One day for me

03

 整然と並んだセリフ体の几帳面な数字と名前を見上げ、その左上にある文字を見つけて乾いた目にひとつ瞬きを落とした。さすがだなと背を叩かれて一笑。
 ──当然。
 そんな落ち着き払った姿を誰もが称賛した。同時に恐れ、あるいは僻んだ。か細い糸の上を綱渡りしながら得たこの姿は、誰から望まれたわけでもなく、自ら望んだ。与えられた能力を与えられたままにせず磨き続けること。そうして得られたものだけが、自らを最高の自分たらしめる自信となる。臆さず、弛まず、頂点に向かって歩み、その先に堂々と立つのだ。
 たとえその道行きに、終わりが見えずとも。

***

「サムさーん!」

 校舎を出て見慣れた風景を眺めながら歩くこと数分。ヒトハはクルーウェルを連れて購買部の扉を開いた。
 ナイトレイブンカレッジの購買部は校舎から少し離れた場所にある。魔法道具や魔導書、魔法士に必要なものがほとんど揃っていて、クルーウェルも他の大勢の生徒たちと同様に日常的に活用していた場所だ。
 ただ少し店の雰囲気が変わったように思えるのは、店主が変わったからだろうか。
 物に溢れた雑多な店内は緑の照明が怪しく照らし、何に使うのかアップライトピアノが店の隅で存在感を放っている。中にいた褐色の青年はカウンターから顔を上げると、白い歯を見せて二ッと笑った。

「やぁ、ヒトハ! と、小鬼ちゃん。もう話は聞いているよ。ようこそMr.Sのミステリーショップへ。今日は何をお求めかな?」

 彼は陽気な口調でこの店の決まり文句らしきことを言い、二人を迎え入れた。
 Mr.Sというのはサムという彼の名を取ったものだろうか。白いボディペイントにドレッドヘアが特徴的な彼はヒトハと親しいらしく、「今日もお酒?」と問いかけては彼女から「違います!」と怒られている。購買部でアルコールの売買とは大胆なことだ。
 ヒトハは頬を染めてクルーウェルをちらりと見上げると、気を取り直して「それより!」と焦った声で言った。

「先生のこと、もう聞いてるんですね」
「まぁね。職員や関係者には連絡が回ってるはずだよ。クルーウェル先生はトラブルでお休みってね」

 ぱちん、と片目を覆う仕草をクルーウェルに向けて、サムはニヤリとした。

「災難だったね」
「ええ、まぁ……」

 予想外に気安い態度を向けられて、クルーウェルは気まずく言葉を返した。初めて会った人に自分という人間を知られているのは、どうにも落ち着かない。
 固まってしまった空気を打ち消すように、ヒトハは突然クルーウェルの袖を摘んで持ち上げた。

「そう! それでですね! 今日はデイヴィスくんの服をどうにかしたくて!」

 サムの前に出された赤いツインボタンのシャツは若干袖の長さにゆとりがある。
 サムはヒトハの要望を聞くと、「なるほどね」と迷うことなく白い手袋で覆われた手を店の奥に向けた。

「既製品でよければ奥に。制服から式典服まで揃えてるよ」
「ありがとうございます!」
「あっ、おい」

 ヒトハはサムの答えを聞くなりクルーウェルの服を手放して、ピュンと一人で店の奥へ駆けていく。呼び止めようとした片手は宙を掻き、クルーウェルは同じく取り残されたサムの前で深々とため息を吐いた。

「彼女に手を焼いているのは変わらないみたいだね」
「……変わらない?」

 世間話のつもりなのか。同じく取り残されたサムの言葉に首を傾げる。

「クルーウェル先生はよく手を焼いていたよ。あの駄犬、また俺に黙って勝手なことを……ってね」
「勝手なこと?」
「彼女、お転婆だから」

 サムは肩をすくめてみせると、ずいと顔を近づけた。暗い色で覆われた目元を細め、囁くような声で問う。

「彼女も同じ魔法にかかったって聞いたかい?」

 それはここで目を覚ました時、クロウリーの口から、そして本人であるヒトハの口からも聞いたことだった。
 自分と同じように過去の姿に戻る魔法にかけられた彼女は、一週間その姿で過ごしたのだ。そのときの記憶が戻ってくることは二度とないが、トラブルに巻き込まれながらも学生生活を満喫したのだと胸を張っていた。知りもしないくせに、それがさも素晴らしい時間だったと信じて。
 クルーウェルにはそれがとても──信じ難いことに思えた。ヒトハ・ナガツキという女性が自分と同じ“人間”であるならば、最初から最後まで楽しく過ごせたはずがない。この胸の奥で燻り続ける仄暗い不安を、感じていないはずがないのだ。

「あの時の先生も同じように制服を探しにここへ来たよ。一緒には来なかったけどね」

 サムの赤い瞳がちらりと店の奥に向く。ここからではその姿を見ることは叶わないが、彼女は今も自分に合う制服を選んでくれているのだろうか。
 サムはヒトハと同じことを大人の自分もしたのだと言う。彼女は特別見た目に気を遣っているようにも見えないし、サイズ違いなんて気にも留めてなさそうなものだが。 

