魔法学校の清掃員さん
14 清掃員さんと昼寝
(見渡す限りの落ち葉、掃けども掃けどもなくならず……)
ヒトハは欠伸を噛み殺しながら、無心で箒を動かしていた。セベクからお勧めしてもらった本を夜中まで読んでいたせいで、まだ昼間だというのに今にも目が潰れそうだ。
セベクはヒトハが『茨の谷の歴史』全五巻を読破したと知るやいなや、今度は難解な詩集を勧めてきた。曰く、こちらの方が軽い読み物らしいのだが、ヒトハには全く理解ができない代物だ。しかしあんなに嬉しそうな顔をして「ぜひ感想を聞かせてくれ!」と言われてしまったら読まないわけにはいかない。
結局、感想といえば「眠くなる」以外に思い付かず、いっそありのまま伝えようと決めたところで時計の針が深夜四時を指していた。
「ナガツキ」
「はい?」
箒を握りしめて静止していたところで不意に声を掛けられ、ヒトハは慌てて何事もなかったかのように取り繕った。
振り返ると、クルーウェルが相当苛立った様子で指揮棒をしきりに肩に叩きつけている。何か悪いことでもしてしまっただろうか、と一瞬思ったが、何をした覚えもない。
「キングスカラーを見かけたら俺の所に来るように言ってくれ」
自分のことではないらしいと知って、ヒトハはそっと胸を撫で下ろした。しかしこの様子を見るに、サバナクロー寮の寮長、レオナ・キングスカラーが相当やらかしているようだ。
とはいえ彼は癖のある寮長の中でも制御の利かないタイプである。見かけて声を掛ける程度でクルーウェルの元に行くかどうかは謎だが、ヒトハはとりあえず頷くことにした。
「分かりました。……あの、何かあったんですか?」
「あの駄犬、単位も危ういというのにサボりが過ぎる。徹底的に躾けてやりたいところだが捕まらんのでは意味がないだろう」
「な、なるほど」
ヒトハはクルーウェルの気迫に圧されながら、引き攣った笑みを浮かべた。校内のほとんどを清掃して回るヒトハがレオナに遭遇することは少なくはない。いろいろ大丈夫なのだろうかと心配はしていたが、いよいよ単位が危ういらしい。思い当たる場所がないわけではないが、しかしこれだけ立腹のクルーウェルといきなり引き合わせるのは気が引ける。
ヒトハはちょっとした老婆心で、知らないふりをしながら思い当たる場所へ向かった。
「おーい、レオナくん」
木々も草花も冬模様に切り替わり、色褪せていく中でもこの植物園だけは例外だ。緑豊かな植物園の温室をとぼとぼと歩きながら、ヒトハはレオナの名前を呼んだ。年中室温が管理されている温室は暖かく、冬の厚着をしている身としては暑すぎるくらいだが、生徒の昼寝であれば話は別である。こういう日は間違いなくここにいる、という確信があった。
「こら」
体を覆うほどの大きな葉を手で払いながら覗き込むと、案の定レオナが寝転がっている。ずいぶん前から気が付いていたのか、冷ややかな目が向けられてヒトハは眉を寄せた。
「クルーウェル先生が探していましたよ。単位が危ういらしいじゃないですか」
「飼い主のお遣いか? 精が出るな」
「またそういうことを……」
いつもの邪険な扱いに、ヒトハはもはや呆れる素振りを隠しもしなかった。
この学園に勤めて間もない頃、廊下で舌打ちをくらった時には「怖い生徒がいる」と怯えたものだが、レオナは実際のところ、そこまで怖い生徒ではない。尾を踏みさえしなければ噛みついてくることもないし、無秩序を極めたナイトレイブンカレッジ名物の不良学生たちよりはずっと理性的だ。しかしその反面、肝が座りすぎているところに難がある。多少の小言は小言で返し、涼しい顔をしながらヒトハの忠告を聞いた試しがない。
(もう少し素直な子だったらなぁ……)
レオナは大抵のことをそつなくこなす。その上、部活も勉強も平均以上を優に叩き出す非常に優秀な生徒だ。それはクルーウェルも、ヒトハですらも同じ認識で、だからこそ出席日数で進級を逃すにはあまりにも惜しい。
口うるさく言ったところで聞くような生徒ではないのは分かっていたが、ヒトハはレオナのそばで膝を折った。
