魔法学校の清掃員さん
07 清掃員さん、残業をする
いつもの時間に魔法薬学室に入ると、ヒトハはすぐさま異変に気がついた。
それは三列目の棚の薬草があらぬ方向に伸び始めているとか、棚のガラスが割れているとか、いつもよりずいぶん部屋が冷えているとか、そういう些細なことではない。
今日、魔法薬を貰うつもりで訪れたこの教室の主、デイヴィス・クルーウェルが眉間に深い皺を刻みながら猛烈な勢いで魔法薬を調合しているのだ。調合自体は何度か見てきたが、今日に限っては何かに追い立てられているようである。あの上等なコートを脱ぐばかりか腕捲りまでしているあたり、余裕がないのだろう。
(話しかけづらい……)
見事なまでの手際の良さは見惚れるほどではあるけれど、あまりに隙がないせいで足音を立てることすら憚られる。ヒトハは特に意味もないと分かっていながら、忍び足で教室の奥へ踏み込んだ。
「あの、」
ヒトハが恐る恐る声を掛けると、クルーウェルはそこでやっと顔を上げたのだった。
夢から覚めたかのように一瞬呆然として、そして落ちてきた前髪を鬱陶しそうに搔き上げる。元々つり目がちなのに、苛立っているせいか舌打ちまで聞こえてきそうだ。
「お忙しいところすみません」
「いや、今日は――そうだったな」
そう言いながらきっちりと魔法薬は用意してあるところが几帳面である。
「ありがとうございます」
ヒトハは気にしていないふりをしながら魔法薬と水をありがたく頂戴して、躊躇うことなく薬を飲んだ。少しでも手間をかけさせようものなら、いつか泣きながら魔法薬学室から飛び出してきた可哀相な仔犬のようになってしまうに違いない。
そして言い様のない気まずさを抱えたままヒトハが教室の水道で瓶とグラスを洗っている最中、クルーウェルは糸が切れたように椅子に座り込んで眉間を揉んでいた。どうやら彼は、あの調合の作業をかなり長い時間続けていたらしい。元々忙しい人であることは知っていたが、これだけ疲労を表に出しているのは珍しいことだった。
「その、忙しそうですね」
重い沈黙に耐えかねてヒトハが何気なく放った言葉は、意外にも彼の興味を引くに足るものだったらしい。クルーウェルはふと顔を上げて疲れ切った目でヒトハを見返した。
「今日の授業で、駄犬どもがな」
心底忌々しそうな語り口だ。もしかしたら、誰かに聴いて欲しかったのかもしれない。ヒトハはなんだか嫌な予感がしながらもクルーウェルの話に耳を傾けた。
彼の話によると、今日の授業中に足を滑らせた生徒が薬品棚にぶつかって、明日の実技試験用に購入していた魔法薬をぶちまけてしまったのだという。大量に発注していたものだったから、さすがに今から取り寄せることはできない。かろうじて素材の入手はできたので急ぎ調合して間に合わせようとしている、とのことらしい。
「うわぁ……」
ヒトハは思わず引き気味に声を漏らした。
生徒の試験用となればかなりの量が必要になる。品質だって全て同じにしなければならないから雑な作り方はできない。しかも試験内容は当然非公開で、誰かに手伝わせるわけにもいかないのだ。問題の生徒がどれだけの罰を与えられたのかは分からないが、少なくとも泣きながらこの教室から出て行ったことは間違いないだろう。故意でなければとんだ不運である。
けれどそれ以上に、ヒトハは大人の立場としてクルーウェルに同情した。後輩の仕事の失敗をフォローしに駆け回る過去の自分に、どこか重なってしまったのかもしれない。
「手伝いましょうか……?」
ヒトハは無意味かもしれないと思いながらも、控えめに尋ねてみた。自分にできることがあるかは分からないが、ここで「そうなんですね」と言いながら帰るような薄情者ではないつもりだ。
クルーウェルはヒトハの申し出に、少しの間考え込んだ。
「確か魔法士養成学校を出ていたな。魔法薬学の成績は」
