清掃員さんとフェアリーガラ
10
ぽとり、と白い花が手からこぼれ落ちた。花冠を飾る小さな白い花だ。ヒトハはそれを拾い上げ、花冠に飾りつけながら小さく首を傾げる。
耳が熱い。炙られるような熱さではなく、ほんのりとした温かさを感じる。
ヒトハは指でそっと耳飾りに触れた。そこに飾られた魔法石から感じるのは熱と魔力の波。
焦燥に似た何かが込み上げてきて、それはヒトハの胸の奥をじりじりと焼いた。
クルーウェルの家でフェアリーガラの手伝いを始めて数日。ヒトハはこの違和感を誰にも──クルーウェルにすらも言えずに過ごしていた。実際のところ一から十まで記憶通りというわけでもなかったし、なにより彼は自らが用意した耳飾りのことを“知らなかった”のである。
どこのブランドだ?と興味津々な彼に「あなたに貰ったんです」なんて言えるわけがない。
(やっぱり私の記憶違い……?)
部屋の中央で完成に近づいていく衣装を眺めながら、ヒトハはため息をついた。
記憶違いにしたっておかしい。
仕上がった衣装を二人で眺めたことを覚えている。その記憶が思い違いだというのなら、あの感動は一体何だったというのだろう。どうして衣装の完成が近づいた今、何の感慨も抱いていないのだろう。
「ナガツキ」
はっと顔を上げる。部屋の奥にあるデスクで作業を続けていたクルーウェルが、眉間に皺を寄せてこちらを見ていた。
「大丈夫か?」
「え、ええ。すみません、ぼうっとしていて……」
惚けたままの声で返すと、彼は呆れたように言った。
「根を詰め過ぎだ。無理はするなよ」
壁掛けの時計を仰ぎ見る。時針は十二時を指し、気がつけばもう明日だ。クルーウェルの言う通り、何時間も無言で作業を続けていたらしい。けれど前回は花冠の完成までにもっと時間がかかっていたから、これはかなり上達していると言えるだろう。もうひと踏ん張りすれば、明日のノルマも終わらせられるかもしれない。
「──ナガツキ。ヒトハ・ナガツキ」
ヒトハは時計から目を離し、ぱちぱちと目を瞬いた。クルーウェルは先ほどよりも深い皺を眉間に刻んでいる。
「花冠を持ってこい」
「これですか?」
ヒトハは言われた通りに花冠を持ち、作業部屋に敷き詰められた道具たちに触れないように器用にステップを踏んだ。クルーウェルはヒトハから花冠を受け取ると、それをくるくると回しながら仕上がりを確認する。
確か、記憶ではここで何度もやり直しを食らったのだ。ヒトハは居てもたっても居られず、先に口を開いた。
「『花の向きがおかしい』?」
「まだ何も言っていない」
彼は素早く言い返すと、花冠を持ち上げた。それをヒトハの頭にそっと載せ、満足そうに頷く。
「花の向きは完璧だ。よく出来ている」
そしてあの時、彼はこう言ったのだ。
「時間があればお前にも仕立ててやりたかった。このテーマならドレスでも映えるだろう」
ヒトハは「本当ですか?」と笑おうとして、途中でやめた。
その代わりに、頭の奥で楽しそうな笑い声が響く。
『本当ですか!? じゃあ、いつか作ってくださいよ!』
『……そんなに着たいのか?』
『そりゃあ、もちろん。だってこんなに綺麗な服、着てみたいと思わないほうがおかしいですよ』
作りかけのフェアリーガラの衣装。散らかった作業部屋。疲れた顔をした彼が目を細め、仕方ないなと笑う。古いフィルムを眺めるような懐かしさが胸を掠め、ヒトハはゆっくりと息を呑んだ。このワンシーンは、もっと鮮やかで心踊るものだったはずだ。
(なんなの、これは)
記憶と現実が脳の中でぐちゃぐちゃになっていく。
(これは本当の記憶? ……これは
指は自然と耳飾りを触った。その耳飾りは、呼応するように強い熱を帯びていた。
「ええっと、ジャミルくんの靴と、カリムくんの刺繍のほつれ……」
ヒトハは校舎に向かいながら、ぶつぶつと呟いていた。両手にはジャミルの靴と、カリムの衣装が抱えられている。
