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先生たちの授業研究会の話
「ということで、先生方には他の先生の授業に出席していただき、そこで得た気づきをご自身の授業でも活かしていただきたいと考えています。また、授業の後にはお互いに意見を交換し合い……」
クルーウェルは口元にそっと手を当て、奥歯を嚙み締めた。相変わらず中身の割に長い話だ。昔からまったく変わっていない。講堂に集められ、配られたペラペラのシラバスを前にもう三十分は経っただろうか。
長々と似たようなことを話し続ける学園長の姿から微動だにしないトレインの後姿に目を移し、そして手元の紙に落とす。
“公開授業研究会”。
他の教員の授業に出席し、授業内容の改善や指導法を研究しようという試みである。ナイトレイブンカレッジはツイステッドワンダーランドでも指折りの名門校であるから、教員の質も当然最高峰──なのだが、そこに胡坐をかいてはいけないということだろう。
この研究会は数度に分けて行われる予定で、今回対象になるのは魔法史の授業だ。教壇に立つ側は免れたが、代わりに生徒に紛れて教科書を開かなければならない。
(憂鬱だ……)
魔法史といえばモーゼス・トレインである。トレインの授業といえば学生時代も酷く退屈で、つまらない授業だった。風の噂では、授業内容はあれから一切変わっていないらしい。憂鬱すぎる。しかしこれを機に彼の古臭い授業が改善されるというのなら、意味のないことでもないのだろう。
「それでは、生徒たちのさらなる学力向上のために、ご協力をよろしくお願いします。実施は来週からですので、対象の先生方は各自準備をお願いしますね。では、本日は以上になります。ありがとうございました」
と学園長が言うと、講堂に集まった教員たちがぞろぞろと席を立ち始める。クルーウェルはシラバスの紙を折って手帳に挟み込み、彼らを追うように立ち上がった。
魔法薬学と錬金術の授業はまだ日程が決まっていないようだが、この様子ではいずれ自分の番が回ってくることだろう。それまでに打てる手は打っておかなければ。
考え事をしながら後方にある講堂の出口へ向かう途中、クルーウェルはほのかに甘い古書の香りに気がついた。
「トレイン先生」
クルーウェルの背後を歩いていたトレインは突然振り返った元教え子を見上げ、眉根を寄せる。その顔を見て、クルーウェルはにやりと笑った。
「トップバッターはトレイン先生だとか。先生の授業、十五年前からどれだけアップデートされているか楽しみにしていますよ」
するとトレインは眉間に寄せた皺を深くして、「何を言うかと思えば」と呆れた。
「君は優秀な生徒だったが、少々無礼なところがあったな。今回の公開授業では、君には生徒たちの模範となることを期待している。なに、十五年も経ったのだから難しいことではあるまい」
トレインはするりとクルーウェルの横を通り抜け、扉の前で振り返った。臙脂色のマントを翻し、遠い昔から変わらない眼差しでこちらを睨む。
「来週の授業は遅刻しないように」
彼の腕の中で丸まっていたルチウスが、気だるげな声でオアァと鳴く。クルーウェルは扉の向こうに消えていくトレインを見送って、ふむと口を曲げた。
昔から変わらず生真面目で面白みのない男である。厳格で、まったく遊びがない。教師という仕事には向いているのだろうが、一体何が面白くてこの仕事を続けているのやら。
(……面白さなど感じる必要もないのかもな)
やはり憂鬱だ。
クルーウェルはため息をつきたくなりながら、重い足取りで講堂を出たのだった。
その日は冬の寒さの只中にある日だった。小粒の雪がしんしんと空から降り注ぎ、真昼なのに薄暗い。そんな中、クルーウェルは小脇に魔法史の教科書とノート、羽ペンを抱えて真っ直ぐに校舎にある教室へと向かった。
教室にはすでに席に着いて予習をする生徒と、次の授業に向けて準備をしているトレインの姿がある。クルーウェルは堂々と入室し、後方の席に向かったが──トレインは教壇の上にある本をじっと見つめたまま、よく通る声で言った。
「クルーウェル先生、どうぞ遠慮せず前へ」
教室にいる生徒たちの視線が一斉に集まり、クルーウェルは足を止める。
(さては根に持っているな……)
などと口にするわけにはいかないので、「どうも、お気遣いありがとうございます」と流暢に返してやる。