「普通…………より、ちょっと上?」
「なんで疑問系なんだ……」
クルーウェルがきゅっと眉を寄せる姿からそっと視線を外す。
ヒトハの成績は在学中、ほぼど真ん中だった。その原因は一般的な魔法士に比べて圧倒的に少ない魔力量にある。箒で飛ぶのは得意だ。浮遊魔法だって、生活魔法だって嫌いではないし、器用さのいることは大体できる。ただし一時的なもので持続力がない。持続力がないのでは使い物にならない。そこで実技で取れない成績を座学でカバーしたところ、プラスマイナスがゼロになり、平均に落ち着いたという奇妙な立ち位置だった。座学だけなら平均を超えるのだから嘘というわけでもない。
当時の教師が口を揃えて「お前にもっと魔力があれば」と嘆くほどだから、かなり稀な存在なのだろう。大体こういう魔法士は専門校に行かないのが普通で、もっと別の人生を歩むものだ。
クルーウェルは再び眉間を抑えながら考え込むと、決心したように顔を上げた。
「贅沢は言えないか。手を借りることにしよう」
彼は立ち上がり黒板の隣に来ると、「カム」と指先でヒトハを呼び寄せた。
言われるがままに駆け寄り、隣に立つ。するとヒトハは彼が思っていたよりずっと背が高いことに気がついた。頭ひとつ分ほど大きく、顔を見るには仰ぎ見なければならない。以前初めて魔法薬を飲んだ時も隣に立ったが、あの時は余裕がなかったから気が付かなかった。
彼はヒトハを見下ろしつつ言った。
「調合はいいとして、素材の計量を頼めるか?」
「分かりました」
「よし。では必要な素材と分量はここに書いておくから、間違えないように」
クルーウェルが黒板と向き合い、流れるように文字を書いていくのをヒトハは目で追いかけた。彼が書き出したものはどれも学生時代に使用したことのあるもので、知識だけならほとんど衰えていない。当時の魔法薬学の先生が厳しかったことも幸いして、肝心の計量方法も覚えている。
「できるか?」
クルーウェルは書き終えると、両手に残ったチョークの粉を叩き落としながら確認した。
ヒトハはその問いに、迷うことなく頷いた。
「はい、できます」
それからはひたすら計量の作業だ。三種も四種もある素材を、それに見合った方法で延々と量っていく。
ヒトハが教室に訪れたのは夕方頃だったが、気づいた時には夜が更けていた。この時間帯の魔法薬学室はひどく静かだ。ふたりぼっちでひたすら作業をする物音と、外の木々が時折ざわめく音だけが耳に響く。夜が深まってくると次第に部屋が冷え込んできて、ヒトハはその静寂の中、たびたび控えめに鼻をすすった。少し前までは汗ばむ日もあったというのに、この時期になると夜は寒さが際立ってどうにも体によくない。
こうしてそろそろ終わりが見えてきたかという頃に、カタン、と何かを取り落とす音がした。かと思えば後を追うように小さく舌打ちが聞こえてくる。
手を止めてちらりと盗み見ると、クルーウェルは机に手をついて再び眉間を揉んでいた。朝早くからの仕事に加えて残業時間ははずっと同じ作業の繰り返しだったのだから、とてつもない疲労を抱えているのだろう。
ヒトハは手元の残りを確認して、数時間ぶりに言葉を発した。
「あの、少し休まれたらどうですか? このペースなら少し余裕ありますし、私の作業は先生が休まれてる間に片付けてしまうので」
クルーウェルはヒトハの残りと自分の残りを見比べて、深く息を吐いた。
「そうさせてもらおう」
よほどの疲れだったのか、はたまた気を遣ったのか。彼はヒトハの提案をすんなり受け入れて、近くにあった椅子に深く腰掛けた。
「一時間後に起こしてくれないか」
「わかりました」
