魔法学校の清掃員さん

17-01 清掃員さんとホリデー

「いいものをやろう」
「なんです、これ?」

 夕日が差し込む魔法薬学室の片隅で、ヒトハは目の前に置かれた瓶を見た。オレンジの光で薄く照らされてはいるが、はっきりと見て取れる澄んだ緑色。この教師が「いいもの」だと言ってまともだった試しはなく、恐らく今回もそうなのだろう。
 ヒトハはそれに手を伸ばしたが、結局は触れることすらなかった。もうずいぶん日は暮れてきたというのに、教室に明かりは灯っていない。その偏屈な教師の胸から上が陰っていて、眼鏡だけが怪しく光っていた。

「いらないのか?」
「いるもなにも、なんですか、これ?」

 ヒトハはもう一度強く問いただしたが、「これがあれば大学に受かるかもしれないのにな」と明後日の回答である。けれどもそれで大体のことを察して、ヒトハは眉を寄せた。

「先生にはたくさんお世話になってますけど、こういうのは嫌いです。先生だって知っているでしょう?」
「そうだな。お前ならそう言うと思っていた」

 その教師は「頑固だからなぁ」と笑う。

「今は必要なくとも、いつか必要になる日が来るかもしれない。こういう選択肢があることは覚えておきなさい」

 そう言いながら瓶を引っ込める。ヒトハはそれに応えることはなかった。

「もし望む道に行けたとしても、行けなかったとしても、お前はお前の正しいと思う道を選びなさい。いつか落ち着く場所にたどり着くだろうから」
「なんです? 藪から棒に。先生って占いとか得意でしたっけ?」

 わっと大きな笑い声が上がる。いかにも学者然とした彼にしては珍しい。

「言っていなかったか? 実はね、魔法薬学の次に得意だよ」

 ヒトハは首元に寒さを感じて、毛布を手繰り寄せた。体は温かいのに首から上が冷えている。いかにこのナイトレイブンカレッジの空調が優秀であっても、この厳しい寒さには敵わないらしい。

(懐かしい夢を見てしまった……)

 早朝の薄暗さの中、ヒトハはすっかり冴えた目を瞬いた。もう二度寝は叶いそうにない。
 もう一度夢を見ることを諦めて体を起こし、冷たい床に足を下ろす。寝起きの覚束ない足で窓際に寄り、カーテンを開いた。おもむろに袖で結露を拭い外を見たが、校舎は明かりを灯したまま眠りの最中である。

「今日で終わりかぁ……」

 誰に言うわけでもない独り言だったが、その言葉は冷えた身体にゆっくりと突き刺さるようだった。
 ナイトレイブンカレッジは今日からウィンターホリデーに入る。この学園の喧騒とはしばらくお別れなのだと思うと、少し寂しかった。

 生徒も教職員も長期の休暇に入るウィンターホリデー。その間ナイトレイブンカレッジは最低限の機能を残して運営が続けられる。図書館、食堂、購買、そして衛生を管理する清掃。さまざまな事情により故郷に帰らない生徒たちのために、学園が完全な休みに入ることはない。
 本来であればヒトハもウィンターホリデー期間の仕事を続けるはずだったが、今回“生きた人間である”という奇妙な理由で休暇を獲得することになった。ゴーストである同僚や先輩たちは特別な理由があって学園から離れない限り、通常の業務を行うのだという。休まなくてもいいのかと聞いたら、彼らはいつものことだと笑っていた。

「いいホリデーを」

 その日は午前中から大勢の生徒たちが大荷物を抱えて廊下を行き交っていた。学問から離れられる喜びか、はたまた家に帰れる喜びか、どこか浮ついた様子だ。
 ヒトハは知り合いの生徒たちが通りかかるたびにそう声を掛けられて、同じような言葉を返した。思ったよりもその頻度が高く、知らぬ間に多くの生徒と知り合ったのだとしみじみとしてしまう。それでまた寂しさが増してしまったのだが、なにも今生の別れというわけでもない。ヒトハは「またすぐに会える」と何度も自分に言い聞かせて気を紛らわせては、やっぱり寂しさを感じてしまったのだった。
 生徒たちの移動が終わってからは職員たちが休暇に入るべく移動を始める。ヒトハは事前に約束していた通り、午後になると魔法薬学室へ向かった。いつもの制服にいつものコートを羽織り、ちらほらと雪が舞い始めた学園を歩く。昼間だというのに生徒の声が聞こえてこないのは奇妙な感覚だった。
 魔法薬学室の扉を開くとすでにクルーウェルがいて、なにやら荷物を纏めている様子である。当然ながら彼も休暇に入り、学園から一時去るのだ。

