清掃員さんとフェアリーガラ
02
ぶるり。ヒトハは厚みのある布団を鼻の下まで引き上げて、体を縮こまらせた。ぎゅっと縮んだ分、体はじわじわと温かさを取り戻していく。
ツイステッドワンダーランドはまだ春を待つ季節である。とりわけ夜が冷えるのは仕方のないことだ。たとえ鼻と耳の先がじんじんと冷たさを感じても、頬に触れている髪がキンキンに冷えていても、足の指先が凍るように冷たくとも、まだ春は来ていないのだから仕方がない。──仕方がないのだ。
ヒトハはそうしてしばらく寒さに耐えていたが、突然布団を跳ねのけて起き上がった。
「え……さっむ……!」
この部屋は学園の敷地内にあるから、校舎や寮と同じように快適な室温に整えられているはずである。だというのに、この芯まで凍るような寒さ。ヒトハの部屋は一夜の間に真冬のごとく冷え切っていた。
「な、なんで……?」
寝ぼけ眼のまま部屋に灯りをともし、目に沁みる眩しさに瞬きを繰り返す。その間にも、温まっていた体はどんどん冷えていく。
こんなことは初めてだ。真冬のウィンターホリデーであっても、ナイトレイブンカレッジは完璧な空調で快適に整えられているのだから。部屋の外ならまだしも、室内でこれだけの寒さはあり得ない。
ヒトハはベッドから降りると、部屋にある出窓を開いた。遠くに見える空は白んでいて、そろそろ夜が終わりを告げる頃合いである。部屋に入り込んでくる外気は普段であれば冷たさを感じるものだが、今日だけはなぜか暖かい。それは外よりも室内のほうが“寒い”ということの証明でもあった。
「空調、壊れちゃったのかなぁ」
はぁ、と肩を落とす。
こんな時間帯に駆け込む場所があるはずもないし、修理してくれと学園長に言いに行くわけにもいかない。業務時間外なのだから、まだ学園長室にはいないだろう。それに自分の部屋がこうなっているということは、他の人の部屋も空調がおかしくなっている可能性がある。出勤する頃には、誰かがもう手を打っているかもしれない。
ヒトハは寒さに粟立つ腕をさすりながら、小さくくしゃみをした。こんなところにずっといては風邪をひいてしまう。
「散歩でもしようかな……」
部屋にいるよりは外にいるほうがましだ。まだ時間は早いけれど、ゆっくり学園内の朝の散歩でもしていれば、すぐに出勤時間になるだろう。ヒトハはそう考えて、早々に部屋から出てしまうことにしたのだった。
いつもの制服に着替え、いつもの身支度を終えたヒトハは、逃げるように部屋を出た。その頃には外はすっかり早朝の景色に変わっていて、学園は一日の始まりに相応しい清々しさに満ちている。
ヒトハは目的地も決めず、敷地内をゆっくりと見て回ることにした。牧場のほうに行っては動物たちの寝覚めの邪魔になるだろうから、行き慣れた植物園の方面にしようと決め、ゆったりと歩き始める。
夜の学園も幻想的だが、朝の柔らかい光の中につつまれた学園も乙なものだ。思えばこの学園の景色を楽しみながら散歩をすることは度々あったが、朝に歩き回ることはなかった。
ちょうど良い機会に恵まれたな、と前向きに散歩を続けていると、ヒトハは購買部に差し掛かったあたりで黒い塊を見つけた。
「ん?」
よくよく見てみれば、カラスが何かに群がって激しく嘴を突いている。
サムがゴミの処理でも間違ったのだろうか。サムに限ってそんなことはないと思うが、とはいえ彼も人間だ。たまの間違いくらいはあるものだろう。
ヒトハは腰から静かに杖を抜き、その先を空に向けた。そして、
──パンッ!
と杖から破裂音を鳴らすと、カラスたちが一斉に飛び上がる。カラスは購買部の屋根の上に逃げ、黒々とした頭を回しながら威嚇するように鳴いた。
「まったくもう」
この学園はカラスがいたるところにいるから油断ならない。仕事中のゴミの扱いも、特別に気を遣わなければ頭のいいカラスに突かれて無惨なことになってしまうのだ。
突かれていたものの正体を知ろうと、ヒトハはカラスが群れていた場所に駆け寄った。そして近づきながら「あっ」と小さく声を上げる。
早朝の光に照らされて瞬く薄い四枚の羽。鮮やかな緑の木の葉に身を包んだ小さな姿。カラスが突きまわしていたのは、手のひらサイズの三人の妖精たちだった。
ヒトハは少し遠くで足を止めて、その様子をうかがった。妖精たちはお互いの無事を確かめ合い、囲うようにして守っていた“綺麗な石”を抱えようとしている。彼らはその途中でヒトハの存在に気がついて、鈴のような声でリリンリリンと口々に言った。
妖精と人間は言葉を交わすことができない。彼らは澄んだ鈴のような声で喋るのだ。ヒトハは以前、バルガスに誘われたキャンプで妖精と出会ったが、結局彼の言いたいことを何一つ理解できなかった。今も何を言われているか分からず、ただじっと耳を傾けるしかない。
こうして互いに視線だけを交わしてしばらく。妖精たちはひとしきり何かを言い終えると、石を持ってぞろぞろと生垣の下に潜り込んでしまった。カラスに狙われにくい道を行くことに決めたらしい。
ヒトハは小さな妖精たちが完全に見えなくなるまで見送ると、はてと思い出したように首を傾げた。