不本意ながらも特等席を得てしまったが、なにも生徒たちのように手を挙げなければならないわけでもない。クルーウェルは大人しく前方の席につき、そこから教室の様子を見渡した。
毎日見ている風景だというのに、やけに懐かしい。この硬い座り心地も、目線の高さも、あの教師の姿も。
いや、驚くほどにお堅く真面目な立ち姿は昔から変わらないはずである。けれど昔より髪は霜が降りたように白く、顔の皺は老木のごとく深く刻み込まれている。そして、背は少し小さくなっただろうか。昔はもっと大きく見えていたものだったが。
貸与された魔法史の教科書を開き、事前に知らされていた今日のページを捲る。この公開授業は数回行われる予定で、最後は小テストにまで参加しなければならないのだから気が重い。低い点を取るつもりもないが、かといって気を抜けば、みっともないことになってしまうだろう。
「あっ、先生! 私もそこいいですか?」
授業の開始に向けてざわめき始めた教室内に、明るい声が割って入る。男子生徒ばかりの学園で際立って高い彼女の声は、少し離れたクルーウェルの席にもよく届いた。
「……なんでお前がいるんだ」
振り返ると、想定外の教師がいることに嫌な顔をする生徒たちに紛れて、ヒトハ・ナガツキが大きく手を振っている。彼女は片方の腕に教科書とノート、筆記具を抱え、一直線にこちらへ向かって来た。
「この前学園長から『授業を受けてみませんか?』って誘われたんです! 授業研究、でしたっけ? レビューは多いほうがいいとのことで、私にもお誘いが来ました」
ヒトハは当然のようにクルーウェルの隣に勉強道具を置き、トレインに「よろしくお願いします!」と元気に頭を下げる。トレインは生徒でもなかなか見ないような快活な挨拶に驚きながら「ああ、よろしくお願いします」と微笑んだ。こういう真面目な生徒に好感を持つ傾向があるのは知っているが、それにしても先ほどとは酷い差である。
ヒトハはクルーウェルの隣に腰を下ろすと、教科書のページをぱっと開いた。ページの上には小さな付箋が貼り付けられている。その様子を頬杖をついて眺めていると、彼女はふふんと得意げに笑った。
「予習、バッチリしてきましたよ」
「予習? 俺たちは授業を聴くだけだぞ」
「そうですけど、分かったほうが楽しいじゃないですか。私、卒業してから魔法史の教科書って開いてないですし」
「……“楽しい”?」
そんなことは“あの”トレインの授業を受けたことがないから言えるのだ。
クルーウェルは鼻で笑った。
「いつまでそう言っていられるか見ものだな」
「そこ、静かに。授業を始めるぞ」
トレインの叱責が飛んできて、ふたりは口を噤んだ。
それでは二部十四章から。トレインが言うと、教壇の上で寝そべっていたルチウスが大きく鳴いた。
トレインの授業は噂通り、学生時代から変わりなく、退屈でつまらないものだった。彼の授業は正確に史実に基づいており、質が高いのは確かだ。しかし真っ直ぐに引かれた線の上を寸分違わず辿っていくような授業が面白いわけもなく、これなら録音した授業を延々と流せばいいのではないかと思えてくるほどである。
現に、目に見える範囲でも数人が頭をふらふらと揺らしている。自分の授業であれば叱責するところだが、他人の授業に口出しするわけにもいかない。クルーウェルは考えるふりをして、口元に手を当てた。昔と変わらない光景が面白く、笑いを堪えられない。
この様子では意気込んでいた彼女も早々に脱落だろう。そう思って隣を盗み見たが、こちらは意外にも耐えている様子である。“授業研究”の名目で参加している授業だが、生徒と同じく熱心にペンを動かしていた。
クルーウェルは思い立って、ほんの少し肩を寄せた。
「つまらない授業だよな?」
こっそり耳打ちしてやると、黒板に見入っていたヒトハはビクッと体を揺らし、耳を赤くしながらこちらを睨んだ。
──静かに!
ヒトハはクルーウェルのノートの隅に走り書き、そして黒板に向き直る。
(なるほど、“優等生”か)
やたらと真面目なところはトレインと同じだ。だが、彼女にはトレインには決して真似できない長所がある。“からかい甲斐がある”という点である。
──授業は楽しいか?
今度は自分のノートに文字を書かれ、ヒトハは眉を寄せた。
──楽しいです!
──どこが?
