魔法学校の清掃員さん

21-04 清掃員さんの願い

 幾重にもなる輪郭が一つになっていくように、ヒトハの視界は徐々に鮮明さを取り戻し始めた。重い倦怠感は残したままだが、あの猛烈な苦しみからは解放されている。口の中がやたら乾いていて、喉の奥で血の味がした。

「あ……」

 ひとつ瞬きをして気が付いた。ここには見覚えがある。保健室だ。
 ヒトハは高い天井を眺めながら、ゆっくりと思考を整え始めた。

(生きてる……)

 斑らに痕の残る手を目の前にかざし、やっと自覚した。あれほどの苦痛は未だかつて味わったことがなかったが、無事乗り越えたのだ。死を間近にしていたのだと思うと、安堵と同時に恐怖がにじり寄ってくるようだった。
 一体どうしてこんなことになったのか、ヒトハにはまだ何一つ分からない。ただ理解しているのは、あれは病気でも事故でもない、誰かの悪意によるものであるということだけだ。

「いたた……」

 体を起こそうと身を捩ると、ずいぶん力が入っていたのか節々が軋むように痛んだ。長いことベッドに横たわっていたのもあって腰が酷くだるい。しばらくするとヒトハの声を聞きつけてか、保健室の先生がパーテーションから顔を覗かせた。

「よかった! 目を覚ましたんですね!」

 彼はほっとした様子でそう言うと、「具合はどうですか?」と優しく尋ねた。一度死にかけた体で大丈夫などとは口が裂けても言えず、ヒトハは「あまり良くないです」と力なく答えるしかない。そのせいで彼は顔色を悪くして絶対安静を言い出し、ヒトハは再びベッドに沈められることとなった。
 聞くところによると今日は倒れた日の翌日になるらしい。即時に死に至らしめる毒に侵されながら半日以上生き抜き、これほどまでに早く目を覚ますことができたのは、直前に飲んでいた魔法薬に強力な治癒効果があったからだという。こうなると運が良いのか悪いのかよく分からないが、少なくとも、最悪は免れる程度の幸運は持っていたようである。それが図らずしてクルーウェルからもたらされたものであるということを考えると、もしかしたらこの幸運は、彼のものなのかもしれなかった。
 ヒトハは保健室の先生から言いつけられた通りに、仕方なくベッドに横たわっていた。散々寝ていたせいですっかり目が覚めてしまって、眠ろうにも眠れない。
 ぼうっと視線を巡らせていると、ふと春の冷たい風が鼻先を擽った。
 白いカーテンの隙間から晴天が覗いている。外はこんなに明るく天気がいいのに、こうして力なく伏せっているのは不思議な気分だ。
 静かに目を覆っていると、どこか遠くから生徒たちの声が聞こえてくる。横になっているからといって体調がすぐに回復するわけではないが、こうしていつも通りの彼らの声を聞いていると、不思議と身体の疲れが取れていくような気がした。

 しばらくして運び込まれた食事は倒れる前に食べていたリゾットのようなものだった。無理はしなくていいとまで言われて出されたそれは、子供の頃に風邪を引いた時に母親が作ってくれた粥に近い。それをスプーンに少しずつ乗せてちびちびと口元に運んでいると、にわかに保健室が騒がしくなる。
 広い保健室に響く靴音は鋭く、よく聞き馴染んだものだが、今日はいささか歩調が速かった。

「こんにちは、先生」
「無事か」

 ヒトハはスプーンを置いて、できる限り上手く笑おうと努力した。気持ち的には歓迎しているのだが、どうにもまだ身体の調子が不十分で、どこもかしこも力が入らない。
 クルーウェルは目に見えて疲れた様子でベッド脇の椅子にどっと腰を下ろした。
 保健室の先生曰く、彼は毒薬に詳しい生徒や先生たちと解毒薬の調合を夜通し行っていたのだという。あと少し遅れていたら危なかった、と聞いてゾッとした反面、彼らの努力が無駄にならなかったことに深く安堵した。自分の体ながら、今日ばかりはよく頑張ったと褒めてやりたいくらいだ。

「ありがとうございます。先生たちの調合のおかげでこの通り、無事でしたよ」

 ヒトハは両腕を広げ、ほら、と見せた。体調はなかなか戻らないが、あとは回復を待つだけの身だ。しかし彼は沈んだ面持ちのままで、額に手を当てて深く息を吐いた。

「いや、遅くなってすまない。辛かっただろう」

 珍しく憔悴した姿に、ヒトハはどうすることもできず眉を下げた。なにせこんな状態の彼を見たことは今の今まで一度だってなかった。ヒトハはどう答えたものか悩んで、一つひとつ言葉を選んだ。
「あまり覚えてないんですけど、でも、なんとなく大丈夫な気がしてたから、そこまで辛くなかったと思います。だから、そんな顔をしないでください」

