魔法学校の清掃員さん
13-01 清掃員さん、連行される
手袋をしていない手。指先から手首の先まで痛々しく傷痕の残った手。大きさはやや小さく、薄い甲から伸びる指はほっそりとした柔らかい曲線を描いている。一か所だけ関節辺りが無骨に盛り上がっているのは学生時代の名残だ。爪は短く、しかしよく磨かれていた。この十枚の爪は怪我をする前から何一つ変わっていない。見た目に対して感覚は充分に残っていて、今までと変わらない生活ができるくらいにはよく動く。しかしこの色――厳密にいうと、魔法薬で無理やり再生した副作用の色だけがどうしようもなく残ってしまった。
出勤初日にして不運にも手を溶かすという前代未聞の事故に見舞われたヒトハは、それからずっと人前では手袋をして過ごしてきた。幸いにもこの学園では革手袋を愛用している生徒が多く、この手袋も何ら違和感なく溶け込んでいる。人目を気にする必要がないのは幸運だった。
でも、とヒトハは思う。
一体いつまで続くのだろう。クルーウェルは定期的に薬を提供してくれるが、だからといって劇的に効いているというわけではない。それに、最近では変化もだんだんと乏しくなってきたような気がする。このところ彼の前で手袋を外して見せると、渋い顔をするようになってきたのがずっと気になっているのだ。
(先生に悪いな……)
ヒトハは校内にある木製のベンチで手のひらを広げながら、小さくため息をついた。
治りが遅いのは自分のせいではないと分かっていながら、どこか後ろめたい。長引けば長引くほど申し訳なさに苛まれ、迷惑に思われているのではないかという不安に追い詰められるのだ。
ふと開き切った指の間を冷たい風が通り抜ける。短い秋の終わりを思わせる乾いた風は心地よく、つい口元が緩んだ。いつも布に覆われているから、外の風を直接受けること自体が久しぶりだった。
ヒトハは通常、外で手袋を外すことはない。仕事中に目に入るとやっぱり憂鬱な気持ちになってしまうし、周りの目もそれなりに気になるからだ。しかし今日に限っては、人目を気にせず素手でいることが可能だった。ナイトレイブンカレッジは数週間後に期末試験を控え、生徒たちは対策に忙しいせいか放課後になると一斉に姿を消してしまうのだ。いつもなら生徒たちの行き交う中にあるベンチも、今日はぽつりと寂しく佇むだけだ。
同じくしていつも通りの日常に取り残されたヒトハは、仕事が終わって特にやることもなく、仕事着に箒を携えてベンチで物思いに耽っていた。しかし最近日暮れが恐ろしく早くなってきたことも考えると、そろそろ自室に帰らなければならない。
「こんにちは」
「わっ」
突然かけられた声に驚いて、咄嗟に手を引っ込める。
低く、物腰柔らかい声だ。その声の主を探して振り返ると、セベクをも凌ぐ高身長の生徒が二人、背後にそびえ立っていた。
(双子……?)
