魔法学校の清掃員さん
12 清掃員さん、迷子になる
トントントン、と軽快に幅の広い階段を下り、長い廊下を進み、曲がり、やっぱり上り、ヒトハは足を止めた。窓から見るナイトレイブンカレッジの敷地は広大で、地平線まで続くかのようなグラウンドには放課後の部活に勤しむ生徒が見える。牧場の風車がゆったりと回り続け、夕日に照らされた芝生が風でそよいでまるで毛足の長い絨毯のようだ。
その光景からは何ひとつ推測できなかった。今ここが、校舎内のどこなのか分からない。
つまり、ヒトハは迷子だった。
放課後の校舎はめっきり人がいなくなる。生徒たちは寮か部活に行ってしまうし、教員も職員室へ帰ってしまうからだ。ただでさえ広い校舎である。メインエリアならともかく、何に使うか分からない部屋や廊下、使われているかも定かではない階段などになってくると、長らく誰も来ていないのではと思うほど人の気配がしない。そういったエリアは、もはや不気味ですらあった。燭台の炎に照らされ怪しく伸びる自分の影にいちいち驚くし、反響する靴音が二人分あるかのような気がしてくる。狭い階段も廊下も、変に錆びた窓枠も怖い。極めつけは行く先々にある絵画だ。壁掛けの絵画たちは豪奢な額縁に収まりながら“喋る”。
仕組みは不明だが生きているかのように会話が可能で、性格があり、自我があり、そして動く。彼らはこのところやって来た新参者のヒトハを注意深く観察しているようで、その目でじろじろと追いかけてくるのだ。それがどうにも不気味でならない。
ろくに会話をしたことがないせいで話しかけるのも憚られるし、恐らくそれは絵画も同じだった。ヒトハは校舎内を彷徨いながら、目で追いかけられていることを自覚しながらも彼らに話しかけることができないままでいた。
「お嬢さん、外に行くならここを右だよ」
「……そうなんですか?」
ヒトハはびっくりして壁掛けの親切な絵画を仰ぎ見た。口ひげをたっぷり蓄えた恰幅のいい紳士は油絵という平面の中で「そうとも」と頷く。
ついに声がかかってドキドキとしながら、ヒトハは感謝を述べると右へ向かった。案外彼らは親切なのかもしれない。もっと早く話しかけていればよかった。
右へ向かい、見つけた階段を下ろうとすると、今度は階段の踊り場にかかった絵画が「外ならこっちの階段じゃないよ」と言い出す。優しげな女性が肩に手を乗せた子供だった。幼く舌足らずな子だが、確実に自分よりは長くこの学校にいるのだ。従っておこうと階段を上り廊下に戻る。
さてそうなったら直進するしかない。ヒトハはどこか不安を抱きながら真っ直ぐに進んだ。空が夜に向かっている。早く出なければ施錠をされてしまうかもしれない。
直進した先にあった細い階段は、メインエリアより急こう配で幅が狭い。まさかここを下るのか、と恐ろしさに足がすくんだが、背後で見ていた婦人は「そっちで合っているわよ」と微笑むのだった。
階段は薄暗く、この時間帯は先が見えにくい。燭台もまともに設置されていないような古びた階段だった。ヒトハは杖に明かりを灯し、冷たい壁に手を突きながらそろそろと下りた。この時点で「もう嫌だ」と広すぎる校舎にほとほと嫌気がさしていたが、そんなことを思っていたって事態が好転するわけでもない。
思いのほか長い階段を下りきったところで、ヒトハはやっと魔法を解いた。この精神状態で魔法を使うのはいつもより疲れるのだ。魔法はイマジネーションだというが、今はそれに頭を使う余裕なんてなかった。
「そこを左」
「右に進んで」
「曲がっては駄目」
「ちょっと戻りなさい」
「こちらは行き止まりだよ」
はぁ、とため息をつく。ヒトハは大小統一感のない絵画たちの前でついに座り込んだ。
ひょろ長の農夫と豊満な胸をしたドレスの婦人、それから鋭い眼光をした気位の高そうな紳士。手にしているのは杖だから魔法士かもしれない。まるで統一感のない三人だ。
紳士は「迷子になったのかい?」と白々しく言った。
ここまできたらさすがのヒトハも自分がどういう状況に置かれているのか分かってきた。からかわれているのだ。ヒトハは最大限に眉を寄せて絵画を睨み上げた。
「あなたたち、私を騙してるんですか?」
「まさか」
婦人は羽根つきの扇子を広げて口元を隠した。驚いたように上がった眉は演技がかっている。
「嘘! 変な階段を上り下りさせるし、使ってないような廊下を歩かせるし、おかげで魔力も底をつくし、疲れたし、もう散々です! 本当のことを言ってください!」
ひょろ長の農夫は鍬の柄に顎を乗せて「もう?」と首を傾げた。
「あの程度で? 光を灯したくらいじゃないかい? 魔力尽きたって、ほんとうに?」
「ええ、そうです。おかげさまで」
乾いた失笑が響く。婦人と紳士は小馬鹿にしたように目くばせをした。
「お嬢さん、あなたなんでここにいるの?」