「来たか」
「こんにちは。先生も帰る準備ですか?」
「まぁな」

 言いながら手に付いた埃を叩き落とす。目の前の机には埃を被った本がいくつか纏められていた。クルーウェルはヒトハを呼び寄せると、魔法薬の瓶を三つほど机に置いた。

「休暇中の魔法薬を調合してある。問題はないと思うが、異臭がしたら飲むのはやめておけ」
「常に異臭しかしていないんですが……?」

 クルーウェルは「それもそうだ」と面白そうに笑ったが、こっちからしてみれば死活問題である。ヒトハは全部正常であることを祈ってその瓶を受け取った。予備を含めてだが、大体一週間に一本だ。つまりこれだけの間、彼に会うことはない。週に一度のペースで必ず会っていたことを考えると、なんだか生活の一部が欠けるような気がした。

「お前は帰らないのか? 確か故郷は極東にあるんだったか」
「ええ、今回は帰らない予定です」
「せっかく鏡の使用許可が下りているんだから帰ればいいものを。家族とは会わなくていいのか」

 そうなんですけど、とヒトハはまごついた。実はこの両手の問題に関して、まだ家族に報告をしていない。いきなり見せても心臓に悪いのではないか――というのは都合のいい理由で、本当は泣かれたりするんじゃないかと思うと怖かった。それなら多少治ってから教えたいと思いながら、今の今まで言えずじまいだ。結局、自分が納得いくほど良くなってはおらず、今年は仕事が忙しいのだと嘘をついて学園に留まることにした。
 嫌なことから逃げているだけだ。自覚をしているから、彼の前でそんなみっともない理由を口にするわけにはいかなかった。

「私の国の文化では恋人と過ごしたりする時期でもあったりするので、無理に家族に会いに帰る必要はないんですよね。落ち着いたら帰ろうかと」
「そうか……お前に恋人がいないのはよく分かった」
「うっ」

 面白そうに笑うクルーウェルに、ヒトハは「そっちこそどうなんですか」と問い詰めてやろうと口を開きかけた。しかし途中で思い直して、言葉にできずに閉じてしまう。
 この長いホリデー期間に彼は一体誰と過ごすのだろう。興味はあったが、知りたいとは思えなかった。

「とっ、ともかく! 私はここで皆さんの帰りを待っていますので!」

 むきになって声を荒げるヒトハの前に、クルーウェルは笑いながら机の端に置いてあった植木鉢を差し出した。片手で掴めるほどには小ぶりで、これといって特徴もない植物が植えられている。ほのかに変わった匂いがするので、薬草の類かもしれない。

「なんですか、それ?」
「調合に使用する薬草だ。一日一回の水やりと、微量の魔力を朝と夜の二回与えなければならない。繊細だから持って帰ろうかと思ったが――せっかくだ、お前に任せる」

 言われるがままに受け取った植木鉢は、その見た目の通り軽い。任せるとまで言われて断る理由もなく、ヒトハはそれを引き受けることにした。

「寂しいからって泣くなよ?」
「なっ、泣きませんし! 先生こそ、休暇中私に会いたくなったって知りませんからね!」

 クルーウェルはひとしきり笑ったあと、からかい半分で「そうだな」と返した。その余裕が憎たらしく、ヒトハは結局、歯噛みすることくらいしかできなかった。

 こうして、今年のウィンターホリデーは驚くほど呆気なくスタートした。
 今まで年末ぎりぎりまで会社に缶詰めだったことを考えると、とても平和で、ある意味退屈である。なにせ年末の正しい過ごし方というのをすっかり忘れてしまって、何をすればいいのか分からない。やることといえば料理の練習をしてみたり、クルーウェルから預かった薬草の世話をしたり、セベクから借りた本を読んだりするくらいのものだ。
 残りは気まぐれに学園を散策することに費やした。いつも生徒で溢れている学園はひどく静かで、別の場所に来たかのような錯覚に陥る。ただ、学園といいながらも校舎は城そのもののような造りをしているから、観光気分で歩き回るのは楽しかった。高すぎる天井を見上げ、その意匠の細かさをじっくりと観察する機会はそうあるものではない。
 そうやって散策している最中に仕事をしている先輩たちに遭遇するのは忍びなかったが、彼らは生徒や教師がいないのをいいことに、ヒトハに隠し通路や使われていない小部屋を案内することを楽しみにしていた。ゴーストにも古参と新参がいるらしく、ひとたび知識自慢が始まれば膨大な量の話を聴く羽目になる。話は学園の七不思議に始まり、学園にある不思議な魔法道具、禁書、ちょっとした近道まで多岐に渡った。ホリデーが終わる頃には、生者の中で学園一の雑学博士になっているに違いない。
 とりわけ印象に残ったのは、先輩が案内してくれた〈忘れ去られた通路〉だった。それは校舎の隅の隅、石造りの古びた階段を上った先というあまりに辺鄙な場所にある。掃除も行き届いておらず、仕事でも訪れたことがない場所だ。この通路には物置のように使われない机や椅子が適当に放置されている。行き止まりの手前には大きな両開きの窓があったが、ずいぶん前から開かれていないのか、錆びついてヒトハの力ではびくともしなかった。
 しかしくすんだ窓ガラスの先に見えるのは絶景で、麓の街の温かな光の上に立つ白亜の城――ロイヤルソードアカデミーの美しさを味わうには、ここより優れた場所はないように思えた。惜しむらくは、この窓が開かず、曇った姿しか見えないことだろう。
 「いつか掃除したいんだけどね」と先輩は言っていたが、彼らのいつかは百年単位のような気がするので、ヒトハは「その掃除には参加できないかもしれない」とぼんやりと思ったのだった。

