四月生まれのあなたへ

4月17日

『誕生日のお祝いをしたいから、先生の一日が欲しい』

 ジェイドの言葉を反芻し、それを自分の声に置き換えてみる。
 ヒトハはベッドの上でジタバタと悶絶した。確かにプレゼントを渡して「おめでとう」と言って終わるよりも、一日貰えたほうがいいけれども。確かに彼の特別な日を貰えたら、嬉しいけれども。

「我儘だ……」

 まだプレゼントも決めかねているのに。思い出して、ぼすんと枕に顔をうずめた。
 四月十七日の朝。ヒトハの手にあるスマホには、書きかけのメッセージが行き場もなく残り続けていた。

(さすがに今日は決めたい……)

 ヒトハは放課後の廊下をこそこそと歩いていた。目的地はサイエンス部の部室──実験室である。餅は餅屋と言うように、相談するならクルーウェルが所属する部活、サイエンス部の部員に相談するのが妥当である、と気がついたからだ。
 しかしこれには問題がある。本人がいる可能性がかなり高いということだ。

(仕事を装って部室に入って、トレイくんかルークくんを捕まえる)

 この二人は三年生だし、クルーウェルとは長い付き合いだろう。昨年は誕生日を祝ったとも聞いている。今日、決め手となるヒントがもらえたならば、誕生日前日に麓の街に行ってギリギリ調達可能だ。

(これで気兼ねなく当日の予定を……)

 ぎゅっと箒の柄を握る。

(空いてなくても、週明けに渡したらいいし。そっちのほうが、焦らなくていいかもだし)

 嫌な気持ちを払うようにかぶりを振ると、ヒトハは部室の扉を押し開けた。
 むわ、と薬品の匂いが雪崩れ込んでくる。部活中の部屋はいつもよりも匂いがきつく、目に沁みる。ヒトハはぎゅうと眉根を寄せながら扉を大きく開き、その中へ足を踏み入れた。
 実験室では部員たちが複数のグループに分かれて作業をしていた。部屋の右側ではうねうねする植物に不思議な液体を垂らしているし、その隣ではぶよぶよとした巨大な水槽に魔法で水をなみなみ注ぎ、その様子を観察している。さらにその近くでは虹色の花火が弾けていた。
 ぐるりと見渡してみたが、どうやら運よくクルーウェルは不在のようである。

「ん? ヒトハさん?」

 聞き馴染んだ声に、ヒトハは振り返った。トレイは実験用のゴーグルを外しながら、突然の訪問者に目を瞬いている。その隣にはルークがいて、彼は「やあ、ヒトハさん。何かご用かな?」とにこやかに片手をあげていた。

「あの、クルーウェル先生は……」
「先生なら用事があって不在ですよ。呼んできましょうか?」

 トレイが気を利かせて部室から出て行こうとするのを、ヒトハは慌てて引き留めた。

「い、いえ! いいんです! 今のうちに聞きたいことがあって……!」
「聞きたいこと?」

 トレイとルークは不思議そうに顔を見合わせたが、すぐに快く頷いたのだった。

「なるほど、誕生日プレゼントか……」

 トレイは先日のケイトと同じように「うーん」と困ったように笑った。

「俺はそういうのには疎いからな。ルークはどう思う?」
「私は靴下やネクタイ、革小物あたりがいいと思うけれど、先生の鋭い美的感覚を考えると少し選ぶのを躊躇してしまうね。ヒトハさんもそうではないかな?」

 ルークの問いに、ヒトハは深く頷いた。

「考えるほど分からなくなっちゃって。先生、こだわりが強いし、好きじゃないものを渡しても困るかなって……」
「わかるよ。私も今でこそヴィルへの差し入れに迷うことは減ったけれど、最初のうちは熱が出そうなくらい考えたものだ」

 ルークはしみじみと言った。クルーウェルと同じく、ヴィルへの贈り物を選ぶのも難しそうだ。彼の「熱が出そうなくらい」という例えも、今のヒトハにはよく理解できる。ここ最近考えすぎていたせいか、ずっと頭がぼうっとしているのだ。

「それならバースデーカードなんてどうでしょう」
「カード?」

 トレイは頷いた。

「お菓子にカードを添える贈り物は定番だし、カードをメインにしてちょっとしたものを添えてもいいと思います」
「なるほど……」

 カードを書く案はいいかもしれない。ヒトハは以前、ホリデーカードを書いた時のことを思い出した。あのカードを買った店にはバースデーカードもあったはずだ。
 プレゼントに気を取られていたけれど、お祝いのメッセージを貰って嬉しくない人はいない。添える品をどうするかはさておき、これも用意しよう。ひとつ決まったら、少しイメージが湧いてきた。

「それで、いつ先生にプレゼントを渡す予定なんですか?」
「それは……」

 言いかけた時、部屋の奥がにわかに騒がしくなる。三人は会話を止めて振り返った。奥にある大きな水槽の周りで部員たちが慌てふためいている。柔らかそうだと思っていた水槽の膜はパンパンに丸く張っていて、それは今にも弾けそうなほどだった。

