清掃員さんとフェアリーガラ
06
チリーン……
グラスを鳴らしたかのような、細い音が波紋のように広がって消えた。
ヒトハは浅い眠りから覚め、辺りを見渡した。
あれはフェアリーガラの会場で響き合っていた音だ。あのときは一斉に鳴り響く迫力に圧倒されていたが、こうして心を落ち着けて聞くと、心地良くもある。一体どこから聞こえてきたのだろう。
ヒトハは温室が夜の色に染まりかけているのを見て、口元に手を添え、大きなあくびをした。
(今、何時だっけ)
少しの休憩のつもりだったけれど、外気の清々しさについ深く寝入りそうになっていたらしい。それほど時間が経っていないのは分かっていたが、正確にどれ位かは分からなかった。
ヒトハはポケットに忍ばせたスマホに手を伸ばそうとして、ふと顔を上げた。
チリーン……
(まただ……)
その音は先ほどよりよく聞こえ、ヒトハは首を回して音を探した。フェアリーガラの会場はそれほど遠くはないけれど、彼らの声はこんなところまで響く大音量というわけでもない。もしかすると、近くに妖精が──
「わぁ!?」
ヒトハは目をまん丸に見開いてのけ反った。
植物園の方角、目と鼻の先に妖精が飛んでいる。燃える夕焼け色の妖精は、火の妖精だ。アーモンド形の目を輝かせ、口元はにっこりとしているものの、笑顔はちょっとぎこちない。
彼は小さな口を動かして何かを一生懸命に言っているようだが、ヒトハは首を捻ることしかできなかった。何を言っているのかまったく分からないのだ。
「え、えっと……」
妖精の様子を見るに、どうやら喜んでいるらしい……というのは分かるのだが、ヒトハにはその理由が思い当たらない。
しかも、さっきまで生徒たちに「妖精に人間であることがバレないように」と細心の注意を払わせていたから、こうして顔を突き合わせていると、とても居心地が悪いのだ。
しかし妖精はすっかり萎縮してしまったヒトハを置いて、構わず喋り続けた。
『人間さん、ドワーフ鉱山ではありがとうございました!』
「ん?」
『おかげで命拾いをしました。それから、魔法石だけ置いて行ってごめんなさい。でも、大事にしてくれているみたいで、僕、とても嬉しいです!』
「ええっと……」
『それに他の妖精のことも助けてくれたって聞きました。だから今日は、みんなを代表してお礼をしに来ました!』
「あのぉ……」
『これです! 女王様から預かって来たこの魔法の鏡で、人間さんの願いを一つ叶えたいと思います!』
ぽん、と手渡された手のひらよりも小さな鏡。美しい飾りで囲われた楕円形に、細っこい取手が伸びている。手鏡の形をしているそれを摘んで、ヒトハはくるくると回しながら観察した。
妖精サイズで言えば大きいのだろうが、人間からすると、おままごとで使うような小さな鏡だ。鏡面は曇りひとつなく、はっきりくっきりと惚けるヒトハの顔を映し出している。
これに何の意味があるのかは分からないが、価値があるものだというのはよく分かった。
『その鏡に向かって一つ願い事を言ってください。魔法の力で、人間さんの願いを叶えてくれます』
相変わらず妖精は鈴の音で喋っていて、何を言っているのか全然分からない。
ヒトハは彼が小さな指先でツンツンと鏡を指差すジェスチャーだけを見て、小さな鏡に目を落とした。
それにしても、よく見える鏡である。
鏡には連日の仕事で疲れ切った顔が克明なまでに映し出されていた。目の下の重い隈とか、疲労に耐えきれず崩れた化粧とか。とにかく、酷い有様だ。
ヒトハはその疲れ切った顔を前にして、つい感想を呟いた。
「うわっ、酷い隈……」
中指の先を目の下に当てて引き伸ばす。影でも何でもない、これは隈だ。それに眠そうな目。頬に吹き出物もある気がする。極東で働いていた時のことを思い出すくらいの、最悪なコンディションだ。もうすっかり無縁の生活だと思っていたのに。
だからヒトハは、当然のように願った。
「はー……明日、働きたくないなぁ」
それから、
「眠い……いっぱい寝たい……」
そして頬に手を当て、ため息をついた。
それでも、フェアリーガラなんてなければよかった──なんてことは思わない。あの美しい光景。あの瞬間、時が止まればいいのにとさえ思った。
ヒトハは隣で何かを一生懸命言っている妖精に目をやって、眉を下げて笑った。フェアリーガラの会場の様子が、ぼんやりと頭に思い出される。たくさんの妖精がいて、たくさんの歓声を聞いた。自分がデザインしたわけでもないし、ランウェイを歩いたわけでもないのに、自分のことのように誇らしかった。
ヒトハは再び鏡に目を落とす。
「ずっと見ていたかったな、フェアリーガラ……」
その瞬間、ヒトハは目の前が真っ白になるほどの光を見た。
「ええっ!?」
しかしその後の光景を見ることは、なかったのだった。
***
大変なことになってしまった。
火の妖精は赤い顔を真っ青にしながら、同じところをぐるぐると飛び回る。
急に鏡が光ったかと思えば、人間──ドワーフ鉱山の恩人がパタリとこと切れたように倒れてしまったのだ。握った鏡からは輝きが消えて、鏡面は黒く燻んでいる。
(もしかして願い事、使い切ったってこと!? で、でも、そんなことって……)
女王は“ひとつ”と言った。それだけでも大問題だが、それ以上に彼女が今どういう状況に置かれているのかが分からないというのが問題だった。妖精は彼女の言うことを何一つ理解できなかったのである。うっかり翻訳機を置いて来たばかりに。
(願い事のせいなら、一体どんな願い事をしたんだろう?)
話が通じてないらしい、というのは途中で気がついたから、そのときに鏡を取り上げればよかったのだ。こんなことになるなんて思いもしなかった。
(いいや、そんなの、言い訳だ……)
妖精はかぶりを振った。そもそもこれは、あれだけ忘れないようにと思っていた翻訳機を忘れてしまった自分の失態によるものだ。
もし、このことを他の妖精たちに──女王様に知られてしまったら。
妖精はぶるぶると震えた。体に纏った炎が不安定に揺れ、ベンチに倒れた彼女の頬をちらちらと照らす。
「な、何とかしないと。でも、どうしたらいいんだろう……」
夜の帳が下りた学園の片隅。目立たないベンチと、そこに倒れる一人の女性。傍にいる妖精は悲壮な顔をして、周囲を慌ただしく飛び回っては彼女の体を揺する。
途中で女性のポケットからスマホが震える音が鳴り始めたが、妖精の鈴の音にかき消され、誰に気づかれることもなかった。
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