二人の容姿はアシンメトリーな髪型といい、その色合いといいよく似ていた。違いといえば、一人はとてもにこやかで制服をきっちりと着こなしていて、もう一人は気怠げで制服の着崩しがよく似合うことだろうか。
「何か用でしょうか?」
声をかけてきた方の生徒に恐る恐る答えると、「お困りのようでしたので」と心の中を読んだかのようなことを言ってくる。間違いではないが、かといって初対面でそれを言われるいわれはない。ヒトハは訝しんで答えを濁した。
「おふたりは……オクタヴィネル寮の?」
基本的に生徒たちは制服の色で寮の見分けがつく。青みがかった薄紫のベストはオクタヴィネル寮の証だ。先ほどからずっと笑みをたたえている生徒は落ち着いた顔持ちのまま、困ったように眉を少し下げた。
「これは失礼しました。僕はオクタヴィネル寮のジェイド・リーチと申します。彼はフロイド」
「よろしくねぇ」
「えっと、ヒトハ・ナガツキです」
そこですぐに思い出した。あの日、魔法薬学室でクルーウェルはなんと言っていたか。
『オクタヴィネルの寮長と副寮長、その兄弟とは絶対に関わり合いになるな』
確かそんな話だった。気になったのはその先で、
『アーシェングロットとリーチ兄弟だ。お前みたいなのは、特に駄目だ』
これである。
ヒトハはそのリーチ兄弟なる二人が目の前にいると気がついて、もやもやと曖昧だった要注意人物たちの顔がはっきりと分かったことに、少し感動した。
フロイドはともかく、ジェイドの方は何も聞かされていなければ善良な人に見える。その上、見た目にも品の良さが滲み出ているのだから、クルーウェルから親切に警告されていなければ、これほど警戒することはなかっただろう。
ヒトハは早く立ち去ってしまおうと両足に力を込めた。一体何が起きるのか分からないが、クルーウェルが駄目だと言うのなら、きっと駄目なのだ。彼は根拠も理由もなしに、そんなことを言う人ではない。
「ごめんなさい。私、戻らないと」
「え~、今日の仕事は終わったのに?」
立ち上がろうと腰を浮かせたところで、フロイドからそんな一言をかけられた。のんびりとしていながら有無を言わせない喋り方が、纏わり付いてくるようで居心地が悪い。
「そう警戒しないでください。お耳に入れたい話があるんです。ヒトハさんにとって、悪くない話だと思いますよ」
ジェイドは固まるヒトハを嗜めるように言った。
「いえ、ほんと、大丈夫なので」
絶対について行かないという意思を示しつつ立ち上がると、なんと今度は「まーまー」とフロイドの方が両肩を抑えてベンチに押し留めようとする。ヒトハは得体の知れない恐怖に、隣に立てかけていた箒を握りしめた。
「もう引きずっていけばよくね?」
「いけませんよ。大切なお客様です」
二人はヒトハを置いてけぼりにして物騒なことを話し合っていた。不穏なことを言い出すフロイドを微笑みながら嗜めるジェイドもなかなかに怖い。なるほどクルーウェルが“リーチ兄弟”と一括りにしていただけある。彼らは恐らく、違う方向に突き抜けた要注意人物なのだ。
ヒトハは彼らが引きずってまで自分を連れて行こうとする理由が気になって仕方がなかったが、かといってあえて口を挟む勇気もなかった。下手に何か言ってしまったら、足元を掬われて取り返しのつかないことになってしまうに違いない。
「ぜひ、お話だけでも」
「聞くだけならいーじゃん。嫌ならすぐ帰れるんだからさぁ」
「ええ、そうですね。お時間もそんなに取りません」
「ねぇ、はやくしよーよ」
ヒトハが黙って座り込んでいるのをいいことに、二人は畳み掛けるように言葉を浴びせてきた。無遠慮で、かつ巧みだ。執拗に焦らせてくるフロイドから逃げたら、にこやかに誘導してくるジェイドが立ち塞がり逃げ道を塞ぐ。
その結果、ヒトハの固い決意はぐるぐると引っ掻き回され、そして気が付いた時には連行されていたのだった。
(先生、ごめんなさい。私は悪い駄犬です)
これを知られたならば、相当な呆れ顔で見られるに違いない。ほら見たことか、この駄犬、俺の言うことを聞かないからだ。なんて言われるのが目に浮かぶ。
が、ヒトハは彼らに連行されつつも、クルーウェルに知られなければいいかとちょっと楽観視していた。要するに“お耳に入れたい話”を跳ね除ければいいのだ。