「どっ……」
彼女は書き返してやろうと伸ばした手を引っ込めて、なんとも形容しがたい顔をした。どこが、と言われてすぐに言い返すことができるのは、本心から楽しいと思っている者だけだ。
悔しそうにしているヒトハを眺めていると、ふとこめかみのあたりにピリリとしたものを感じた。トレインがこちらを睨んでいる。
「トレイン先生、何か?」
その声を聞いて、寝ていた生徒たちが慌てて頭を起こす。トレインはクルーウェルから教科書に目を落とし、軽く咳ばらいをした。
「では、クルーウェル先生。この年に禁術に指定された〈他者の記憶を改竄する魔法〉の解説と、指定されるに至った経緯について説明していただけますか?」
授業中に回答をさせられるなんて聞いていない。目で訴えるが、トレインは涼しい顔をして答えを待っている。隣ではヒトハが口をぱくぱくとさせながら『答えられないんですか?』とにやついていた。この魔法については教科書ではさわり程度の記述しかなく、詳細を知るには別の本を開く必要がある。ゆえに、目の前の教科書に回答はない。しかしここで回答を拒否しては、名門校教師としての沽券にかかわる。
クルーウェルはため息をつき、彼の望む回答を一言一句取りこぼさず答えてみせた。するとトレインは意外にも満足そうに頷き、さらに詳細の解説を始める。
クルーウェルは驚くヒトハの顔を見て、「基礎的な知識だ」と鼻で笑ったのだった。
それから数日おきに授業に出席すること二回。最終日を翌々日に控えた夜に、クルーウェルは魔法薬学室の机で本を積んでいるヒトハを見つけた。元々会う約束をしていた日だから、早めに着いて勉強をしていたのだろう。
「熱心なことだな」
クルーウェルが声を出して初めて、ヒトハは弾かれたように顔を上げた。
「あっ、先生。おつかれさまです」
「ああ、おつかれ。……まさか、魔法史の勉強をしているのか?」
隣に立って教科書を覗き込む。先日一緒に受けた授業範囲のページだ。隣のノートに細かく書かれた文字を見るに、復習をしていたのかもしれない。
「次って小テストじゃないですか。私、絶対先生に勝ちたいので!」
「勝手にライバル視するな」
テストの点数を競うなんて子どもじみたこと、と思ったが、そういえば彼女は負けず嫌いだったことを思い出す。トレインの質問に回答したときに、闘争心を刺激し過ぎたのだろうか。
クルーウェルはヒトハの隣に腰を下ろした。生徒用の木製の丸椅子は座り心地が最悪だ。ここ数日一時間あまり座り続けていたが、学生時代はよくこんなもので一日耐えていたなと驚いたほどである。
「分からないところがあるなら教えてやろうか?」
これはまったくの善意で申し出たのだが、しかし彼女はきっぱりと首を振る。
「大丈夫です。明日トレイン先生に聞くので」
その答えに、クルーウェルはムッとした。
「俺に聞いても同じことだろう」
「いいえ」
ヒトハはさらにツンとそっぽを向いた。
「今の先生と私はライバルですので。私に塩を送らないでください」
それに、とノートを手に取る。
「トレイン先生の教え方って、面白い! って感じではないんですけど、分かりやすいんですよね。なんとなーく暗記してたことが『こういうことだったんだ!』って分かってくるっていうか。だから今回はトレイン先生に聞きたいんです」
なるほど、とクルーウェルは思った。言われてみれば、そうだったかもしれない。声が単調なせいか似たような話ばかりが続いていると思っていたが、内容を考えてみれば、話の道筋はきちんと通っている。魔法史から離れて数年経った彼女にも「分かりやすい」と言われるのであれば、それがきっと十数年前から“最適なルート”だったということなのだろう。
「お前が俺のライバルかどうかはさておき、トレイン先生に魔法史の知識量で勝てる教師はこの学園にはいないだろう。好きにするといい」
専門の教師がいいと言うのなら口出しするまい。クルーウェルはそう考えたが、ヒトハはノートを閉じながら首を傾げた。
「……ちょっと拗ねてます?」
「拗ねてない」
にや、と笑う顔を睨むと、ヒトハはますます顔をにやつかせながら机に広げた教科書と文房具を片付け始める。その途中で「あ、そうだ」と思い出したように言った。
「この前トレイン先生に質問してたら、今からでも大学に通ってみるのはどうかって言われたんです。社会人入試は試験の難易度も低いですし、魔法史なら魔法が使えない研究者もいるから向いてるだろうって」
「ほう」
あのトレインにそこまで言わしめるとは意外なことである。彼は勉強に励む生徒にはとことん手厚い教師だから、ずいぶんと熱心に質問をしたのだろう。
