清掃員さんとフェアリーガラ
03
「先生、ちょっと休憩しましょう」
肩で扉を押し開き、片足を滑り込ませる。ヒトハは両手に持ったトレーを慎重に運びながら抑えた声で呼びかけた。
筒状に巻かれた生地の束、半端に着飾ったトルソー、壁のデザイン画と雑誌の切り抜き。煌びやかなアクセサリーがアンティークな小箱から覗いているが、この光景は煌びやかとはほど遠い。独り暮らしの家にあえて設けられたこの一室には、彼の服にかける情熱のすべてが凝縮されている。
部屋に充満する真新しい布の匂いがどこか馴染まなくて、ヒトハは鼻をむずむずとさせた。許されるのなら、今すぐ窓を開け放って掃除をしたい。
クルーウェルは作業台からようやく顔を上げ、作業はじめの勢いは嘘だったかのようにぼんやりと答えた。
「もうこんな時間か……」
ヒトハが作業台に紅茶の載ったトレーを置こうとすると、クルーウェルは広げた布をさっと巻き取って遠くに逃がした。これは今回メインで使用する予定の、上等な白い布だ。
「先生、ずっと根詰めてるじゃないですか。もう十時になるのに夕食もまだだし。さすがにお腹空きません?」
「なんだ。お前、食べてなかったのか」
「そりゃあ、先生が食べないのなら、私も食べないですよ」
ヒトハはティーカップを差し出しながら口を尖らせた。長く集中していたせいですっかり頭から抜け落ちていたが、今日の夕食がまだである。さっきからぐうぐうとお腹が鳴って仕方がなかった。
遡ること半日前。
「これ、全部読むんですか……?」
学園を離れ、麓の街にあるクルーウェルの家に連れ込まれたヒトハは、目の前に積まれたものを見て、あんぐりと口を開けた。テーブルの上にそびえ立つのは、ここへ来る前に図書館で借りた妖精の本である。何らかの資料になるのだろうとは思っていたが、まさか最初の仕事がこれを読むことだとは。
ヒトハは人差し指と親指でつまむようにして、一番上の本の表紙を捲った。〈妖精と四季の巡り〉。数百ページにわたる超大作である。
「俺も多少心得はあるが、手を抜くわけにはいかん。安心しろ、ある程度は要点を絞るつもりだ」
「嘘……」
「嘘じゃない」
嘘じゃないらしい。
クルーウェルはヒトハの手から本を取り上げると、それをぱらぱらと捲りながら言った。
「そこそこの衣装でいいのなら今すぐにでもデザインに入れるが、フェアリーガラではすべての妖精の目を釘付けにしなければならないからな……」
彼が言う通り、今回の作戦では非常に高いクオリティが求められる。生徒たちがランウェイを歩いている間に、女王のティアラを偽物とすり替えなければならないからだ。フェアリーガラはファッションショーである。そもそもの衣装がよくなければ話にならない。
「当然だが、妖精と人間では感性が異なる。生き方も考え方も、好き嫌いもな。まずはその理解から始めてもらう」
ヒトハはクルーウェルが開いたまま渡してきたページに目を落とした。
そこには妖精の絵が描かれていた。火の妖精、水の妖精、木の妖精、それから、ものづくりの妖精。彼らはツイステッドワンダーランドの四季を司っているのだと書かれていた。今回の事件でクルーウェルをはじめ学園の職員たちが「妖精を怒らせて春が訪れなくなっては困る」とひどく頭を悩ませていたが、これを読めば、その深刻さがよく分かった。今回の作戦は、失敗すれば人間どころか他の生き物たちにも大きな迷惑をかけてしまうことになるのだ。
途端に肩に重いものがのしかかってきたような気がして、ヒトハは渋い顔をした。つい先ほどまで「お祭りの準備、楽しそう」なんて呑気に思っていたが、これは責任重大だ。
「怖気づいたか?」