「──魔法障壁を張れ!!」

 誰かが叫んだ。
 その瞬間、それは激しい破裂音とともに弾け、教室中に勢いよく冷たい水をまき散らしたのだった。

 ──痛い。それから寒い。とても寒い。
 はっと気がついたとき、ヒトハの視界には濡れた石が映った。それからたくさんの靴。形はぼやぼやと歪んでいて、ヒトハはそれらをぼうっと眺めている。全身の濡れた感覚がひどく不愉快なのに、起き上がるのがやたら億劫で、体に力が入らない。
 遠くで生徒たちの声がする。誰かが二の腕を揺さぶった。声が上手く聞き取れないが、この声はトレイだろうか。そうしているうちに、群れていた靴たちが慌てて散った。代わりに走って来た人が、何かを言いながらヒトハの体を抱え上げる。
 なんだかひどく切なくなって、ヒトハは体を丸めるようにして、その胸に顔をうずめたのだった。

「うっ……」

 自分の呻き声で目を覚まし、ヒトハはぼんやりと天井を眺めた。薄暗い部屋を緑の怪しい光が照らしている。壁にかかった絵画は薄く目を開けてヒトハの様子を見ると、すぐに覆って眠りに戻った。
 保健室だ。何度も来たことがあるから、すぐに分かった。
 格子窓の外は夜に変わっている。実験室で気を失ってから、それなりに長い時間眠っていたのだろう。
 ゆっくりと体を横にして、片腕で上半身を支えながら起き上がる。関節がだるく、体中が火照っているような気がする。無理やり乾かしたであろう制服は生地が硬くなっていて、身動きするたびに肌に擦れた。熱で敏感になった皮膚が、ぞわりと粟立つ。

「ねつ……ある……」

 自分の額に手を当て、ヒトハは呟いた。いつの間にか手袋がなくなっていて、手のひらにじっとりと汗が滲む。額は冷たく感じたが、どれだけ熱くなっているかは分からなかった。

「ああ、起きました?」

 パーテーションの先からひょっこりと現れた保健室の先生は、にこりと笑った。彼は手にしていた水差しからコップに水を注ぎ、それをヒトハに差し出す。

「過労で倒れたみたいですね。少し熱がありますけど、明日には下がると思います」
「過労……」
「ええ、残業続きだったと聞きましたよ。明日いっぱいは休んでくださいね」

 ヒトハは受け取ったコップの水をゆっくりと飲み込んだ。

「あの、生徒たちは……」
 
 確か、生徒の実験が失敗して激しい水の波が押し寄せたのだった。魔法障壁が間に合っていれば問題はないだろうが、そうではない生徒もいただろう。

「生徒は水を被っただけで無事ですよ。教室をめちゃくちゃにしてクルーウェル先生に叱られたくらいです。あなたが倒れたのは疲れた体で冷たい水を被ったせいですから」

 彼は白衣のポケットから薬を取り出し、それをヒトハに差し出した。

「一応病人ですので、今晩は泊まってください。あとで食事も持ってきますね」

 そして慌ただしくパーテーションの向こうに消えていく。
 ヒトハは渡された薬を口に入れると、それを水で流し込んだ。そのままベッドに倒れ込んで、はぁ、と深く息を吐く。──最悪だ。
 水差しの隣に置かれたスマホに手を伸ばし、画面を見た。午後十時五十分。そろそろ今日が終わってしまう。

(どうしよ……)

 目を覆って考えようとするけれど、熱に浮かされた頭では何も考えられない。焦りの感情だけが頭の中をぐるぐると走り回っている。誕生日、どうしよう。もう諦めてしまおうか。
 一週間前にいきなり知らされたのだから、何もできなくても仕方がないではないか。本人から教えてもらったわけでもないから、知らないふりをするのは何もおかしなことではないはずだ。今年はもう諦めて、来年たっぷり準備をして挑めばいい。

(……やだ)

 でもやっぱり、嫌だった。だって知ってしまったから。知らなかった頃には戻れないから。何でもなかった四月二十日が、自分にとって特別な日になってしまったから。できることをしたい。お祝いをしたい。他の誰でもなく、自分の手で。
 スマホの画面を指で叩く。ヒトハはメッセージの画面を開き、書きかけの文章の続きを打った。

 ──先生、おつかれさまです。

 送信ボタンを押して直ぐに既読のマークがつく。どきりとしたが、続けて打った。

 ──4/20は空いてますか?

 通知音が鳴る。返信は早かった。

 ──20は夜遅くしか空いていない。

 人差し指が画面の上でピタリと止まった。
 胸が痛い。けれど、知らない誰かへの強烈な忌避感が、その突き動かした。

 ──それでもいいです。
 ──先生の特別な日を、私にもください。

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