 膝の上で握られた拳に自分の手のひらをそっと添える。赤い革手袋の上では病み上がりの青白さが際立ってしまって、もしかしたら余計だったかもしれない。けれどこの気持ちが伝わればいいと、ヒトハは切に願った。

「あ、起きてます?」
「わあっ」

 突然明るい声が飛び込んできて、ヒトハは慌てながら手を引っ込めた。いつの間にか正面から堂々と現れた学園長は「あれ? この流れ以前もやったような」と顎をさすっている。

「それはそうと、ご無事でなによりです! いやぁ、一時はどうなるかと!」

 大袈裟なまでの勢いに飲まれ、クルーウェルもヒトハも先ほどの重い空気をすっかり忘れて学園長を見上げた。まさかこの飄々とした性格がこんな所で活かされるとは。
 ヒトハは硬くなった口元を和らげた。

「ご心配をおかけしました。おかげさまで無事です」
「ええ、ええ、本当によかったです! とはいえ、まだ万全ではないでしょう。しばらく仕事のことは忘れて療養してくださいね」
「はい。ありがとうございます」

 学園長は満足そうに頷くと、クルーウェルと静かに目配せをして、険しい表情を浮かべた。

「病み上がりで申し訳ないのですが……。分かる範囲でいいので、何があったのか聞かせてもらえますか?」

 こうして彼が来たのは、当然見舞いのためだけではない。この事件の真相を明らかにするためでもある。
 ヒトハは二人の強い視線を感じながら、ゆっくりと目を覆った。
 何があったのか。それはヒトハ自身もまだはっきりと分かっていない。猛烈な苦しみがまだ濃く記憶に残っていて、倒れる前に起きたことが上手く思い出せないのだ。

「もしかしたら、正確ではないかもしれません。あの時私は――」

 ぐちゃぐちゃに散らかってしまった記憶を整理するように、ヒトハは少しずつ起きたことを言葉にした。
 昼食時に食堂の隅っこでリゾットを食べていたこと。そこにカリムとジャミルがやって来て、少しだけ会話したこと。スプーンを落とし、拾い上げた時――不気味な生徒が自分を見下ろしていたこと。そして最後に魔法薬と水を飲んだ直後に突然苦しくなって、ぱたりと倒れたのだ。
 それを伝えると、二人は顔を見合わせた。

「アジームか」

 クルーウェルはそう呟いて再び額を抑えた。

「お前ほど運のない奴は、学園中探してもいないだろうな」
「え?」

 二人は同じ結論に至ったらしく、混乱するヒトハに衝撃的な事実を伝えた。

「つまりお前は、アジームに盛られるはずだった毒をうっかり飲んでしまったというわけだ」
「は?」

 学園長が畳み掛けるように「もしかして呪いにかかってます?」と冗談なのか本気なのか分からないようなことを聞いてきて、ヒトハは声も出せないまま緩やかに首を振った。もちろん、横にだ。

「待ってください。この学園は部外者の侵入に関しては厳しく――あっ」

 言いながら嫌な結論を導き出してしまい、ヒトハは口を閉ざした。
 ナイトレイブンカレッジは人の出入りに関しては相当厳しい管理がなされている。職員はもちろんのこと、生徒は事前の許可がなければ出ることも叶わない。特別に学園が解放されるイベントを除き、部外者が学園に侵入することはほぼ不可能に近いことだった。つまりヒトハが遭遇したあの生徒は、この学園への入学を許された“正式な生徒である”ということになる。