しかしそんな考えだからトラブルに巻き込まれるのだと気が付くには、ヒトハはまだ、ナイトレイブンカレッジでの経験が足りていなかった。
ヒトハが半ば強制的に連行されたのは、いつか見たモストロ・ラウンジ――オクタヴィネル寮にあるカフェである。
道すがらリーチ兄弟が説明するのを聴くに、ここは寮長が支配人となって経営をしているらしい。従業員は生徒で賄っており、大人は存在しないというから、もしかしたら学園側からの関与は一切ないのかもしれない。どうりで清掃員の仕事の範囲に含まれないはずである。
案内されるがままに足を踏み入れた店内は、海を思わせる洒落た空間だった。さらにいえばバーのような大人の雰囲気も持っていて、これが男子校にあるカフェだというのだから驚きだ。
ヒトハは店の奥に見えるサンゴの海、そしてカウンターに並ぶ本格的なコーヒーサイフォンに目移りしながら店内を進んだ。期末試験を控えていながらもこの店は充分に繁盛していたが、従業員たちは前を歩くリーチ兄弟を見るなり道を開けるので、目的地に辿り着くのにはさして苦労はしなかった。
「ようこそ、モストロ・ラウンジへ」
店内の奥の奥、人けのない廊下を行き重い扉を開けた先の部屋で、その青年は微笑んでいた。
「僕はアズール・アーシェングロット。オクタヴィネル寮の寮長であり、ここモストロ・ラウンジの支配人です。ヒトハ・ナガツキさんですね? 貴女にはぜひ一度お会いしたいと思っていました」
要注意人物のうち最後の一人、アズールはヒトハを待ち構えていたかのように歓迎した。眼鏡の奥ではにこやかに笑ってはいるものの、その雰囲気はジェイドのそれと近い。
アズールはタキシードにグレーのトレンチコートを肩にかけ、いわゆる寮服の姿である。何をどうすれば学生の身分でこんな上等な装いができるものなのか。オクタヴィネルの寮服は品がよく、煌びやかさすら感じられた。クルーウェルも上から下まで一切手抜きの感じられない仕立ての良さだが、こちらもなかなか引けを取らない。
つまり、金の匂いがする。
(こ、怖すぎる……)
などと尻込みしながら、早くも来てしまったことを後悔し始めたヒトハだった。
「どうぞお掛けになってください」
ヒトハは半ば強制的に黒い革張りのソファに座らされ、不釣り合いにも持ち込んだ箒を隣に立てかけた。さっさと断って帰るつもりなので浅く腰掛けてみたが、即座に後ろに控えるジェイドから「楽になさってくださいね」と声がかかる。簡単には逃してもらえなさそうだ。
VIPルームと呼ばれたこの部屋は、店内の雰囲気とはまた異なった場所だ。適度な広さの密室で、耳を澄まさなければ外の音はほとんど聞こえてこない。それは内部の音も同じく、絶対に漏れないということである。
「突然お呼び立てしてしまい申し訳ありません。最近、ヒトハさんのとても不幸な話を耳にしたもので、僕たちでなにか力になれないかと思ったんです。聞くところによると、薬品で手を溶かした痕が残ってしまっているとか」
「え、ええ、そうですが」
「それはそれは、大変でしたね」
「はぁ」
すらすらと台本を読むかのような言葉を投げかけられながら、ヒトハは気の抜けた返事をした。
「現在は治療のためにクルーウェル先生が魔法薬の調合をしているとのことでしたね。効果は“治癒能力の劇的な促進”と」
アズールはヒトハに事実を一つひとつ確認するかのように質問を口にした。魔法薬の使用頻度、効果、現在の状態……寸分違わない事実にただ頷くのは、誘導をされているような気分になる。
ヒトハは「それなら逐一訊ねなくたっていいのに」と内心不貞腐れながら、膝の上で手持無沙汰の指先を擦った。テーブルの前には繊細な金彩の施されたカップがぽつんと置かれていたが、どうにも手をつける気にはなれなかったのだ。大体、自分とクルーウェル以外はほとんど知らないようなことを部外者が知っているのは、なんだか面白くない。
アズールは一通り確認して満足したのか「なるほど」と眼鏡を押し上げた。
「さすが先生、堅実でいらっしゃる。……ですが、そろそろ長く続く苦痛に嫌気が差してきた頃では? 多少のリスクが伴っても早く元に戻りたいと感じているのではないでしょうか?」
そして彼は胸に片手を当てて言い切った。
