魔法学校の清掃員さん

09 清掃員さん、箒に乗る

「うんうん、いい感じです」

 ヒトハが受け取ったのは型こそ古いが丈夫で軽い競技用の箒だ。いい木材を使っているのか手触りが良く、男性用ではあるものの小ぶりで持ちやすい。これなら一般家庭用の箒よりいくらか速く飛べるだろう。
 学園にあるマジフト練習用の倉庫の前で、ヒトハとラギーは一本の箒を囲んでいた。

「これ競技用ッスけど、大丈夫なんスか?」
「ええ、大丈夫です。試し乗りしても?」
「いいッスよ」

 ラギーが心配そうにする中、ヒトハは箒を横に倒して跨いだ。箒に乗るのは久しぶりで、学生以来のことである。
 呼吸を整え、箒に魔力を込めて軽く地面を蹴る。浮遊感と共にあっという間に地面が遠のいて、風に煽られた髪がはためいた。学園周辺を見渡せるほどの高さに到達すると、ヒトハはどうしようもない高揚感に満たされたのだった。

(楽しい!)

 ――飛行術が好きだ。
 飛行術の授業は他人と組むこともないし、魔力の量ではなくコントロールが物を言う。そして飛行用の箒は長時間飛ぶことに特化した魔法道具。つまり省エネ技術の結晶で、この上なく相性がいい。なによりヒトハは、空を飛ぶことが好きだった。
 清掃の仕事ではなにかと重いものを運ぶことが多く、箒の利用申請をしていたのが今回やっと承認されたのだ。そして体力育成の授業を担当するバルガスに手配してもらったのが、この箒である。マジフト部の練習用の箒が買い替えの時期だから、と譲り受けたものだが、まだまだ乗れそうないい箒だ。この品質のものを練習用として乗り回すのだから、このナイトレイブンカレッジではマジフトに力を入れているというのは本当らしい。学生時代にもなかなか乗る機会のなかった競技用箒は、癖こそあるが慣れればいい相棒になる。

(良いもの貰っちゃった)

 ヒトハは空をくるくると旋回して地面に降り立つと、呆然とするラギーに満面の笑みで「これ、貰いますね!」と告げた。

「それにしても意外ッスね。ヒトハさんにこんな特技があったなんて」
「ふふん。長距離飛行は無理ですけどね」
「ああ、なんでしたっけ。魔力不足?」
「そうそう」
「難儀ッスね~」

 人生でもう何度聞いたかもわからない言葉に、ヒトハは苦笑した。

「箒に乗って飛べるんだから、私にはこれで充分ですよ」

***

 ラギーが箒片手に上機嫌で去るヒトハの背を見送っていると、入れ違いに箒を持ったジャックが現れた。彼は小さくなったヒトハの姿を目で追いかけて、不思議そうに言う。

「ラギー先輩、頼まれてた箒を持って来たんスけど。他に合うのがあったんスか」
「え?」
「いや、このバルガス先生に言われてたヒトハさんの箒……」
「ん? あれ? じゃあ、あの箒って……」

 ラギーはもう姿の見えなくなったヒトハを追うべきか悩んだ。しかし間違えた箒を渡してしまったとはいえ、もとよりジャックが持ってきたものと同じ不要な箒である。整備も点検も欠かしたことはない。

(ま、いっか!)

 万一何かあったとしても、あの乗りこなしならばうまく対処できるだろう。ヒトハが空を自由に飛び回る姿を思い出しながら、ラギーはそう結論づけたのだった。

***

(ああ、楽……)

 一方、ヒトハはゴミ袋を箒の柄にぶら下げて悠々と空を飛んでいた。
 ナイトレイブンカレッジの上空はやたら大きな校舎以外に遮るものがなく、とても穏やかだ。運動場で生徒たちが箒の練習をしていることがあるが、それさえ気を付けていれば難しいことは何もない。