クルーウェルの試すような言葉に、ヒトハは少しだけムッとした。目の前にいる人間が服作りのド素人であることを知って言っているのだから、意地が悪い。
「そりゃあ、大変だとは思いますけど……でも、やるしかないじゃないですか。ツイステッドワンダーランドのみんなが困るんでしょう?」
やっぱり辞退する、という選択肢もあった。ここへ来る前に彼に言った通り他に適任がいるだろうし、あえて自分がやる必要もない。けれど、指名されてしまったのだ。ことファッションにおいてはこだわりの強い彼に。多少の妥協はあるだろうが、ただの贔屓で選ぶ人ではない。
そう思うと、この仕事を手放すのが少し惜しくなった。たとえ他に適任がいたとしても。これは自分が任された“仕事”だ。
ヒトハはできるだけ大きく胸を張って、拳で叩いた。
「大丈夫。私、やると決めたら最後までしっかりやる主義なので! ばっちりお役に立ってみせます!」
すると彼は切れ長の目を見開いて、それからフッと肩から力を抜くように笑った。
「やはりお前を選んで正解だったな」
その言葉がやたら誇らしく感じて、ヒトハは「そうですよ、私を選んで正解です」と照れ臭く頬を赤らめたのだった。
「はぁ……」
クルーウェルはヒトハが持って来たティーカップを片手に深々と息を吐くと、作業台の椅子に沈み込んだ。いつもなら完璧に整えられている仕事着だが、今日はコートにベストにネクタイまでもが取り払われている。首元のボタンまで開けて着崩しているのは珍しい光景だ。
ヒトハはカップを両手で包み、冷えた指を温めながら問いかけた。
「夕食、どうしましょうか?」
「そうだな……。悪いが用意してもらえるか? 適当にキッチンを使っていい」
「適当……?」
ヒトハは聞き返しながら苦々しい顔をした。適当にキッチンを使っていい、というのはパパッとあり物で適当な料理が作れる者に向ける言葉である。度々セベクに振舞っては嫌な顔をされる自分にできるはずがない。
そこでやっと、ヒトハは今までクルーウェルに手料理を振舞ったことがないことに気がついた。あまりにも恐ろしすぎて、振舞おうとも思わなかったのだ。美食家の彼にどんな辛口批評をされても文句は言えないし、その後待ち受けているであろう“躾”のことを考えると包丁を持つ気も失せる。
「私の手料理、そんなに食べたいですか?」
「……勿体ぶるほどか?」
まだ何も知らない彼は訝しんでいたが、最後には「まぁ、お前も疲れているだろうしな」と勝手に都合よく解釈をして、席を立った。
「探せば開いている店もあるだろう。上着を持ってくるから待っていろ」
そう言って部屋の外に消えるクルーウェルに軽い返事をして、ヒトハはティーカップに口を付けながら、部屋の隅々まで視線を巡らせた。
ここはインテリアにもこだわる彼の家の中で際立って異質な空間だ。魔法薬学室や実験室に似た機能性重視の配置と物で、ヒトハにはどこに何があるのかさっぱり分からない。けれど彼にとっては目を瞑っても分かるくらいに馴染んだ部屋なのだろう。この部屋で、まだ平面に描かれただけのフェアリーガラの衣装が形になるのだ。
ヒトハはカップを置いて静かに立ち上がった。それほど広くない部屋だ。うっかり体をぶつけて机の物をぶちまけては大惨事になってしまう。
慎重に爪先から床を踏みながら、小さな引き出しが並んだチェストを覗き、その上に立てかけられた鏡に目をやる。鏡に映った自分は疲れた顔をしていたが、休む間もなく瞬く瞼の奥には、小さな好奇心が見え隠れしていた。この部屋には、興味深いものが多すぎる。
ヒトハはチェストの上で指先を滑らせ、中指が触れた箱を手に取った。
(……?)