「僕なら、貴女の願いを叶えることができます」
その自信たるや、既視感を覚えるほどである。主に某魔法薬学の教師だが。こうも強く言い切るのだから、きっと本当に叶えることができるのだろう。
たしかに治療について悩んではいた。とはいえ、方法を変えるということは一度も考えたことがなかった。新しい方法を試すのが面倒だからだろうか? とも考えてみたが、それは少し違うように思うのだ。たとえアズールの提案に乗った方がよかったとしても、きっと「そうではない」と思ってしまう。
ヒトハは目的と噛み合わない感情に妙なもどかしさを覚えた。本当は一刻も早く治して、クルーウェルをこの面倒な仕事から解放してあげなければならないのに――。
だが、いくら悩もうともこの提案は最終的に断らなければならない。クルーウェルから言い付けられた『余計なことを言うな』と『要らない“契約”をするな』はまだ有効だ。どのように感じたとしても、選択に迷いはなかった。今は逃げ切る方がずっと重要だ。
「でも、タダということはないですよね。お高いんでしょう?」
「もちろん、マドルでのお支払いでも結構ですが――ええ、たしかに現実的な額ではないかもしれません。ですのでもうひとつ、手軽な方法を用意しています」
アズールはヒトハの疑問を予想していたかのようにすらすらと述べたあと、一拍置いて耳を疑うようなことを告げた。
「貴女の能力をひとつ、僕に譲ってください」
「能力?」
ぐ、と身を乗り出す。彼の本題はここにあったのだ。
「そうです。例えば木属性の魔法が得意であればそれでもいいですし、もちろんユニーク魔法でも結構。ですが一番いいのは、その繊細な“魔法を操る能力”」
「せ、繊細?」
どこから漏れ出たのか、どうやらだいぶ誇張されて伝わった自分の長所に、ヒトハはむず痒さを覚えた。繊細などと、一体誰が言い出したのだろう。ただアズールの様子を見るに、冗談で言っている風ではない。本当に「欲しい」と思っているのだ。
“魔法を操る能力”といっても他人より少し器用なだけのことだが、たしかに魔力の乏しい自分が持つには過ぎたものなのかもしれない。昔に比べて絶対に必要という場面もないし、多額のマドルと引き換えになるのなら、と少し前なら多少は心が揺れただろう。しかし、このささやかな長所ともいえる能力は今やヒトハの中で大きな価値を得ている。そう簡単に他人に譲れるものではない。答えるならば間違いなく「お断り」だ。
(それにしても……)
それはそれとして、ヒトハには魔法士としてひとつ気になることがあった。
「能力の譲渡だなんて、一体どうやってそんなことを?」
ヒトハが気になったのは、他者の能力を譲ってもらう方法である。学校でも習ったことがないし、もちろん、禁術の類でも聞いたことがない。もしかしたら禁術の一つとして存在するのかもしれないが、それはあったとしても“知る必要がない”か“知ってはいけない”かのどちらかだろう。
まさか違法なものではないだろうか、と訝しむヒトハに対して、アズールは慣れた様子で金色に輝く紙を取り出した。
「簡単なことです。こちらの契約書にサインをいただければすぐにでも」
「契約書? ……まさか、ユニーク魔法ですか?」
「ええ、お察しの通りです」
「と、とんでもない魔法をお持ちで……」
魔法士が持つ個性ともいえるユニーク魔法。その性能は才能によるところも大きく、ヒトハの知るところではハーツラビュル寮長のリドルが“他者の魔法を封じる”という規格外のユニーク魔法を持っていた。アズールもまた、普通の魔法士では持ち得ないユニーク魔法を持っているようだ。他者の能力なんて曖昧なものを自分のものにするなんて、平々凡々な魔法士には思いつきもしない行為だ。
疑問が解消されて、ヒトハは小さく息をついた。あとは元々決めていることを伝えるだけだ。
「ご提案はありがたいのですが、お断りします。まだ今の方法を諦めるつもりはないですし、それに、どれも私の大事なものです。渡せません」
言いながらアズールの瞳を見据える。静かな海の色がかすかに波打ったものの、それも一瞬で静まると、彼はまた余裕のある笑みを口元に張り付けたのだった。
「さすが先生の忠け……いえ、噂通り誠実な方ですね」
「今、忠犬って言いました?」