「やっぱり申請してみるものだなぁ。箒くん、これからよろしくね」

 ヒトハは飛びながら、上機嫌に箒の柄をさすった。

「……あれ?」

 さすりながら「何かおかしい」と気が付いたのは、オンボロ寮の上空あたりを飛んでいた時だった。
 魔力が少ないとはいえ出力を控えているわけでもないのに、なぜか高度が落ちてきている。おかしいと思いつつ魔力を込めても上がるどころか緩やかに下がるばかりだ。

「どうして?」

 とぽつりと呟いたが、当然誰も答えてくれる人はいない。
 それならばいったん降りようかと試みたが、今度は高度を落とせないということに気が付いた。つまり、上がるも下がるもできないという宙ぶらりんの状態である。

「いや……いやいや、そんなまさか」

 ラギーはこの箒を譲ってくれた時にメンテナンスはしていると言っていた。ヒトハはしばらく考えを否定し続けたが、三度降下を試みて上手くいかず、ようやく認めたのだった。

「あ、壊れてるわ、これ」

 あとは何もかもが早かった。
 緩やかに降下を続けていた箒は、ついにこのまま行くと敷地外に出てしまう所まで来てしまった。敷地の外枠を覆うような森を抜けると崖。そして賢者の島を囲う海。落ちたら死ぬに決まっている。まずいと思って旋回しようとしても制御は効かず、どうにかして一刻も早く地上に降りなければならない。
 ヒトハは苦肉の策で普段箒に込める何倍もの魔力を無理やり叩き込んでみることにした。普通の魔法士ならなんともないことだが、魔力貧弱問題を抱えるヒトハにしてみれば、一か八かの賭けである。

「ううっ」

 自然と柄を握る手に力が入り、身体中から魔力が抜けていくような脱力感が襲ってくる。これ以上は無理という所まできたところで、ついに箒が反応した。

「やった! ……え?」

 箒はぴたりと動きをやめたかと思うと、急にやる気を出したかのように急降下を始めたのだった。

「いっ、いやあぁあああ――――っ!!」

 ヒトハは箒にしがみつきながら絶叫した。
 辛うじて振り落とされることはないが、明らかにスピードが違う。遺憾なく発揮された競技用箒の性能が拍車をかけている。止まるように再度魔力を込めようとしたが、さっきほどの魔力はもう残っていない。向かう先は学園の敷地ギリギリの所にある森だ。急激に近くなる地上に恐怖を感じて、ヒトハはほとんど本能的に杖を取った。

(死にたくない……!)

 ――午後の最終授業へ向かう休憩時間。従者を伴った生徒が、ふと外に目をやった。

「若様、どうなさいましたか?」
「……いいや」

 その日、学園の端の端、深い森で鳥が一斉に羽ばたいたのを目撃したのは、その生徒ただ一人だけだった。

***

「――はっ!」

 森だ。鬱蒼とした不気味な森。
 ヒトハは次に目を覚ました時、朦朧とした頭で自分の居場所を悟った。頬にかさついた木の葉が張り付いて、ぱきぱきと折れる乾いた音が耳に響く。痛む体に鞭打って握りしめていた杖を振り、小さな灯りが点ってやっと、ヒトハは自分が墜落したのだと思い出したのだった。
 のろのろと起き上がり頭を振ると、木の葉が一枚降ってくる。頭上の木の枝がいくつも無残に折れ、木々の間には大穴が空いていた。
 どうやら最後に使った魔法でうまく着地はできたらしい。いつもの埃を集めるために使っている風の魔法を、こんな風に使う日が来るとは思ってもみなかった。ヒトハは杖の魔法石が少し濁っているのを見て、深々とため息をついた。
 しかしこれはどうしたことだろうか。ぽっかりと空いた穴から丸い月が覗いている。なぜか辺りは夜になっているのだ。