「先生はレオナくんのことを思って言ってくれているんです。言われてるうちが華なんですから、先生の言うことはよく聞いて……ちょっと、聞いてます?」
ヒトハのありがたい説教を聞き流し、気が付けばレオナはころりと背を向けて居眠りを再開している。面倒で何も聞きたくない時は毎回こうだ。しかしクルーウェルに頼まれた手前、ヒトハもそう簡単に引き下がるわけにはいかなかった。
「ほら、行きますよ」
と、手にしていた箒を投げ出してレオナを揺すったり引っ張ってみたりしたが、案の定びくともしない。まず体格差がありすぎるので無理。魔法を使うのも寮長クラスに勝てるはずがないので無理だ。
ほとほと困り果てて「大きい子供……」と呟いたところで、レオナはやっと振り返ったのだった。
「お前とそんなに変わんねぇだろ」
「はぁ? 私、二十は超えてますけど! 大人ですけど!」
「二十だ」
「誰が?」
「俺が」
レオナが小馬鹿にするように鼻で笑い、ヒトハはあまりの衝撃に掴んでいた腕を落とした。
ナイトレイブンカレッジの生徒は多種多様ではあれども、大体はヒトハの故郷――極東の国の人間よりはずいぶんと大人びて見える。だからレオナも当然そうだと思っていたのだが、単純に年齢が高いのは想定外だった。
「は? 二十歳? ええと、三年生が十八歳だから……すでにダブってる!? ど、どんだけ学園に居座る気ですか!?」
さらなる衝撃にヒトハは悲鳴を上げた。
魔法士養成学校において留年は珍しいことではない。しかしレオナは決して勉強ができないわけではないのだ。ということはつまり、勉強以外の何かが要因となっているわけで。もしかすると今年も同じ轍を踏む可能性も無きにしも非ずというわけで。
「やっぱり単位をちゃんともらって進級しましょう! せっかく素質があるのに勿体無いですよ! ほら、先生の所には私も一緒に行ってあげますから!」
「うるせぇ」
レオナの厚い肩を揺さぶり、ヒトハが熱く言えば言うほど彼は鬱陶しそうな態度を強くした。このままでは埒が明かない。
「はぁ、もういいです」
いっそクルーウェルに迎えに来てもらおう。そう思って立ち上がろうとした時に限ってレオナは「いや、待て」と腕を掴んでヒトハを引き留めた。そして名案を思いついたかのように口の端を吊り上げる。
「お前、うちの部活から競技用の箒を持って行ったらしいな?」
「箒? え、ええ、故障して墜落しましたけど」
「は? 墜落?」
レオナはそれを聞くなり目を見開いたかと思うと、肩を揺らしながら笑い始めた。
「――最高だな!」
「最低の間違いでは……?」
ヒトハの思いっきり嫌そうな顔と嫌味な反論に煽られるかのように、レオナの笑いは大きくなった。そしてしばらく笑い続けた後、声に余韻を残しながらも衝撃的な事実を口にしたのだった。
「ラギーのやつが『箒を間違えて渡したけど大丈夫そうだった』とかなんとか言ってたが、まさかそんなことになってたとはな」
「あっ、あれ、取り違えてたんですか!?」
何かおかしいとは思っていたのだ。整備済みにせよ、そうでないにせよ、そんな墜落の可能性があるような古い箒をバルガスが手配するはずがない。だがまさか、間違えられていたとは思わなかった。とはいえ、今更ラギーを責めるわけにもいかない。
「はぁ。もう過ぎたことだからいいですけど。可哀想だし、この話は墓まで持っていきます……」
ヒトハは大きくため息をつきながら、レオナの隣にどっと座り込んだ。これはセベクの耳にも――当然、クルーウェルの耳にも入らないようにしなければ。迂闊に知られてはサバナクロー寮が大炎上しかねない。
「お前、思ってたより肝が据わってるよな。最近生徒を“躾けた”らしいじゃねぇか」
「躾……? あーっ! どこからその話を!?」
躾、といえばあの曇天の日のことである。生徒に果敢に挑んで反撃に遭い、クルーウェルに救われた日。そして彼に防衛魔法を叩き込まれるきっかけになった日。あの時、居合わせたのは当事者たち三名と、あとは教師くらいのものだったはずだ。
(毎回毎回どこから……!)