「なんで? 仕事に決まってるじゃないですか」
ヒトハは声を怒らせたまま答えた。仕事以外に一体何があるというのだ。
紳士はそれを聞くと「ちがうちがう」と手にした杖を振りながら言い聞かせるように言った。
「ここは選ばれた魔法士が来る場所で、お嬢さんみたいな魔法士はお呼びではないということだよ」
「……は?」
「だいたい、こんな簡単なことに騙されるお間抜けさんは名門たる我が校に相応しくないのではなくて?」
婦人がクスクス笑いながら扇子を仰ぐ。
「なっ……なんて腐った性格してるの……!」
ヒトハはほとんど意地で言い返した。とても許せることではないと怒りが湧いてきたが、同時に燻り始めた悲しさが急速に熱を奪っていく。こんな時間帯でなければ、こんなに疲労を抱えていなければまだ戦えたのに、悲しさは戦意を奪って怒りを押し潰すのだ。そして熱を奪い去った悲しさは今度は不安へと変わった。
言い返した言葉だって、彼らの悪口を否定するものではなかった。どこか心の隅に引っかかっていたものが掘り起こされて、否定することができなかったのだ。
「悲しいのかい? 図星なら残念」
廊下に座り込んだまま言葉を失っていたヒトハに、絵画たちは容赦なかった。おもちゃにしているのだ。感情を揺さぶられて、不安になって、悲しんでいる様子を楽しんでいる。
「うるさい」
まともに相手をするのも馬鹿らしいと無視を決めても、勝手に耳に入る言葉は防げない。ヒトハは両手を耳に当てて膝の間に顔を埋めた。
言われなくたって分かっている。自分が不出来な魔法士で、欠陥品で、本来この学園へ足を踏み入れるほどの者ではないということも。全ては勝手に転がってきた幸運をたまたま拾っただけだ。分かっているはずなのに、どうしてこんなに胸が痛いのだろう。
早くここから立ち去らねばと思う一方で、疲れた体が重くて起き上がる気にもなれなかった。
「――おい」
突然揺さぶられた腕に頭を弾き起こす。ヒトハは呆然と隣を見上げた。
「せんせ……?」
「ゴーストが校舎ではぐれたと言っていたから、まさかとは思ったが……お前、絵画どもに惑わされたな?」
クルーウェルはヒトハを見て顔に険しさを滲ませると、ちらりと絵画を見上げた。居心地悪そうに絵画たちが視線を泳がせる。
「最初に言っておくべきだったな。あいつらの言葉には耳を傾けるな。絵から出られん憂さ晴らしか知らんが、でまかせしか言わん」
「失礼な。本当のことだよ」
「うるさい黙ってろ」
「おお怖い」
農夫は肩をすくませてわざとらしく怖がった。
「これ以上何か言ってみろ。焼却炉行きにしてやる」
クルーウェルはヒトハの隣で素早く立ち上がると、指揮棒の先を絵画に突きつけて低く唸るように言った。このままでは本当に燃やし尽くしてしまいかねない。
クルーウェルと絵画たちは水と油のように相性が悪いらしく、彼は絵画たちが口を開くたび、そして自分がそれに言い返すたびに苛立ちを募らせているようだった。
婦人と紳士は額縁ごしに目を合わせた。
「デイヴィスは昔からそう言ってるわ」
「焼却炉行きにできた試しがない」
「そうだな、昔はできなかったが今ならできる。不要な備品の処分は俺に与えられた権限のひとつだ」
そしてクルーウェルは我慢をやめて指揮棒を鞭のように振ると、絵画を激しくひっくり返した。絵画は壁側に向かって貼り付き、木の板が味気なく三枚並ぶ。反動で額縁に乗った埃がぱらぱらと落ちるのを、ヒトハは唖然としたまま眺めていた。
「俺を苛つかせた罰だ。せいぜい明日までそうしていろ。行くぞ、ナガツキ」
壁側からくぐもった声が聞こえてくる。不満か罵声か懇願かは分からなかったが、クルーウェルはそれ以上取り合うことはなかった。
鋭い靴音を追って、ヒトハは慌てて立ち上がった。あれだけ体が重いと思っていたのに今はすんなりと足が動く。しかし揺れるコートを追いかけている間、口ばかりは重く動かなかった。本当は今すぐにでも探しに来てくれたことを感謝しなければならないし、事情も状況も説明しなければならない。なのに頭がぼうっとして、喉に引っかかったように言葉が出ないのだ。
もどかしくも沈黙を貫くヒトハに、クルーウェルは歩きながら「何を言われた?」と口火を切った。
「なにも……」
「嘘だな」
彼は一切迷うことなく断言した。
ヒトハはしばらく答えるべきか迷い、結局は重い口を開いたのだった。
「なぜ、ここにいるのかと……私はこの学園に相応しくないと……」
ぴたりと足が止まる。格子窓から差し込む月明かりが、振り向きざまの銀に輝く瞳を剣呑に浮かび上がらせる。
彼はとても、こわい顔をしていた。
ヒトハは自分が何一つ悪いことをしていないと分かっていながら首をすくませた。
「酷いでまかせだ。なんでそれを真に受ける」
「本当のことだから」
「どうしてそう思う」
どうして?