「まさか、魔力切れで寝てた……?」

 午後の仕事はまだ終わっていなかったのに。先輩に迷惑をかけてしまったかもしれない。もしかしたら今ごろ必死に探しているかも。

「はぁ」

 体は痛むし、ここがどこなのかも分からないし、帰り道も知らないし、もう最悪だ。とはいえ、いつまでもこうしてはいられなかった。
 第一、怖いのだ。こんな暗い夜の森など誰が好き好んで来るだろうか。どこか遠くから不気味な鳥の鳴き声がするのをなるべく聞かないようにしながら、ヒトハは杖先の灯りをうろうろと動かした。近くにある木の幹に恐る恐る触れ、支えにして立ち上がろうとしたところで足首に鋭い痛みが走る。

「いたっ」

 最悪なことに、ヒトハは墜落の衝撃で片足を挫いていた。なんとか立ち上がれても支えがないまま歩き回るのは困難だろう。

(支え……)

 藁にも縋る思いで地面を照らすと、無残にも粉砕された箒が辺りに散らばっている。体を支えられる棒ですらなく、ヒトハはどっと気力を失って木に体を預けて座り込んだ。
 魔法で灯りを点すのも、やっと魔力が回復してきたかと思うくらいで長く続けられる気がしない。それなら朝まで待って移動するのが得策か――いろいろ考えて、嫌になった。

「ついてないなぁ、もう」

 前を向いても横を向いても暗闇だ。仕方なく唯一明るい空を見上げる。月はヒトハをあざ笑うかのように酷く白々しく輝いていた。
 思えばナイトレイブンカレッジに来てからというもの、手を溶かしたり、箒で墜落したりと今までの生活では経験しなかったタイプの不運続きだ。その分、得られたものも多かったと理解はしているが。
 この学園の生活は楽しい。生徒は変わった子が多いが大体はいい子だし、周りの大人も――変わった人が多いのは確かだが、悪い人はいない。週に一度の苦行だってクルーウェルと雑談をする日だと思えば、実はさほど苦痛ではなかった。

(ああ、先生通りかからないかな……)

 と、ありもしないことを考えるくらいには疲れている。眠たいし、お腹は空くし、何より寒い。あの日貸してもらったふわふわのコートが恋しい。

「ヒトハ?」

 だからまさかこんな状況で都合よく誰かが現れるとは思わず、ヒトハは夢かと思ってしばらく沈黙した。

「……セベクくん?」
「何をしているんだ、こんな所で」

 それはこっちの台詞だ。と言おうとして、声が喉に張り付いたかのように出てこないことに気が付く。
 セベクが持つランタンは周囲を明るく照らし、ヒトハの緊張で強張った心を優しく解き、そして底の見えない恐怖を思い出させたのだった。

「あ――あの、箒で、お、おち、おちて……」
「わ、分かったから、落ち着け」

 言葉がうまく出てこない。あわあわと何かを言おうとするヒトハの前に片膝をついて、彼はランタンを手放すと、ヒトハの両肩に手を置いた。思っていたよりずいぶん身体が冷えていたのか、じんわりと温かさが伝わってくる。

「なっ……泣いているのか!?」

 セベクがぎょっとして叫び、ヒトハは慌てて目を拭った。あまりにもぼろぼろと出てくるせいで拭う手が追い付かない。

「な、泣くな!!」

 とうとうセベクが困り果てて大声を上げ、ヒトハはびっくりした勢いで涙を引っ込めた。すると急にどうして泣いていたのか分からなくなってきて、ふつふつと笑いが込み上げてくる。

「ふ、ふふ……こ、声、大きいんですよ……」

 ヒトハはセベクを取り残したままひとしきり笑い、そうしてやっと、いつも通りに落ち着いたのだった。

 ヒトハが箒の故障で落ちてしまったことを説明すると、セベクは「それは……災難だったな」と気の毒そうに言った。彼には災難なシーンを見せてばかりだ。

「それで足を挫いてしまいまして。肩を貸していただけます?」

 セベクは頷きヒトハの腕を取ると、ゆっくりと丁寧に引き上げた。ヒトハはそのまま肩を借りようと手を伸ばし、そこで気が付く。

「肩、高いですね」

 借りる肩が高すぎる。ヒトハの身長では無理をして手を伸ばさなければ腕が回らず、これでは肩の関節を痛めてしまう。伸ばした手をうろうろと彷徨わせていると、セベクはほんの少しの思案の後、ぽつりと呟いた。