恐るべしナイトレイブンカレッジ。孤島に建った全寮制の学園であるせいか、情報の回り方が違う。みんな暇なのかもしれない。
ヒトハは顔を熱くしながら捲くし立てた。
「あれくらいならなんとかなると思ってたんです! 私、そこそこ経験ありますし!」
「ほう?」
いつの間にかレオナは体を起こして興味深そうにしている。それで? と続きを目で促されて、ヒトハは渋々続けた。
「だってほら、私みたいな魔力の少ない人って本来なら魔法士養成学校とか行きませんし。みんなと違うとやっぱり爪弾きにされるじゃないですか。私なんかそれはもう学生時代は格好の餌食でしたよ」
「だろうな」
ヒトハが話をしている間、レオナはひどく淡々としていた。ちゃんと話を聞いているのか疑ったものの、彼の目は確かにこちらを向いている。そんなに多くを語ったわけでもないのに、それは何もかもを知り尽くしたような目だった。
もしかしたら彼にも近いことがあったのかもしれない。そう思いながら、ヒトハは興奮しかけた気持ちが急に冷めていくのを感じて膝を抱えた。
「負けたくないから勝つために色々してきましたし、今回もできるかなって思ったんです」
「ふぅん、たとえば?」
ヒトハは手元に目を落として「うーん」と唸った。
「そうですねぇ……魔法薬はよくしてくれる先生がいたので使ってましたね。魔法道具とかもたまに。あとは逃げるのも得意です。逃げるが勝ち、って言いますし」
「はっ、なかなか愉快なことしてんじゃねぇか」
「ふふん、弱い者なりの戦い方ってやつです」
レオナは「悪くねぇな」と笑った。どうやら回答がお気に召したらしい。釣られてヒトハも口元に小さく笑みを浮かべた。
「まぁでも、久しぶりにああやって向き合うと怖くて情けないことになっちゃいましたけど。向いてないんですよね、多分」
言葉にしてみると、意外にもその事実はすんなりと受け入れられた。今までそんなことを思ったことは一度だってなかったのに、まるで最初からそう思っていたかのように口に馴染むのだ。向いていない――たしかにそうだ。学校をなんとしてでも卒業するためにやっていただけで、それがたまたま上手くこなせていただけだ。
「そんな目に遭ってまで努力する意味あったのか?」
レオナは相変わらず鼻で笑った。彼の言葉には憐れみも同情もない。だからきっと、こうも口が滑ってしまうのだろう。
最近どこかで聞いたような質問に、ヒトハは今度こそ胸を張った。
「ありましたよ。途中で諦めて学校を辞めていたらここにはいなかったですし、レオナくんとこうして話すこともなかったでしょう?」
「クルーウェルとも会えなかったしな」
「そうそ――いや、何言わせるんですか!? やめてください! あなたたちはもう、油断したらすぐそういうことを言う……!」
ヒトハは力任せにレオナの肩を叩いた。ぺしり、と間抜けな音が鳴って、彼はまた肩を震わせて笑った。
最近生徒たちの変な勘繰りが酷くなっているような気がする。訂正しようとすればするほど火に油を注いでいる気がしないでもないが、大人として間違いはなんとしてでも正さなければならない。
ヒトハは軽く咳ばらいをして正座をし、居住まいを正した。
「いいですか、いくらレオナくんが二十歳でも私の方が先輩なんですから、年上の言うことはよく聞いて……聞いてないですね……」
レオナはもう飽きたのか、そっぽを向いて昼寝を再開している。
ヒトハはなにもかもの気力をなくして小さく息を吐くと、近くの木の幹に背を凭れさせた。室内の温かさと眠気で頭がぼんやりとしてくる。相変わらず瞼は重いし、疲れたし、レオナは言うことを聞かなくて単位が危ない。そのどれもが、もう自分ではどうすることもできなかった。
「……思い返せば、この学園に来るまで必死に頑張ってきましたけど、楽しくはなかったんですよね。ずっと気が抜けないままだったので、今になってやっと安心して休めるというか、肩の荷が降りたというか」
夢現の頭に残ったものをゆっくりと吐き出しながら、ヒトハは微笑んだ。
「レオナくんは笑って学園生活を終えられるように願っていますよ」
***
「――あ」
「ようやくお目覚めのようだな」
「まさか私、寝てました?」
次に意識が浮上した時、ヒトハの頭はやたらスッキリと冴えていた。結構な時間を寝て過ごしたのだろう。あれだけしつこかった眠気がひとつも残っていない。
相変わらずレオナはヒトハの近くに座り込んでいて、獣人属特有の犬歯をちらつかせながら笑みを浮かべている。
「お前、面白過ぎるだろ。俺に説教しながら眠そうにしてると思ったら本当に寝るとはな」
「なっ、えっ!? 起こしてくださいよ!」
と言いながら、彼がわざわざ起こしてくれるような人ではないことを思い出して、ヒトハは呻きながら顔を覆った。
「で、このバッドボーイ……と愚かな駄犬は二匹仲良く居眠りをしていたわけか」
「げ」
さらに悪いことに、ヒトハに頼みごとをした張本人も目の前にいるのだから、もはや手に負えない。