「そういえば……あれ、何を運んでたんだろう?」
ヒトハがそれを知ることになったのは、数時間後のことだった。
「──フェアリーガラ?」
その日の午後、ヒトハはクルーウェルの隣を歩きながら、呆気にとられたような声で言った。フェアリーガラ。なんともファンシーな響きである。
クルーウェルは歩きながらこちらを見やり、浮き立った様子を隠しもせずに答えた。
「そう。妖精たちの春の祝祭だ」
いつもより張りのある発声に、ヒトハは手にしていた本をぎゅっと抱いて「はぁ、それはまた……」と声を萎ませる。よくは分からないが、これは相当張り切っているらしい。
二人は図書館で借りてきた本を数冊ずつ抱え、学園の駐車場へ向かう最中だった。その表紙には一様に『妖精』の文字が綴られている。
〈フェアリーガラ〉。様々な妖精たちが集まり春を祝うこの祭りでは、毎年ファッションショーが行われる。その開催地に、今年はナイトレイブンカレッジが選ばれた。名誉なことではあるが、もしショーが中止や失敗になれば、妖精たちは世界中に春を届けてくれなくなるのだという。つまり、フェアリーガラは春を迎えるための重要なイベントであり、恐ろしく繊細なイベントでもあるのだ。
だというのに、開催地に選ばれた学園は早々に窮地に陥った。学園の貴重な魔法石を妖精たちに取られてしまったのだ。しかも、妖精の女王のティアラにするために。
この魔法石がなければ、学園内の空調を管理してくれている妖精たちに魔力を供給できない。かといって無理に奪い返そうものなら、妖精の女王の逆鱗に触れ、ツイステッドワンダーランドに春が訪れなくなるかもしれない。
ヒトハが見かけた妖精たちの“綺麗な石”とはまさしく学園の魔法石のことで、彼らはちょうど女王の元に魔法石を運ぶ最中だった。犯人たちをみすみす見逃してしまったおかげで、とっくに午後を回った今も空調は戻らず、生徒たちの住む各寮も暑かったり寒かったりで酷い有様なのだという。あまりに酷い環境のため授業は一旦休止。行き場を失った生徒たちがどうすることもできず、外をうろつくという未曽有の事態だ。
「急に先生が『魔法石を取り返すぞ!』って言うから何かと思いましたけど、ファッションショーが関係するなら納得ですね。何かいい作戦でもあるんですか?」
ヒトハは駐車場に停めてあるクルーウェルの愛車に本を積みながら問いかけた。車には既にサムから仕入れたらしい品々やスケッチブックやらが詰め込まれていて、いつもの整理が行き届いた車内の様子とはかけ離れている。
クルーウェルはいつものコートを車に積みながら答えた。
「ああ、ファッションショーに出る」
「出る? 先生が?」
「いや、仔犬どもが出る。ショーに出て女王に近づく作戦だ」
「みんながショーに?」
ヒトハは助手席のドアにかけていた指を離し、思わず聞き返した。
彼の仔犬たちがファッションショーに出る。ヒトハはそこでようやく悟った。
ただでさえファッションが大好きで自分でも服を作ってしまうような人だ。仔犬たちに自分が仕立てた服を着せてランウェイを歩かせる機会が巡ってきたのだから、張り切らないわけがない。
どうりで学園中がてんやわんやしている中で、一人だけ水を得た魚のような顔をしているわけである。上機嫌に図書館を連れ回された時なんて、どんな天変地異が起こるのかと不安に思ったくらいだ。
「そういうわけだから、お前は今日から俺の補佐だ。ショーに間に合うように急いで衣装を仕上げるぞ」
いつの間にか隣にやって来たクルーウェルは、了解もなく助手席の扉を開いた。乗り込むように目で促され、ヒトハは仕方なく片足を踏み入れる。
「私じゃなくてもっと適任がいるのでは? オクタヴィネルとか、ポムフィオーレの子とか器用だし……」
「適任は他にもいるだろうが、俺の家に仔犬どもを上げるのはごめんだ」
パタン、とドアが閉まる。彼はフロントを回って運転席に乗り込み、エンジンをかけながら口の端を軽く吊り上げた。
「それに、学園長から『補佐として学園職員を一人好きに使っていい』とのお達しだ」
「ええ!? 学園長、また勝手に! 清掃の仕事も、とーっても大切なお仕事なんですけど!」
ヒトハは猛抗議したが、クルーウェルは相変わらず楽しそうに笑っている。
「光栄に思えよ。この俺が、最高のショーを見せてやるんだからな」
「はぁ、やっぱり一人だけ目的が違うんですよねぇ……」
ぼやきながら、ヒトハはフロントからサイドガラスに目を移した。車はすでに動き出していて、高台にある学園はあっという間に遠く向こうへ消えていく。
これから自分は学園の仕事から離れて、クルーウェルの手となり足となり、フェアリーガラの成功に尽くすのだ。
(……まぁでも、こういうのもたまには悪くないかも)
とんだ災難ではあるが、トラブルの原因が“春の祝祭”であるせいか、それほど悪い気はしなかった。きっと、ものすごく華やかで楽しい祭りなのだろう。
車の外を流れていく落ち葉を見送りながら、ヒトハはまだ見ぬフェアリーガラのランウェイに思いを馳せたのだった。
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