「抱えるしかないか……」
「か、抱え……?」

 抱えるということは、つまり、あのよくある“お姫様抱っこ”とかいうやつになるのだろうか。こんな緊急事態で躊躇っている場合ではないのは分かるが、それにしたって恥ずかしい。

「う、うーん」
「手が空かないのは困る。ランタンを持ってくれ」

 セベクは持ってきたランタンをヒトハに手渡すと、背を向けてしゃがみ込んだ。

「…………“背負う”って言ってくださいよ」

 ヒトハは声を絞り出した。その姿をきょとんとして見上げるセベクは、年相応の純粋な目をしていた。

 セベクはヒトハを背負うと、すんなりと立ち上がって迷うことなく歩き出す。それは普段とほとんど変わらない歩調で、ヒトハはまるで空気にでもなったかのような気分になった。
 しかし順調なのは最初だけで、森を抜けるまでの道のりは容易なものではなかった。人が歩く道らしきものはあるが足場が悪い。たまにセベクが足を滑らせ、そのたびにヒトハは小さく悲鳴を上げる羽目になってしまった。
 それに、バランスを崩さないようにお互い引っ付いていないといけないのが辛い。身じろぐとセベクも居心地悪そうにするし、お互いに全く落ち着かない。唯一、顔が見えていないというのは好都合だった。変な雰囲気になるとヒトハはランタンを無心で見続けたし、セベクはとにかく沈黙を貫いた。

「そういえば、セベクくんはどうしてここに?」

 長い沈黙に耐えかねて、ヒトハはずっと気になっていたことを聞いてみることにした。思えばこんな所にわざわざ来る理由などあるわけがないのだ。
 セベクは急にいつもの調子に戻ったように、ふふんと鼻を鳴らした。

「若様が『森の様子がおかしい』と仰るから見に来たのだ」
「ということは若様のおかげですね。若様、ありがとうございます」

 ヒトハがまだ見ぬ若様に感謝を述べると、なぜかそれがセベクの逆鱗に触れた。

「『偉大なるマレウス・ドラコニア様』とお呼びしろ!!」
「いっ、偉大なるマレウス・ドラコニア様、ありがとうございます!」

 ヒトハはよく分からないまま、セベクと同じように勢いよく復唱した。森に響き渡る大声に、静かだった森がざわざわと騒がしくなる。
 彼は自分以外の者が若様を“若様”と呼ぶことがどうしても許せないらしい。他の者には呼ばせたくない特別な呼び方なのか、ただの忠誠心なのか、それが彼の出身地である茨の谷流の礼儀なのかは分からなかったが。それにしても、だ。

(“マレウス・ドラコニア”……どこかで聞いたような?)

 その名を口にした後、ヒトハは小さく首を傾げた。どうにも思い出せないが、その名前は聞いたことがあるような気がする。気になってしばらく記憶を漁ってみたが、結局は何も思い出せなかったのだった。

「セベクくん、なんだか色々すみません」

 気まずくなった雰囲気をどうにかしようと思って、ヒトハは控えめに言った。
 思えばこうして無事に森から抜けることができるのも、彼が頑張ってくれているからだ。いくら力持ちとはいえ、成人女性を背負って足場の悪い森を歩くのは並大抵のことではない。
 セベクはややあって、静かに答えた。