ヒトハが魔法薬学室の時計を見上げて時間を確認している間に、クルーウェルはもう足と腕を組み、目を覆って俯いている。これだけ無防備な姿を見るのは初めてだった。普段の彼は生徒たちを厳しく指導する人で、そして自分自身の振舞いにも妥協を許さないような人だ。まだほんの数週間程度の関わりだが、それだけはヒトハにも充分理解できていた。
まさしく隙のない人である彼が無防備を晒してくれるということは、多少は信用されているということだろうか。
ヒトハは残りの作業に取り掛かりながら、こっそりと口元を緩ませた。
「おわったー」
ヒトハは最後の計量を終えて、ため息と一緒に小さな声を吐き出した。硬くなった首を片手で揉みほぐしつつ時計を見上げると、針は約束より少し早い時間を指している。
さすがに疲れが押し寄せてきて、ふつふつとシャワーを浴びたいだとか、お腹すいただとか、そういった細々としたことが頭に浮かんだ。
(でも、先生ひとりだったらやっぱり無理だっただろうな)
そう思うと自分が手伝った意味があるような気がして、そんな些細な欲はどうでもいいことのように思えた。
ヒトハは計量用の器具を片付けた後、約束の時間ぴったりにクルーウェルを起こすことにした。努めて気にしないようにしていたので今更だが、驚いたことに一時間前と同じ姿でぐっすりと眠っている。この姿があのやんちゃな生徒たちに見つかったなら、どのような目に遭うか分かったものではない。
起こしてくれとは言われたものの、さてどうやって起こそうか。
「先生、一時間経ちましたよ」
まずは数歩遠くから控えめに声をかけてみたが、熟睡しているのか起きる気配がない。ヒトハはちょっと躊躇って、肩を揺すってみることにした。
正面に立って肩に手を伸ばし、ふと直前のところで手が止まる。
(共学だったら大変だっただろうな……)
美人は三日で飽きるというが、全く飽きる気がしない。極東にいる多くの人たちとは顔の造りが違いすぎる。ヒトハはクルーウェルの睫毛が頬に影を落とすのをしげしげと眺めた。神経質そうな眉も、形よく通った鼻筋も、どこを切り取っても整っている。深い色のアイメイクがどうしてこうも似合うのだろう。
そんな妬みのようなことを思いながら、ヒトハは自分の学生時代を思い出した。自分を指導してくれた魔法薬学の教師といえばいかにもな学者風情のある人で、性格はずいぶんと変わっていたものだ。クルーウェルと違って見た目にあまり頓着しない方だが、性格だけでいえば少し近いところがあるかもしれない。自他共に厳しく、そしてちょっと曲がっている。
ふ、と堪えきれずに笑いを漏らしたところで、クルーウェルの固く閉じられていた瞼が微かに揺れた。ヒトハはなんとか取り繕おうとして、慌てて伸ばした手を引っ込めた。
寝顔を見ていたなんて失礼なことが知られたなら、今度こそどうなるか分かったものではない。
「おっ……おはようございます! 先生、一時間経ちましたよ!」
「あ、あぁ――おはよう」
クルーウェルは半分寝ぼけているような、すっきりしない顔のまま言葉を返した。「おはよう」と言いながら、まだ草木も眠る深夜である。
ドキドキとしたまま、ヒトハは「素材、そこに置いてますから」と早口に言った。そこ、と指差した机には自分でも驚くほどの数の素材が並んでいる。
「じゃあ私、作業終わったので寝ますね! 終わったら起こしてください!」
半ば混乱したままそう言って、適当な生徒用の机に突っ伏す。終わったなら帰って寝ればいいのに、とすぐに気が付いてしまったが、寝る態勢に入ってしまった手前言い出すわけにもいかない。ヒトハは熱くなった耳をそのままに、渋々目を覆ったのだった。
***
ヒトハは夢の中で何かを懸命に撫でていた。その何かとは白と黒の美しい毛並みを持った犬で、四つ脚で立てばちょうど太腿あたりまでの大きさがある。耳は垂れていて、目は黒々と愛らしい。その犬の背を何度も何度も上から下へと撫でていると、突然疑問が湧いてきた。
(――なんで犬?)