顔を覆った手をそろそろと動かしながら見上げると、クルーウェルが植物園に来る前と全く同じように、苛立った様子で二人を見下ろしていた。ふと“クルーウェル先生を怒らせると泣いて伏せするまで躾をする”という物騒な噂が頭をよぎる。
ぶるぶると震え始めたヒトハの隣でレオナは一切の動揺も怯えも見せず、余裕たっぷりに鼻で笑った。
「ああ、そうだな。おいヒトハ、なかなか可愛らしい寝顔だったじゃねぇか」
「はぁ!? み、見たんですか……!?」
「そこら辺に転がってりゃ目に入るだろ」
「それはそうかもしれませんが! い、いえ、やっぱダメです!」
ヒトハは失礼極まりないレオナに猛抗議を始めた。彼は面白そうな顔をして話を聞き流すばかりだったが、こうでもしなければ腹の虫が治まらない。
この時、ヒトハの頭から目の前で絶賛ご立腹中の彼の存在がすっぽりと抜け落ちてしまっていた。
「キャンキャンと無駄吠えをするな!!」
温室を揺らすほどの怒号。ヒトハはあまりの迫力に息を呑んだ。クルーウェルの猛犬のごとく激しい怒りは完全にレオナの方を向いているのに、自分が叱られているような気がして心臓がどうにかなりそうだ。
「キングスカラー、貴様はふざけたことを言う前にやることがあるはずだが? それとも、単位をふいにしてまた留年をするつもりじゃないだろうな」
ヒュン、と白黒の指揮棒が空気を掻き切る。
「課題の毒薬と解毒薬の調合、今日中にきっちり完成するまで貴様に単位はやらん。分かったらさっさと行け!」
「めんどくせぇ……」
クルーウェルの有無を言わせない声に、レオナはついに立ち上がった。去り際に舌打ちまで残していく度胸はいっそ見習うべきかもしれない。
ひとり取り残されたヒトハはクルーウェルの視線がレオナに向いているのをいいことに、さっさと仕事に戻ろうと静かに立ち上がった。ひとつ片付けば次は自分の番だ。
そんな目論見も虚しく、クルーウェルは素早く振り返ると、苛立ちを残したままの声で「ナガツキ」と鋭く呼び止めたのだった。
「わ、分かりましたから、そんな目で見ないでください……。努力はしたんです。ええ、努力だけは」
たとえうっかりレオナと昼寝をしたことを咎められようとも、それだけは確かな事実である。一切言うことを聞いてはくれなかったが、伝えることは伝えた。無駄話に乗せられて時間稼ぎに加担してしまったことも、また確かだが。
クルーウェルはヒトハの前で指揮棒を手のひらに叩きつけながら言った。
「お前がそれなりに努力したのは信じよう。だが、無防備にもその辺で居眠りをするのは駄目だ」
想定していたところとまるで違う場所を突かれて、ヒトハは思わず「へ?」と間抜けな声を出した。
「どうしてですか?」
「つい最近、生徒から恨みを買う真似をしたのはどこのどいつだ?」
「…………私?」
じとりとした目が向けられる。彼は先日の件でヒトハが報復を受けるのではないかと心配をしているようだった。この頃は過保護になってきたような気がしていたが、どうやら気のせいではなかったらしい。
「でも、レオナくんがいたから大丈夫ですよ」
「そういうところが駄目だと言っているんだ。お前、いい加減男子校で働いている自覚を持ったらどうだ」
そう指摘されて、ヒトハはナイトレイブンカレッジが男子校だったことを思い出した。女性の職員もいないわけではないが、それでも男性がほとんどを占める学園だ。
そうしてヒトハは、クルーウェルが言わんとすることをなんとなく理解した。以前も触れられた“女性としての自覚”というやつだ。
「……どうした?」
「いえ、その、私、女の子扱いに慣れてなくて」
ヒトハの落ち着きない姿を見て、クルーウェルはちょっとだけ眉間に皺を寄せた。
「一体どんな環境で過ごしてきたんだ……」
クルーウェルの呆れたような声を聞きながら、ヒトハはレオナとの会話を思い出した。二人だけの内緒話だから、いくら相手がクルーウェルでも言うことはできない。意味ありげに笑うヒトハを、クルーウェルは探るように見つめている。
「ふふ、秘密です」
彼は気が付いているのだろうか。この学園に来るまでの間、決して愉快な毎日を送っていたわけではないということを。そして今、昔には得られなかったものをたくさん得て、存分に愉快な毎日を送っているということを。
ヒトハは放り出していた箒を拾い、怪訝そうな顔をしたままのクルーウェルを見上げた。
「それより先生、詩集の感想って何言えばいいんですか?」
「なんだそれは」
「いえ、実はですね」
温室の出口へ向かって自然と歩き出す。ヒトハはセベクに渡された難解すぎる詩集について語りながら、それに耳を傾ける男を見やった。
もしもあの時すべてを諦めていたら――今この手にあるものは何一つ得られなかった。仕事も、友人も、生徒たちとの関係も、この感情も。誰に何と言われようとも、きっとそこに意味はあった。得難いものを手にするためにあったのだ。
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