「私は魔力も少なくて、人並みに魔法も使えなくて、魔法士として生きることに向いてなくて、本当はこんな、すごい魔法士たちのいる場所にいていい人間じゃなくて」
「分かった、もういい」
クルーウェルはヒトハの言葉をはっきりと遮った。これ以上は喋らせまいと続け様に言う。
「それほどまでの卑屈さ、ひとりで勝手になったわけではないだろう。教師だか生徒だか知らんが、魔法士の正当な評価というものを知らんようだな」
声には次第に怒気が混じり、絵画と話していた時の苛立ちが戻ってきた。
「そいつらは俺より優秀なのか?」
「……はい?」
「この俺より優秀なのかと聞いている。答えろ」
彼は喉元に杖を突きつけ、脅しつけるように答えを促した。まるで意味の分からない質問だ。今まで自分を評価してきた人間が彼より優秀なのか――そんなことは考えたこともなかった。そもそも優秀の基準もよく分からない。
けれどあの曇天の日、あの日に見た彼ほど輝いて見えた人は、たしかに今までただの一人もいなかったのだ。
「先生の方が、優秀だと……思います」
ヒトハのぎこちない答えにクルーウェルは満足したのか、ふん、と鼻を鳴らした。
「だろうな。俺より優秀な魔法士ならこの学園にいたはずだ。女なら相応の所に。少なくとも、お前のいた学校にはいないはずだ」
よくよく聞けばずいぶん失礼な話だが、彼はそれを当たり前のように口にした。それでも一応間違えてはいないのだ。不思議なことに。
「そいつらより優秀な俺が正当な評価というものを教えてやろう」
優れた魔法士とは。クルーウェルは指揮棒片手に朗々と語った。
「正しく、適切に、無駄なく魔法を行使できる者だ。力ばかりが強く制御不能な魔法士は優れているとは言わん。ほとんど災害のようなものだ。魔法は危険な力だと自覚し、己の力量を知り、知識をつけ制御しなければならない。そのために我々は教鞭を執るのだ。理性のない獣を躾けてやるように」
指揮棒は鞭のようにしなり彼の手のひらを激しく叩いて収まった。
「ペーパーテストしか点が採れない? 努力の結果ならそれで結構。少なくとも実技しか点が採れないやつよりはましな魔法の使い道を知っている」
そしてヒトハの目を見据え、これ以上なく真剣に言い放ったのだった。
「お前には魔法士としての資質がある。与えられた力を自覚し正しく行使できるのは才能だ。俺がこう言ったからには、今すぐ過去の評価を捨て、これが真の評価だと心得ろ。いいな」
「は、はい」
圧倒されてまともな言葉ひとつ返せず、ヒトハは何度か首を縦に振った。
クルーウェルはヒトハが今まで魔法士として生きて得た評価のほぼ全てを捨てろと言った。それも「俺の言うことの方が正しい」と強く主張して。まったく無茶苦茶な話である。
それでもヒトハはそれを肯定した。なぜなら彼のことは、不思議と信じられる。そう思わされてしまう。差し出された手を握りたくなってしまう。そんな人はやはり、今までただの一人もいなかったのだ。
クルーウェルは話を終えると途端に口元を緩め、悪戯っぽく目を細めた。
「それから、絵画どもの言うことは二度と聞き入れるな。どうにもならなくなったら燃やしてしまえ。魔法薬学室を燃やしてお咎めなしなんだ。一枚くらい消えたって誰も気にしない」
そしていつものように嫌味ったらしく鼻で笑ったのだった。
「俺もせいせいする」
***
トントントンと階段を下る。箒を片手に、放課後の校舎を歩き回るヒトハはある絵画の前で足を止めた。大小統一感のない三枚の絵画が複雑なものを抱えたような顔で見下ろしている。
まったくお節介なことに喋る彼らは、先日の一件で二晩はひっくり返されていた。なにせこの場所は普段生徒も通らないような通路だ。
「お嬢さん、まだいたの」
それでもなお果敢に挑んでくる魔法士の紳士は勇敢というか、無謀というか。
ヒトハは何食わぬ顔で杖を腰から引き抜いた。
「私、正しい魔法の使い方っていうのを最近学んだんです」
そしてにっこり笑って横にヒュンと一振りした。絵画はくるりとひっくり返り、聞き取れない怒りの声が壁側から聞こえてくる。
ヒトハは箒を抱え直し、踵を返すと首だけ向けてにやりと笑った。
「私を苛つかせた罰です。あと三日はそうしていてくださいね」
婦人と農夫はひっくり返った絵画を覗き見て、ぽかりと開けた口をそっと閉じたのだった。
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