はっ、と息を吹き返すように覚醒して、ヒトハは伏せていた上半身を素早く起こした。
そこは魔法薬学室だった。人工的な灯りの中、窓から薄ぼんやりと夜明けの鈍い光が差し込んでいる。夜の寒さが尾を引いて、わずかに冷めた湿気が肌に纏わりつく。ヒトハはいつの間にか冷たくなった鼻をすすった。
(変な夢を見てしまった……)
と寝ぼけたまま視線を落とすと、なんとクルーウェルがいつも着ているあの毛皮のコートが落ちていた。
「うっ、うわっ!」
慌てふためいてそれを拾い上げ、パタパタと埃を払う。こんな高級な服は持っていないから、それが正しいことなのかはよく分からなかったが。
初めて触ったコートは驚くほどにふわふわだった。夢で何度も犬を撫でていたのはコートのせいだろうか。手袋をしているにもかかわらず無意識に何度も撫でてしまう心地よさだ。
そこでふと、ヒトハは部屋にひとりきりになっていることに気がついて辺りを見渡した。クルーウェルが使っていた机にはきっちりと魔法薬が並べられている。どうやらあの大量の調合は間に合ったらしい。
「起きたのか」
肩を跳ねさせ、声のした方へ振り向く。いつの間にかクルーウェルがマグカップを両手に持ってこちらへ向かって来ていた。気が付けば薬草と土の香りの魔法薬学室にコーヒーの芳ばしい香りが漂っている。
クルーウェルはカップのひとつをヒトハの前に置くと、自身も隣の机に寄りかかって一息ついた。仮眠を取ったとはいえ、かなりお疲れの様子だ。
ヒトハは両手をマグカップで温めながら、ゆっくりとコーヒーをすすった。胃が温まってくると、そういえばお腹が空いたな、と空腹を思い出してしまう。
「終わったんですね」
「なんとかな……」
そのしみじみとした声には疲労と安堵が滲んでいて、ヒトハは苦笑した。彼をこれほどまでの状態にした生徒は、ある意味凄い子なのかもしれない。
「あ、これ。ありがとうございました」
思い出して、ヒトハは抱えていたコートをクルーウェルに差し出した。途端に早朝の空気が体を冷やしていく。眠っている間、気を遣って肩に掛けてくれていたのだろう。考えなしに眠ってしまったが、おかげで風邪を引かずに済んだ。唯一、着心地を知ることができなかったのは残念だったけれど。
「結局一晩中お前を付き合わせてしまったな。何か埋め合わせをしたいんだが、何がいいだろうか?」
クルーウェルの問いにヒトハは少しだけ考えて、首を横に振った。
「いつもお世話になってますし、気にしないでください。私にはこれくらいしかできないので」
そもそも見返りを求めようにも何も考えていなかったし、単に手伝いたいと思ったから手伝っただけだ。強いていうなら、毎週きっちり魔法薬を用意してくれることに何かひとつでも報いたかった。どちらかというと自分が借りを返したかっただけなのだと気が付いて、ヒトハは自分がどうしてこんなに必死だったのか、やっと腑に落ちた気がした。
「じゃあ私、これからシャワーを浴びに帰ります」
ぐっと両腕を上げて伸びをするとパキパキと肩が鳴った。やっぱり寝るならベッドがよかった、と後悔しつつ立ち上がる。さっさと出て行かないと余計に気を遣わせてしまいそうだ。
「ナガツキ」
「はい」
呼び止められて、ヒトハは上半身だけくるりと振り返った。
早朝の光の中に佇む彼の顔は、いつもよりもずっと疲れている。けれどそれと同時に、今までに見たことのない柔らかな表情をしているようにも見えた。
彼は薄い唇をふっと歪ませて小さく笑った。
「ありがとう」
「ふふ。どういたしまして。残業明けのお仕事頑張りましょうね、先生」
ヒトハはそれだけ言い残して、軽い足取りで魔法薬学室を後にする。
空の先が次第に色づき、光が薄く鋭く校舎を照らす。久々に見た夜明けの太陽が目に染みて、ヒトハはこっそり欠伸をした。
今日も一日、良い日になりそうだ。
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