれからよ!」

***

 ふっと身体を浮遊感が襲う。
 断続的に意識が浮上しては猛烈な全身の痛みと苦しさ、高熱に体を支配され、ヒトハはいっそ意識を失いたいと何度も願った。暑いのか寒いのかも分からず、内側から襲うぞわぞわとした感覚はたちの悪い悪夢を何度も何度も見せられている気分だ。
 そんな中でも霞がかった視界を、何人かが慌ただしく通り過ぎては何かを一生懸命言っているのだけは分かった。それに意識を向けるほどの余裕は、なかったけれど。

(死ぬのかな)

 そんな考えが何度も脳裏にちらついた。もういっそ死んだ方が楽なのかもしれない、とも考えた。
 一度だけ、こんな風に自らの人生を投げやりに思った時期がある。学生時代、何もかもがうまくいかずに行き詰まった時だ。生きる意味すら見失いかけて、いっぱい頑張ったから、もうやめたいと。
 けれどそれで本当にやめてしまう度胸もなく、結局こうして生きて、仕方なく選んだ道を行き、このナイトレイブンカレッジへたどり着いた。

(死にたくない……)

 ヒトハは朦朧とした意識の中で強く願った。
 今はもう、この学園で生きる意味を見つけてしまったのだ。エースにトランプで勝たなければいけないし、セベクの貸してくれる本の続きも読まなければならない。レオナの進級も、みんなの卒業も見なければ死ぬに死に切れない。まだゴーストにはなりたくない。――まだ。
 何度目か数えることもできないほどの地獄を味わいながら、疲弊したヒトハの頭に思い浮かぶのは“楽になりたい”。けれどこの自由にならない手を伸ばして渇望するのは、もはや死によるものではなかった。
 だれか、だれかに助けてほしい。医者でも、父でも、母でもいい。でも、ただひとつ願うのなら、彼がいい。約束をしたのだ。手を伸ばせば、あの時のように掴んでくれるに違いない。ヒトハにはその確信があった。それだけ彼のことを、彼の強さを、心から信じている。
 その時、冷え切った手がわずかに温かさを取り戻した。どこか遠くからいつかの言葉を聞いた気がして、ヒトハは苦しみに強張った体から力を抜き、ようやく静かに意識を沈めたのだった。

***

 なにかとトラブルを引き寄せる性質があるのは分かっていた。だが今回は一段と酷い。神がいるというのなら、善良であるはずの彼女に対してあまりにも不公平である。
 クルーウェルは慌てて駆け込んで来たセベクの知らせを聞き、一切を放り出して保健室に走った。
 このナイトレイブンカレッジに勤めてそれなりになるが、ここまでこの校舎が広く、廊下が長いことをもどかしく感じたことはない。何事か分からない生徒たちが驚いて道を開けるので、さぞ切羽詰まった顔をしていたのだろう。らしくないことに、それほどまでに焦っている。
 クルーウェルはやっと保健室の前にたどりついて扉に手をかけた時、ほとんど勘で悟った。ここでは冗談では済まないことが起きているのだ。一枚板を挟んだ向こう側の空気が漏れ出ていて、嫌でもそれを思い知らされた。
 ほんの一瞬の逡巡の後、扉を開け放ち、迷うことなく奥へと突き進む。保健室は人払いが施され、すでに必要最低限の人数しかいない。
 いつもの彼女であればここで「先生ったら心配性なんですから」と言いながら笑っているはずである。それがこうしてベッドの上で死に抗っているのだから、冗談ではない。

「何をしているんだ、お前は……」

 そんな言葉が口をついた。どうせ聞こえてなどいないのに、軽口が返ってきて、これが冗談であると証明して欲しかった。そんな叶いもしないことを願うくらいには、酷い惨状である。
 素早く体中を確認してまわりながら、状況を説明する言葉を頭に叩き込む。毒を口にする瞬間を見た者はおらず、大食堂で唐突に吐血して倒れた後からの目撃情報しかないのだという。
 クルーウェルは人目も憚らず強く舌打ちをした。

「食堂に残されたものに素手で触れるな。全て集めて持って来い」
「もう集めて実験室に運んでいます」

 素早く返したのはヒトハと懇意にしているというオクタヴィネル寮の生徒だった。三年生である彼は、素朴ではあるが寮長に引けを取らない成績優秀者だ。この生徒であるならば、指示しようとしていたことのほとんどを正確に行なっているはずである。

「よし、仔犬、お前は今日の俺の授業が全て自習になることを伝えてこい。それと補佐が欲しい。シェーンハイトと、それから――」

 話しながら息をつく暇もなく保健室を後にする。ものの数分の滞在だったが、苦しみに喘ぐ声がいつまでたっても耳から離れなかった。

 解毒薬の調合は思いのほか難航し、夜通し複数人が実験室に缶詰めになる事態にまで陥った。
 そのほとんどの原因は毒薬の解析である。ヒトハが丁寧にも毒薬――グラスに入った水を飲み干していたせいで、判断の材料があまりにも少なかったのだ。唯一、盛られた毒が数ある毒薬の中でも屈指の強さであることは早い段階で明らかになっている。それはかのポムフィオーレ寮長のヴィルでさえも「悪趣味」と吐き捨てたほどだった。
 解析が済んでしまえば解毒薬の調合は速く、明け方にはそれを手に再び保健室へ走る。早朝にもかかわらず煌々と明かりが灯っている保健室は、相変わらず昼間と同様の緊迫感が漂っていた。異なるのは未だベッドに臥せっている彼女の体力が尽きかけて、呼吸が浅くなっていることだろうか。薄く目は開いているのに焦点が合っていない。
 しかし決して頑丈とは言い難い見た目をしていながら、ここまで持っているのはいっそ見事だった。悪運の中にわずかに残った幸運を掴んで離さないのは、類稀なる根性によるものか。その点、クルーウェルは彼女のことを信用していた。

「――たすけて」

 突然、浅い呼吸と共に吐き出された言葉にクルーウェルは一瞬息を止めた。意識があるのか、はたまた夢を見ているのか。ただうわ言のように「先生」と呼びながら涙を流すのを見て、何も感情を抱かないわけがなかった。
 かすかに動いた手を拾い上げ、冷たい指先を温めるように握りしめる。まさかあの時ですら頑なに言わなかった言葉を、こんな所で聞くことになるとは思いもしなかった。

「ああ、助けてやる」

 あの夜の約束を果たす瞬間があるとするならば、それは間違いなく今なのだ。

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