片手に収まる程度の黒い箱だ。吸い寄せられるように蓋に指をかけ、そっと持ち上げる。この箱の中から、どこか覚えのある魔力を感じたのだ。
控えめに開いた先には、小ぶりな耳飾りが二つ納まっていた。真っ赤に燃えるような宝石が一粒ずつ。それほど大きな石ではないが、細やかなカットが部屋の明かりを反射して強い存在感を放っている。
クルーウェルはアンティークなものを好むためか、この部屋にはそれほど新しいものはない。けれどこの曇りひとつない金具と宝石は、真新しい輝きを放っていた。
「綺麗……」
これは魔法石だ。手にした瞬間に分かった。指先から伝わる魔力は人が造り出せるものではない。純粋で清らかな自然の魔力だ。
キィ、と蝶番が軋む音がして、ヒトハはさっと箱を胸に引き寄せて振り返った。クルーウェルがドアを押し開けたまま、部屋の隅で気まずく固まるヒトハを不思議そうに見ている。視線を手元に落とし、「あぁ」とやっと思い至ったかのように言った。
「それはお前のものだ」
「え? 私の?」
ヒトハは再び箱を開けた。
「以前バルガス先生とキャンプに行ったときに、魔法石を持って帰っただろう? お前が学園に寄付しておいてくれと俺に押し付けた魔法石だ」
「あ、ああ……。ありましたね、そういえば」
彼が言っているのは、以前バルガスに誘われたキャンプで妖精を助け、そのお礼に貰った魔法石のことだ。拳大の大きな魔法石で、クルーウェルからは売ればいい金額になるだろうと言われていた。
しかしヒトハは妖精から貰った魔法石を学園に寄付することにした。杖以外に魔法石の必要性を感じなかったし、お礼に貰った物を売り払うのも気が引ける。箪笥の肥やしにするくらいなら、もっと有効に使ってもらったほうがいいと考えてのことだった。学園であれば、研究に実験に、用途はたくさんある。
「せっかく貰った物を一つも手元に残さないのはさすがに悪いだろう? この俺が、気を利かせて知り合いに作ってもらったというわけだ」
クルーウェルは得意げに言いながら箱から耳飾りを取り上げ、それをヒトハの顔の横に持っていった。耳元に金属の冷たさを感じ、擽ったく肩を捩る。
彼は同じようにもう片方の耳に触れると、一歩下がって品定めをするように顎に手を当てた。
「魔法士にとって魔法石は必需品だからな。杖以外にも身に着けておいて損はない」
チェストの上に立てかけていた鏡を手渡され、ヒトハはそれを覗き込んだ。
顔の両側でちらちらと繊細に輝く魔法石。宝石というだけでも十分に価値はあるが、魔力を纏ったものはそれ以上と言われている。ヒトハは今まで魔法石に対して“魔法を使うために必要なもの”という認識しか持っていなかったが、これを見れば、魔法石の価値はそれだけではないということがよく分かった。
「あの、ありがとうございます。……似合います?」
と鏡から顔を上げたが、クルーウェルはもう耳飾りへの興味を失ったのか、デスクのデザイン画を眺めながら「似合う似合う」と心にもなさそうな声で言っている。
「見てないし……」
ヒトハが口を尖らせると、彼は手にした紙を壁に貼りつけながら喉の奥でくつくつと笑った。
「お前によく似合っているのは見なくても分かる。俺がデザインしたからな。それを着けている姿を何度も想像したが、やはり想像通りだ」
壁から数歩離れ、腕を組む。目の前に貼られたデザイン画を満足そうに見て、彼は「これでいこう」と頷いた。
ヒトハはもう一度鏡を覗き込んだ。この耳飾りも、ああやって作ってくれたのだろうか。あの使い込まれたデスクに向かって、この姿を想像しながら何度も何度も紙に線を引いて――
「そろそろ行くぞ。ぐずぐずしていると店が閉まってしまう」
クルーウェルは振り返ると、それだけ言い残してさっさと部屋を出て行ってしまった。ヒトハは彼が出て行った扉を眺めたまま、そっと指先で耳飾りを触る。炎を纏ったかのような魔法石が、その見た目通りに熱を持っている気がする。
(魔法石だからかな……)
こんな高価なものをアクセサリーとして扱ったことがないから分からない。魔法石はいつだって、杖に付いているだけのものだったから。
「おい、まだか?」
廊下の先から声が響いて、ヒトハは夢から覚めたようにハッとした。慌てて鏡をチェストの上に戻し、「今行きます!」と大声で答える。最後にもう一度鏡に振り返り、それから「待ってください!」と元気よく部屋を飛び出したのだった。
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