「いや、人間は脆いからな。僕が見つけられてよかった」
「あれ? セベクくんって人間じゃないんですか?」

 と、ヒトハが何気なく口にした疑問は、予想外に彼の逆鱗をもうひと撫でしてしまう結果になってしまったのだった。

「僕は人間じゃない!!」
「ごご、ごめんなさい!!」

 再び森がざわつき始め、鳥の群れが一斉にはばたく。今夜の森の住民たちは、ひどい寝不足になっているに違いない。

 木々のすき間を縫い、月明かりがわずかに差し込む夜の森。手にした魔法のランタンが上下に揺れながらチカチカと周囲を照らす様子は、こんな状況でなければもう少し楽しめたのではないだろうか。ヒトハは広い背中に揺られながら、そんなことをぼんやりと思った。
 遠い昔に読んだ冒険ものの本にこういったシーンもあったような気がするし、ランタンを持って夜の森を行く場面は、きっと絵本でも見た。もし今ひとりであったなら、そんな風に思うことはなかったかもしれない。

「セベクくん、私、こんな状況で言うのもなんですけど」
「なんだ」
「これ、冒険みたいでちょっと楽しいですね」

 伝えたいことは本好きのセベクにもなんとなく伝わったのか、彼は「ああ」と思い至ったように小さく笑った。

「自分の足で歩いてから言ったらどうだ?」
「た、たしかに……」

 それなら今度、夜のピクニックでもしませんか。と誘ってみると、セベクは考える間もなく若様の護衛で忙しいのだと断った。彼にとってはどんな娯楽よりも、美しい光景よりも、何よりも若様が大切なのだ。そんな大切なものを持っているセベクが少し羨ましくて、彼の背に揺られながら、ヒトハはこっそりと寂しく微笑んだのだった。
 そうこうしているうちにすっかり森を抜け、二人はちょうどオンボロ寮の裏側のあたりに出た。寮の窓からは温かな光が漏れている。もしかすると、今はそんなに遅い時間ではないのかもしれない。
 冷えた風が首筋を撫で、ヒトハは首を捻って森へ振り返った。森の入り口は先の見えない暗闇だ。若様のためとはいえ、よくあんな所をひとりで歩いて来れたものだ。

「もしかして、保健室まで送ってくれてるんですか?」
「当たり前だろう。僕は怪我人を放って帰るほど薄情じゃないぞ」

 セベクは校舎に着いてもヒトハを降ろそうとはしなかった。そしてヒトハは彼が少し汗ばんでいるのを知っていながら、おとなしく身を預けていた。なんだか悪いことをしている気になったが、それでも彼の善意が嬉しかったのだ。
 校舎には当然人けはなく、等間隔に並んだ燭台の灯りの中、とぼとぼと歩く。いつかの怪我をした日みたいだ。
 ヒトハは思い立って「あのですね、」と囁いた。

「このことは内密にお願いします。特に同級生のエースくんには。あの子、すぐ私をからかおうとするんです。それから先生、クルーウェル先生にも……」
「言うわけないだろう。わざわざ僕から言う必要も、機会もない」
「そ、そうですよね」

 焦りのあまり変なことを口走ってしまった。恥ずかしさを誤魔化すように、もう不要になってしまったランタンを握り直す。

「ほう? 俺に、何を、秘密にするんだ?」
「それは箒で墜落して……あっ!?」
「うっ」

 ヒトハは突然横から割って入った声にびっくりして、思わず両腕でセベクの首をきゅっと絞めた。手前から短い呻き声が上がる。クルーウェルが指揮棒を肩にトントンと叩きつけながら廊下の分岐点に立っているのに、二人は全く気が付かなかった。

「せ、先生……」

 それが思いのほか近く、ヒトハはなるべく遠くに身体を反らした。セベクの背にいるせいでほとんど視線の高さが同じになっていて、なんとも気まずい距離感だ。

「ステイだ、仔犬ども」

 クルーウェルは硬直する二人の様子を興味深そうに見て「なるほど」と笑った。

「なかなか酷い目にあったようだな」

 そしてヒトハの頭に手を伸ばすと、赤い手袋に木の葉を摘んでくるくると指先で弄ぶ。
 ヒトハは自分が間抜けな姿をしていたことに気が付いて、慌てて前髪辺りを押さえた。ずっと葉っぱをくっつけてここまでやって来たのだろうか。誰に見られていたわけでもないが恥ずかしい。
 クルーウェルは摘まんだ木の葉を魔法の炎で燃えかすにしてしまうと、顔を赤くするヒトハを見て小さく鼻で笑った。