それはともかく、彼女はこの学園では貴重な“生きている清掃員”であることを忘れられては困る。穴が抜けては一大事だ。
「で、どう答えたんだ?」
クルーウェルが硬い面持ちで尋ねると、ヒトハは「んー」と腕を組んだ。
「大人になって学ぶのもいいなって思ったんですけど、もし試験に受かっても島から通うのは難しいですし。仕事を変えるのもすぐには決心がつかないので、『考えておきます』って答えました」
「そうか」
クルーウェルはほっと息をついた。
「まぁ、俺にテストで勝てないうちは無理だな」
そう言うと、彼女は途端に固く拳を握りしめ、「絶対勝ちます!」と意気込み始める。
しかし後日行われた小テストの返却日には、悔しさのあまりに再び拳を握ることとなったのだった。
その日は珍しく冬の寒さが和らぎ、柔らかな日差しが射し込む日だった。クルーウェルは前方に階段を上るトレインを見つけ、思わず足を止める。
彼は昔よりもゆったりとした足取りで、階段を一段一段踏みしめていた。おかげで隣に並ぶのは容易く、クルーウェルは二段飛ばしでその背に近づいた。
「トレイン先生」
声をかけると、トレインは「何だ」と言わんばかりの邪険な目を向けてくる。これは次回の職員会議でエレベーターの新設を提言すべきかもしれない。
クルーウェルは同じ速度で階段を上りながら、構わず続けた。
「ナガツキに大学を勧めたとか。勝手なことをされては困ります。貴重な学園の清掃員ですよ」
トレインは鈍色の眉を険しく寄せた。
「どんな者にも学問を追究する権利がある。我々の勝手で引き留めるものではない」
生徒なら萎縮してしまうほどの厳しい声である。しかし慣れ切っているクルーウェルは、それに肩をすくめるだけで怯えもしなかった。
どんな者にも学問を追究する権利がある──いかにも彼らしい答えだ。教育者としても、この上なく正しい。モーゼス・トレインは正しいことを躊躇いなく口にして、それをけっして曲げない男である。これにどれだけ苦労させられたことか。
しかしそんな堅物の彼も、今日は「だが」と残念そうに肩を落とした。
「つい先日、断られてしまった。今の環境があれば十分なのだと。惜しい気もするが、それもいいだろう」
はぁ、と深いため息をつくので、クルーウェルは親切に片手を差し出す。
「代わりましょうか?」
「結構だ。老人扱いするんじゃない」
彼の腕には大切そうにルチウスが抱えられていた。このふてぶてしい顔をした猫は「オ゛アァ~」とクルーウェルに文句を言いながらも、心配そうな顔をしてトレインを見上げる。彼は「大丈夫だよ、ルチウス」と優しい声で言って、頭を撫でた。
ルチウスは亡き奥方と大切にしていた猫だという。何を差し置いても守りたいものなのだろう。その存在は彼の本質が優しく、愛情深いものである証左でもあった。ひょっとしたら、それが彼の教育──ひいては生徒たちへの献身にも繋がっているのかもしれない。あの苦痛の授業の数々も、彼なりの愛情であったのかもしれない。
「ところで」
トレインは階段を上りきると、上階に向かおうとするクルーウェルを引き留めた。
「君は昔から要求を通すために回りくどいことを言う。筋は通っているが、もう少し素直に話したらどうかね。いなくなって困るのは学園ではなく“君”だろう」
ぴたりと足を止めてその言葉を咀嚼していると、トレインはふん、と嫌味に鼻を鳴らした。
「そもそもの話だが、親しい間柄とはいえ女性を自分の所有物のように扱うのはやめたまえ。愛想を尽かされる前に、いい加減手を放すことも愛情だと覚えなさい。思えば君は昔から後輩を片っ端から仔犬やら子分などと言って囲い込んで……」
「わかりました。わかりましたから」
クルーウェルはたまらず声を上げた。耳と頭が痛くなってきた。胃も痛いかもしれない。
トレインを「授業が始まりますので」と慌てて廊下の先に送り出そうとすると、彼は「本当に分かっているのかね」とさらなる追い打ちをかけてくる。
分かりましたと三度目を言ってやっと、彼はこちらに背を向けて次の授業に向かい始めたのだった。
「本当に、昔から変わらない人だな……」
クルーウェルは、ほとほと疲れきった声で嘆いた。相変わらず冗談は通じないし、軽口ひとつで十の説教が返ってくる。頑固で真面目で、爪の先ほども面白みのない男だ。
(まぁ、最初から揶揄わなければいいんだが)
かくいう自分も昔から変わらないな、とぼやきながら、クルーウェルは次の授業へ向かったのだった。
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