「――あれ?」

 ホリデーに入って数日経った頃、ヒトハは薬草の異変に気が付いて水やりの手を止めた。昨日はピンと上に伸びていた葉が力なく垂れている。言われた通りに世話をしてきたはずだったが、何かがいけなかったらしい。

「図書館にでも行こうかな……」

 スマホで調べてもよかったが、時間を持て余していたこともあって図書館へ足が向いた。まずは名前を聞き忘れた薬草の正体から知らなければならない。実物があった方がいいだろうと植木鉢を抱えて外に出ると、不思議とひとりではないような気がした。物言わぬ植物だが、知らぬ間に愛着が湧いていたらしい。
 図書館に居残っていた司書はヒトハが小脇に抱えた植木鉢を見て不思議そうにしていたが、幸いにも何も言及することはなかった。

「あれ? ヒトハさん」
「ヒトハさんも居残り?」
「なにそれ?」

 ウィンターホリデーのナイトレイブンカレッジは居残った生徒たちのために最低限の機能を果たしている。図書館もそのひとつで、そして今日は偶然にも先客がいた。この膨大な蔵書を誇る図書館にいたのはたった三人の生徒――忘れもしない、モストロ・ラウンジでバイトをしていた時のバイト仲間たちである。
 彼らはヒトハが図書館に入って来ると、勉強をしていた手を止めてわらわらと集まってきた。当然小脇に抱えた薬草が気になって、まじまじと眺める。触ろうとしないのは素手で触ってはいけない類の薬草があることを知っているからだ。

「この子の調子が悪くて。原因を調べに来たんですけど」
「これ、なんて薬草?」
「実は聞き忘れちゃって……」

 三人はその薬草が何なのかを推測しようとしてあれこれと口にしたが、最終的に

「分からない」と匙を投げた。
「調べるなら手伝うけど」

 三人のうち一人がそう言い出して、ヒトハは幸運にも三人分の戦力を手に入れた。
 四人は各々植物図鑑から魔法薬学の本まで持ち寄り、似た形の植物を探すことから始めた。これといって特徴もない植物だったこともあって難航したが、最終的にはそれらしきものを見つけ、さらに紐解き、単なる栄養不足という結論に至る。あまりにもシンプルな原因に全員で拍子抜けしたが、ともかく栄養剤なるものを与えればいいのだという。

「せっかくだし街に行ってみましょうかね」

 ヒトハは分厚い本を閉じて三人にそう告げた。
 午後になってしばらく経つが、目的ははっきりしているから夜までには帰ってこれるはずだ。それを聞いて三人は口を揃えて「お土産」と言い出したので、まったくオクタヴィネル寮の寮生は抜け目がない。“慈悲の精神”ではなく“ちゃっかり者の精神”にでも変えた方がいいのではないか。
 ヒトハは三人にお菓子くらいならと約束して、街に向かうべく席を立った。