フェアリーガラの作戦に向けて、ついに今日からウォーキングの練習が始まった。本来ヒトハの仕事は服を作るまでだが、このまま本番まで生徒たちを手伝うことにしている。何を隠そう、ヴィルからの直々のご指名である。クルーウェルは自分の仕事が溜まっていて練習どころではなかったから、衣装のことが分かる人間として、ヒトハに白羽の矢が立ったのだ。仕事内容は掃除と雑務、時々ヴィルから意見を求められたら答えるくらいのものだから、それほど難しくもない。だから断れなかったし、断る理由もなかった。
そして今はカリムとジャミルの衣装を直してもらうために、クルーウェルのもとへ向かう最中である。二人はダンス担当だからか、レオナよりも衣装の消耗が激しい。装飾品が動きに耐えられず、落ちたり
ヒトハは鏡舎を出て、図書館のあたりに差し掛かった。この光景もなんとなく見覚えがある。曇天の寒空の下で、風に吹かれながら校舎へ向かったのだ。用あって実験室にいると言っていた彼を訪ねるために。メインストリートで時間を持て余す生徒たちと挨拶を交わし、ボールルームの様子を見に行くエースとジャックに会い、それから……
「わ!」
メインストリートに入る直前、ヒトハは突然現れた人影に驚いた。その人は白い髪と制服の肩に枯れた葉を引っ付け、呆然としている。見開いた目はオーロラのような不思議な色をたたえ、同じように呆けた顔をしているヒトハを食い入るように見つめていた。
「し、シルバーくん……?」
ディアソムニア寮の二年生、シルバーである。セベクと同じくマレウスの従者だから、こうして一人でいるのは珍しい。
(シルバーくんとは、ここで会った覚えがない……)
それどころか、フェアリーガラの準備中にも会った覚えがない。クルーウェルの家を拠点にしていたから、作戦に参加する生徒以外とは接触の機会すらあまりなかったのだ。
ヒトハが名前を呼ぶと、彼は夢から覚めたかのように何度か目を瞬いて「ヒトハさん?」と呟いた。
「あ、ああ、そうか。ここはヒトハさんの……」
「私の?」
と、ヒトハが首を捻ると、シルバーは「何でもない」と首を振った。
シルバーは真面目で品行方正な生徒だ。表情が乏しく感情が分かりにくいものの、動物たちに好かれる優しい性格でもある。そんな彼にも唯一、いつでもどこでも寝てしまうという欠点があるわけだが、今日もどこかで眠りこけてしまったのだろうか。
「こんなところで何をしていたんですか? お昼寝にしては、ちょっと寒いかなって思うんですけど」
ヒトハが問うと、シルバーは少しだけ考える素振りをして「いや、寝ていたようだ」と答えた。ツイステッドワンダーランドはまだ冬の季節だ。こんな寒い場所でも居眠りができるとは、体を鍛えているにしても、なかなかのものである。
彼はきょろきょろと辺りを見渡し、今いる場所を確認しているようだった。眠りから覚めたすぐは眠る前のことが曖昧になるから、どこで寝てしまったのか思い出そうとしているのかもしれない。
彼は自分をじっと観察しているヒトハに気がつくと、ほんの少し表情をやわらげた。
「ヒトハさんこそ、何をしているんだ?」
「私はフェアリーガラのお手伝いで先生に会いに行くところです」
「……フェアリーガラ?」
さっとシルバーの眉間が曇る。
「どうかしました?」
「いや、セベクから聞いている。ヒトハさんはフェアリーガラの準備で大変だったと」
「ああ、セベクくん」
そういえば衣装のフィッティングで学園に戻ったときに、食堂で会ったのだった。クルーウェルのこだわりが強くてなかなか苦労しているのだと愚痴を言ったら、本人が背後に立っていた……ということがあったので、よく覚えている。
「大変ですけど、楽しくやってますよ」
ヒトハは軽い気持ちで答えたはずだったが、なぜかシルバーは戸惑っていた。
「気を悪くさせてしまったら申し訳ない。その、俺にはあまり、楽しそうに見えないのだが」
「え?」
ヒトハは思わず聞き返した。楽しそうに見えない?