「まさか」
アズールはわざとらしく肩を竦めてみせた。
「残念ですが、これは一つの選択肢として心に留めていただければ。もしその気になれば、いつでもご相談ください。今回の件でも、それ以外でも」
アズールは「ジェイド、フロイド、お見送りを」と言うと立ち上がり、早々に話を切り上げた。
完全に見込みがないと思われたのか、引き際があっさりとしているのは願ってもないことだ。ヒトハはこの状況をうまく切り抜けられたことに、頭の中で拍手喝采の状態だった。なにせ街頭で話しかけられたら軽く十分は捕まってしまう性格だ。実のところ、クルーウェルの言う「お前みたいなの」はほとんど正解だった。
ジェイドとフロイドに促されて部屋を後にすると、ヒトハは店内を先導するジェイドに控えめに尋ねた。
「あの、私の情報ってどこから漏れてるんですか?」
「それは秘密です。他にもいくつか聞き及んでおりますが、どれも些細なことかと」
ジェイドは勝手に他人の個人情報を握っていながら、全く悪びれる様子もなく微笑んだ。何一つ漏らす気はないようで、胡散臭いことこの上ない。
しかし彼は少し間をおいて「そうですね、たとえば」と口にした。
「酔った勢いでこの学園の事務員を志望したとか」
「は……はぁ!?」
あまりに予想外の情報が飛び出して心臓が跳ねる。ヒトハは激しく動揺して、うっかり箒を手放してしまった。お洒落な店内に木の棒が落ちる音は異質で、それもまた心臓に悪い。
ヒトハは慌てて箒を拾い上げようと腰を曲げた。そして再び伸ばした時、耳に届いたのはゴッという鈍い音。箒を持つ手に鈍い振動が伝わり、次の瞬間には陶器が割れる鋭い音が店内に鳴り響いたのだった。
「おやおや」
「あーあ」
「……………………嘘でしょ」
ヒトハは恐る恐る自分の斜め後ろを見た。
そこには繊細な絵付けの壺が、パズルをひっくり返したように散らかっていた。ちょっと欠けた程度のものではない。完膚なきまでの大破である。
「アハハ! ウケる! どーすんの、これぇ?」
「ご、ごご、ごめんなさい! べ、弁償を……!」
よほど面白かったのかフロイドが大爆笑している中、ヒトハはガタガタ震えながら箒の柄を握りしめた。どう見たって安物ではない壺だ。今はただのガラクタだが。
「騒がしいと思って来てみれば、これはまた」
騒ぎを聞きつけてやって来たアズールは、心なしか悪い顔をしながら眼鏡を押し上げている。ジェイドはさっとヒトハの横を通り抜け、アズールに何やら耳打ちをした。彼はそれを聞くなり、あからさまに申し訳なさそうに肩を落としたのだった。
「そうですか……。お客様にご負担を強いるのは大変心苦しいのですが、とはいえせっかくのお申し出、お断りすることは失礼にあたりましょう。――ジェイド」
「はい。こちら、ざっとこれくらいです」
ジェイドはさらさらとメモに何かを書いたかと思えば、その紙を片手で覆うようにして、ヒトハにだけ見えるように目の前に差し出した。
「ぜ、ゼロがたくさん……」
ヒトハはそれを見て、一、十……と数えながら、その桁数に驚いて目を白黒させた。一体何ヶ月分の給料が必要になるのか、想像しただけでもぞっとするような金額が提示されている。
「カリムさんに譲っていただいた、ご実家の壺です。大変価値のあるものですので」
「カリムくん……!?」
カリム・アルアジームといえば学園内の誰もが知る熱砂の国の富豪の息子だ。その彼の実家の壺といえば、あの例の宝物庫にあるものに他ならない。幾度か仕事中に見たことがあるが、眩いばかりの黄金の部屋にあるものは、どれもこれもが相当な値打ちのものだった。
ヒトハは冷や汗をだらだらと流しながら、何度もメモに記された金額を数え直し、見間違いであって欲しいと願った。結局、とにかく給料数ヶ月分が余裕で吹っ飛ぶレベル、という事実がひっくり返ることはなかったが。絶望に打ちひしがれるヒトハに、このオクタヴィネル寮の面々は一切の同情もなく、容赦もしなかった。
「いかがなさいますか? マドルでも結構ですが、難しいということであれば、こちらの契約書にサインをしていただいても構いませんよ」
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