 ヒトハはナイトレイブンカレッジで働き始めてからというもの、一度も麓の街に降りたことがない。特に深い理由があったわけではなく、単に用がなかったのと、通販や購買部で大体のものは賄えたからだ。だから街に立ち並ぶ建物が故郷と異なってレンガ造りが多かったり、石畳の道が続いていることが珍しく、つい街の光景に目移りしてしまう。小ぢんまりとしたカフェも、洒落た魔法道具店も、見かければ気になってしまうものだ。
 ヒトハはしばらくの散策の後、店外に薬草が吊るされている怪しい店の前で足を止めた。こういう店は大抵の場合、魔法薬に関する商品を扱っている。学生時代はよく世話になったものだが、大人になってからは訪れる機会もなかった。
 ヒトハは凝った鉄製の取っ手に手をかけ、扉を押し開けた。店の奥から嗅ぎ慣れたような草の匂いが漂ってくる。物静かな店内に頭上まで所せましと陳列された薬草のほとんどは、魔法薬学室とは違って加工済みの商品だ。木製の戸棚に並ぶ瓶は魔法薬か素材の液体だろうか。その中から目当ての物を見つけて手に取り、ヒトハはついでに隣の棚に目を滑らせた。
 薄暗い店内でもはっきりと見て取れる澄んだ緑色。ヒトハは見覚えのある魔法薬に思わず手を伸ばし、寸前のところで止めた。その魔法薬の値札に書かれた数字の桁があまりに違いすぎて、手にするのを躊躇してしまったのだ。うっかり手を滑らせて割りでもしたら、しばらくは極貧生活を余儀なくされることだろう。
 魔法薬は程度の差はあれど決して安いものではない。クルーウェルは当たり前のように魔法薬を調合して提供してくれるが、こうやって商品として目の当たりにした時、それがいかに貴重なもので、手間がかかっているものかを思い知らされる。

(先生、どうしてるかな……)

 まだ数日しか経っていないというのに、思い出したかのように寂しさが心の隙間に忍び寄ってくる。極東で働いていた頃はひとりで過ごすことに寂しさを感じることなんてなかった。それがどうして遠くないうちに会える人に会いたいと思うようになってしまったのだろう。
 栄養剤を入手して再び外に出た時、ヒトハには街中の光景が少し違って見えた。ウィンターホリデーに浮きたつ街を楽しげに行き交う恋人たちや家族。温かな色の街灯、立ち並ぶ店のディスプレイはどれも鮮やかに彩られている。その隙間を縫うように歩いていると、この世界でひとりぼっちになってしまったかのような気分になるのだ。

「……ホリデーカード、忘れてた」

 ヒトハは何気なく目にした雑貨店の前で再び足を止めて呟いた。
 この文化圏ではホリデーカードなるものが主流なのだという。日頃の感謝を伝えるグリーティングカードの一種らしく、今年はセベクを始め何人かと送る話をしていたので、準備をしなければならない。基本的には年内に送るようだが、その期限はもうすぐそこに迫っていた。明日までに出してしまえば一番遠い所でもなんとか届くだろうと見込んで、ヒトハは雑貨屋の扉を開いた。

「うーん」

 時期的なものだろうか。カードは思っていたよりずっと種類が豊富で、ヒトハは棚の前で唸った。可愛らしいのもいいし、シンプルで大人っぽいのもいい。けれど、どうせなら贈る相手が好みそうなものにしようと決めて数枚選ぶ。
 こんな風に彼らもカードを選んでくれているのだろうか。
 ホリデーを故郷で過ごしているであろう友人や生徒たちの姿を思い描きながら選んでいると、胸に巣食っていた寂しさは少しずつ紛れていった。
 ヒトハは最後に、セベクに彼らしいお堅くシンプルなカードを選んだ。

(いや、おもしろくない)

 ふふっ、と笑みがこぼれる。途中で思い直して可愛い熊を選んだのは、再会した時の反応が見たかったからだ。きっといい話題になってくれることだろう。
 ヒトハはその時、隣の棚に黒地のカードを見つけて手に取った。銀色のあしらいが入ったシンプルなカードだが、質の良さのせいか他のカードよりもいくらかお高い。お高くとまっている、とまったく可愛げのないことを思いながらもどうにも手放せず、結局それも一緒に買って帰ることにしたのだった。
 雑貨店から出ると外はもうすっかり暗くなり、雲の張った夜空から小さな雪がぽつぽつと降っている。心なしかお腹も空いているし、今日はよく動いて疲れてしまった。

(早く学園に帰らなきゃ)

 咄嗟に浮かんだのが“家”ではなく“学園”だったことに気が付いて、ヒトハは人知れず微笑んだ。早く学園に帰ろう。今はみんないなくなっているけれど、そこが自分にとって大切な家で、大事な生徒や友人たちが戻って来る場所で、そして彼が戻って来る場所だから。

 ちなみにこの日、お土産を買い忘れてオクタヴィネル寮の三人にランチを奢る羽目になってしまったのだが、彼らは遠慮なく一番高いメニューを選んだ。ヒトハはやっぱり彼らには“ちゃっかり者の精神”が備わっているのだなと寒々しい財布を見ながら、ひとり痛感することになったのだった。

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