「この時間帯なら保健室はまだ開いている。仔犬、さっさと連れて行ってやれ」

 彼はそれだけ言って踵を返し、ふと足を止めて振り返った。

「ナガツキ」
「はい」
「明日、昼休みに魔法薬学室だ。いいな」
「はい」

 無人の廊下を歩いていくクルーウェルを見送りながら、ヒトハは首を傾げた。

「……ん? なんで?」
「よく分からないが、行った方がいいだろう」
「で、ですよね……」

 こうして、ヒトハの長くて災難な一日は幕を閉じることとなった。
 翌日、まだ治りきらない足を引きずって先輩に謝りに行くと、先輩は「え? そうだったの?」と言ってまったく気にした様子がなかった。この様子だと、もしうっかり死んでも「え? 死んじゃったの?」で済まされてしまうかもしれない。なんだか納得はいかなかったが、ヒトハは給料泥棒の烙印を押されないだけいいか、と思うことにした。そして当然のことだが、学園内は自分があれだけの災難に見舞われたというのに、いつも通りに日常が回っていた。それがなんとも不思議な感じで、セベクと森を抜けた短い冒険はまるで夢だったかのようだ。
 その日の昼休みを迎えると、ヒトハは約束通り魔法薬学室の扉を叩いた。クルーウェルは自分で言っただけあって、すでに教壇の椅子で堂々と足を組んで待っている。

「来たか」

 そう言ってやたら大仰に長い足を組み替えるので、何か悪いことしてしまったかのような気がして落ち着かない。そこでヒトハは、昨日起きたことを洗いざらい吐かされる羽目になった。

「それで、どうしてそのことを隠す必要があるんだ」
「だって、恥ずかしいじゃないですか。箒で墜落なんて……。それにセベクくんにも迷惑をかけてしまったし。だから、その、昨日のことは忘れてください……」
「まぁ、たしかになかなか面白い光景ではあったが。俺はそれをどうこう言うために呼んだわけではない」

 クルーウェルはヒトハの前にいつもの小瓶を置いた。嫌な予感がしながらも手に取り、光にかざす。濁った沼の色の液体。気泡が浮かび、見るからに気持ちが悪い。いつもと同じ魔法薬だと気が付いて、ヒトハは渋い顔をした。

「これは……いつもの? まだ一週間経っていませんが」
「そもそもそれは治癒能力を高める魔法薬だからな。せっかく治療中なのに怪我を増やしてどうする。飲んでおけ」
「せ、先生……!」

 でもこれは、いらないかもしれない。などと言うわけにもいかず、ヒトハはいつものように苦しみながら飲み干したのだった。翌日には何もかもが治っていたから、魔法薬とはやはりとても便利なものである。
 後日、箒が故障したことをバルガスに報告すると、今度は気前よく新品を提供してくれることになった。「やはり中古はよくない!」と豪快に笑われると多少抱いていた怒りもすぐに萎んでしまう。
 ヒトハはそのままグラウンドの隅で傷ひとつ入っていない箒を眺め、あの苦い思い出に浸った。あれだけ憎たらしかった月も、今思えばそれなりに綺麗な満月だったかもしれない。
 なにはともあれ、ここには誰の手垢もついていない新品の箒がある。ヒトハは人知れず、にっこりとした。

(良いもの貰っちゃった!)

 安全第一、安定した飛行の一般家庭用箒を大事そうに抱えて、ヒトハは今日も仕事場へ向かった。

送信中です

×

※コメントは最大10000文字、5回まで送信できます

送信中です送信しました!