フェアリーガラに向けて準備をしている間、そんな風に言われたことはなかった。楽しそうだね、夢中になりすぎるなよ。貰ったのは、そんな言葉ばかりだった。だから疑うことがなかったのだ。自分は楽しく仕事をしている。
シルバーの言葉を聞いたとき、ヒトハの胸の奥底で眠っていたものが、むくりと首をもたげた。それは、とても冷ややかな目をしていた。
(この仕事は、楽しくない)
目の前に流れてきた作業を淡々とこなしているだけだ。仕上がった衣装を見ても、生徒達がそれを着た姿を見ても、ただ「綺麗だな」としか思えなかった。だからヴィルのウォーキングの練習が始まったとき、自ら「手伝う」と手を挙げなかった。こうして働いているのも、ヴィルからの指名があったからだ。
ヒトハは視線を落としながら、躊躇いがちに言った。
「ま、まぁ、確かにちょっと、しんどいかな……」
本音を言えば、仕事に疲れていた。ただでさえ衣装づくりで睡眠を減らしているのに、朝から晩までウォーキングのレッスンに付き合って、掃除、雑用。へとへとになって帰って、死んだように眠って、一瞬で朝になって、また働いて。生徒達の頑張りは理解しているが、心はどこかに置いて行かれたままだった。あの日、クルーウェルの車に乗ったその時から、ずっと。
(みんな頑張ってるのに……)
じわ、と罪悪感が湧いてくる。ヒトハは衣装を抱える手に力を込めた。
そんなヒトハを見て、シルバーは目を細めた。彼は他人より喜怒哀楽の表現が乏しい。しかしそれを補うくらいに、心配そうに、ゆっくりとした声でヒトハに訊ねる。
「ヒトハさんは、この状況が辛いのだな」
俯いたまま、小さく頷く。彼は落ち着いた声で「そうか」と言った。
「心配することはない。なぜならこれは──」
と、シルバーが続けようとした瞬間「おい!」とメインストリートの先から声が響いた。
遠目に見ても体格のいい青年が、ぴんと背を張ったまま向かって来る。セベクである。彼は大股でやって来ると、シルバーの腕を掴んだ。
「シルバー! マレウス様がお呼びだったことを忘れたか!?」
「……マレウス様が?」
シルバーはセベクに腕を引っ張られながら「待ってくれ、セベク」と焦った。
「待てるか! ヒトハ、シルバーは連れていくぞ!」
ヒトハが戸惑いながら頷くと、彼はシルバーの腕をいっそう強く引いた。
「ヒトハさん!」
シルバーは引っ張られながら、上半身を捩じった。オーロラ色の瞳に強い光を見て、ヒトハは目を見張った。
「これは“夢”だ!」
「え?」
「いずれ覚める! 永遠ではない! だから……」
ヒトハはぽっかりと口を開けた。
これは夢。あまりにも突拍子がなく、現実味がなく、そして納得がいく話である。
デジャブを疑ったこともある。魔法で時間を戻されたのではないかとも。けれどどう仮定しても無理があり、決定打に欠けた。
けれどもしこれが本当に夢ならば、一から十まで説明がつくではないか。これは夢。こんなに簡単なことだったのに、どうして今まで気がつかなかったのだろう。
「あれ? ヒトハさん、何してんの?」
はっとして振り返る。そこにはエースとジャックがいた。エースはオンボロ寮のふたりの様子を見に、ジャックは寮の先輩に差し入れをしに鏡舎へ向かう最中である。これも見たことがある光景だ。なぜなら、現実で一度経験しているから。
「ゆめ……」
「夢?」
エースは眉をひそめたが、ヒトハは構わず叫んだ。
「これは夢! そうだ、夢です! 夢なんですよ!」
このあと生徒達はフェアリーガラの作戦を成功させ、学園の魔法石が返ってくる。仕事を終えて疲れ切った自分は、オンボロ寮での打ち上げを前に、ベンチで寝てしまったのだ。記憶にかかった霧が一気に剥ぎ取られ、現実との境がはっきりとしてくる。厚い雲からようやく明るい晴れ間が見えたような、そんな清々しい気分だった。
「それなら全部説明がつきます! ああ! 私、なんで気がつかなかったんだろう!」
興奮しながらシルバーのほうに振り返る。しかしセベクもシルバーも、最初からいなかったかのように忽然と姿を消していた。
「……あ、あれ? シルバーくん?」
いくら引っ張られていたとはいえ、こんな短時間でいなくなることなんて、あるのだろうか。
ヒトハはきょろきょろとあたりを見渡したが、広々としたメインストリートには誰もいなかった。そこにあるのは、寒々しい冬の景色だけだ。
とんとん、と肩を叩かれ、ヒトハは首を回した。ヒトハさん、とエースが名前を呼ぶ。彼は微笑みながら、こう言った。
「疲れてるでしょ? もう少し寝てなよ」
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ゆっくりと重い瞼を開く。
見慣れた天井をぼんやりと見上げて、ヒトハは呟いた。
「え……さっむ……」
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