「生徒が生徒を……」

 眩暈がする。生徒が生徒を狙い、毒を盛ったのだ。人を苦しめて死に至らしめる毒を。まさかいたずらのつもりでもないだろう。
 ヒトハはジャミルとカリムが事もなげに口にしていた言葉を思い出した。『何があるか分からない』『ジャミルの作ったものしか食べない』。それはつまり、こういったことが以前にも起きて、これからも起きるかもしれないと事前に警戒していたからに他ならない。
 学園長は言葉をなくすヒトハに、複雑な事情も含めて彼らの現状を伝えた。
 富豪の長男に生まれたカリムは、大勢の弟妹の中で起きる後継者争いによって何度も危険に晒されてきたのだという。その危険には当然毒薬も含まれる。カリムはヒトハと似た経験を幾度となく繰り返した結果、口にするものは絶対に安全だと思えるものだけとなってしまった。つまり信用のおける従者である、ジャミルの作ったものだ。彼らはこの学園に来てからは一度も刺客に狙われることはなかったと言うが、それが経験による予防が功を奏したからなのか、たまたま今回が初めてなのか、今となっては誰にも分からないことだった。
 しかしもしこの機会をずっと狙っていたのだとしたら、今回の魔法薬と水を前にしたカリムの状況は、犯人にとっては千載一遇のチャンスだったに違いない。従者のジャミルの姿はなく、二人の視線はテーブルの下にあり、食堂の隅は死角が多い。結果的に無関係なヒトハが被害に遭う羽目になり、クルーウェルの魔法薬で死を免れているのだから大失敗もいいところだが。
 こうして何が起きたのかを理解し始めると、ヒトハの心に強い怒りが芽生え始めた。

「子供に毒を盛るなんて」

 少なくとも、ヒトハの生きてきた世界では絶対に許されないことである。たとえどんな事情があろうとも、あってはならない。その上、犯人が彼と同じ年頃の子供であるということが、ヒトハの心に重くのしかかった。
 もしも犯人を捕まえるようなことになれば、当然裁かれるのだ。たとえそれが大人たちの思惑によるものであったとしても。

「とは言っても全て憶測です。ひとまずこれは調査しなければなりませんね」

 あぁ頭が痛い、と学園長は頭を抱えた。
 まだ全てが憶測である以上、これから調査をして事を明らかにしていくのだろう。当然、被害者であるヒトハはこれに巻き込まれていくことになる。
 いつになったら平穏な学園生活が訪れるのだろう、と遠い目をしているヒトハに、クルーウェルは更なる追い打ちをかけた。

「それで、だ。生徒たちの混乱を抑えるためにお前は今、魔法薬と間違えて毒薬を飲んだことになっている」
「……え? そんな馬鹿な人います?」
「いるんだ。ここに」

 クルーウェルが真剣な声で言い、ヒトハはぎこちなく頷いた。それはあまりにも間抜けな話ではあるが、現状その嘘がまかり通っているらしい。あの人ならやる、という大変不名誉な形で広がったとのことなので、回復したら普段の素行を見直す必要があるのかもしれない。

「そうそう、犯人の顔ですが、見たんですよね?」

 学園長の確かめるような問いに、ヒトハは自信なさげに頷いた。

「え、ええ。でも、はっきりと覚えてはいないんです。もしかしたら、見れば思い出すかもしれませんが……」
「そうですか……。分かりました。あまり長居しても悪いでしょうから、今日はここまでにしましょう」

 ヒトハはほっと息を吐いた。いくら起き上がるほどの体力が戻っているとはいえ、重い倦怠感を抱えたままであることに変わりはない。
 学園長は「お大事に」と言い残してすぐに立ち去った。しかしクルーウェルは未だ難しい顔をしてこの場に残っている。

「お前は確かに犯人の顔を見たんだな」
「え、ええ……」

 そしてしばらく押し黙り、彼は何かを言いあぐねているようだった。ヒトハはその様子を見て、どうしようもない不安に襲われた。いつも自信に溢れて喋る彼がこうも悩んでいる。いいことのはずがない。
 静かな保健室に、遠くから生徒の声が聞こえる。なぜか今は、それがとても不吉なもののように思えた。

「せんせ――」
「ナガツキ」

 沈黙に耐えかねたヒトハの声を遮り、クルーウェルは一度意を決したように口を開く。しかし途中で思い直したのか、ため息混じりに「いや」と打ち消すと、ヒトハの肩に手を置いた。

「完治まで絶対安静だ。しばらくはここでお利口にしていろ。いいな」
「は、はい……」

 彼は「いい子だ」と子供にするようにヒトハの頭を撫でると、さっと立ち上がった。

「また来る」

 そう言い残して立ち去る背を、ヒトハはぼんやりと眺めながら頭をさすった。子供じゃあるまいし、と不貞腐れながら、触れられた所が熱を持っているような気がして落ち着かない。

(先生、何を言おうとしてたんだろ……)

 ヒトハは寝癖がついて絡まった髪を指で梳きながら考えた。一瞬陰りを見せたあの目。何を言いかけて、やめたのか。
 知りたい。けれど、もしかしたら知らない方がいいのかもしれない……
 ヒトハは好奇心にそっと蓋をして、ずるずると再びベッドに沈んだ。保健室の窓から冷たい風が吹き込む。白いカーテンから覗く空には、厚い雲がかかり始めていた。

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