「『俺がナイトレイブンカレッジ卒と聞いて羨ましがっていたからな』」

 クルーウェルの疑問に答えるように、サムは突然誰かの口調を真似た。鼻で笑いながら一段声を低くする。どこかで聞いたような喋り方だと一瞬考えて、すぐに思い至った。

「クルーウェル先生が言っていたのはそれだけ。つまり俺が言いたいのは、彼女は未来のキミにとって特別ってこと」

 サムの言葉に、クルーウェルはひっそりと眉を寄せた。
 それはなんとなく抱いていた予感が当たってしまったから。それから、自分にあらぬ疑いがかけられているような気がしたから。

「……そんなことを言われなくとも何もしない」

 クルーウェルは苛立った声で言い返すと、サムから一歩距離を取った。
 たしかに階段では「この程度なら一年でも組み敷ける」と思ったものだが、だからと言ってそんなことをするつもりはさらさらないし、その程度の分別もつかないほど幼くもなければ理性がないわけでもない。第一、彼女は随分と年上の女性で、更に言うなら、好みですらない。大人の自分の気が知れないというものだ。
 まったく腹立たしいことに、サムは全て織り込み済みの余裕な笑みを浮かべると、緩く首を横に振った。

「そこは心配してないよ。ただ、あまり邪険にしないでねって話」

 今日の彼女、少し様子がおかしいから。

「それは──」

 その囁きの理由を問おうとして開きかけた口を遮り、ゆっくりと二人に近寄る足音がした。

「デイヴィスくん……」

 ヒトハは雑多な店内の影からそっと顔を覗かせたかと思うと、両手にいくつかの服を抱えて戻って来た。いつも着ている金ラインの入った制服で、スラックスとジャケット、シャツは一着ずつハンガーにかかったものを手にしている。しかしなぜかベストだけは数着腕にかかっていた。
 ヒトハはハンガーを適当な場所に引っかけると、両腕のベストを広げながら首を傾げる。

「私的にはポムフィオーレなんですけど、ハーツラビュルもきっとお似合いですし、オクタヴィネルも捨て難いんです! どうしましょう!?」
「どうって、色が違うだけだろう」

 ヒトハが手にしているのはポムフィオーレ寮生が着用する紫色のベスト。腕にかかっているのは赤いハーツラビュルのもので、水色はオクタヴィネルだ。サイズ違いが気になるというから来たのに、色で悩み始めるというのは意味が分からない。
 ヒトハは歳の割に幼く見える目を丸く見開いて「いいえ、違います!」と前のめりになった。

「デイヴィスくんの魅力を最も引き立てる制服を探さないと。先生も『全部当ててお前が一番映える色を見つけないと駄目だ』って言ってましたし」
「俺のせいか……」

 まさかそんな世話を焼くほど親しかったとは驚きである。サムの言う“特別”だからなのか。その特別というのは、本当の本当に、そういう意味での特別なのか。
 クルーウェルは痛み始めた頭を抑え込むように額に手を当てた。

「大体どんな状況だ、それは」

 するとヒトハはベストを手にきょとんとして「状況?」と聞き返す。

「『なんだそのコーディネイトは!? 昨年の流行から全くアップデートされていない! 今すぐ新調しに行くぞ!』って散々連れ回される状況ですね」
「俺……」

 もはや片手では足りず両手で顔を覆い、クルーウェルは嘆いた。彼女のこの行いとこだわりは、紛れもなく自分によって植え付けられたものなのだ。
 ヒトハは他人の気も知らないで不思議そうに瞬くと、手にしていた紫のベストを広げ、クルーウェルの胸に当てて微笑む。

「まぁ最初はそこまでしなくてもって思ってたんですけど、実際にやってみるとやっぱり違うんですよね。似合う色とか、形とか」

 赤いベストに入れ替えて、うんと両腕を伸ばす。なるべく遠くから全体を見ようとしているらしいが、せいぜい見れて首から下。もしくは胸から上だ。頭ひとつ分近くの体格差がある彼女ではそれが限界だった。
 それでも、それが必要なことだと思っている。他でもない彼女の“先生”とやらがそうしていたから。

「たまにめんどくさい時ありますけど、先生も私の好きなことに付き合ってくれてるし、それなら私も先生の好きなことを知りたくて」

 そしたら移っちゃいましたね、と照れ臭そうに笑う姿に、一体誰がしたというのか。

(俺か……)

 ヒトハは水色のベストを広げ、最後に紫のベストを手に取ると、にっこりと笑った。

「うんうん、私の見立て通りポムフィオーレの制服がよく似合ってますね! サイズはいくつかあったので、とりあえずこれを着てみてください」

 そしてハンガーにかかった服とベストをクルーウェルに押し付けた。いきなり両手いっぱいに服を抱えさせられ言葉を発せずにいると、ヒトハは「それと」と躊躇いがちに物陰に隠していた服を一着取り出す。

「これも……」
「……実験着を着てどうする」

 ハンガーにかかるステッチの入ったこの服は、魔法薬学や錬金術で使う白衣、実験着だ。ゴーグルと手袋まで揃ったフル装備を手に、ヒトハは力説した。

「だっ、だって先生、私に昔の写真見せてくれないから……! 今見ないと絶対後悔するから……!」

 すぅ、と先ほどまで抱いていた感情が引いていく。
 ヒトハ・ナガツキは自分の“特別”。まだ知らなくとも、きっと大人の自分を惹きつける強い魅力の持ち主なのだ──多分。おそらく。きっと。いや、違うかも。
 クルーウェルの冷ややかな目を物ともせず、ヒトハは両手を胸の前で組んで必死に訴えた。

「お願いです、ちょっとでいいので! ちょっとだけ! 時間あるんだからいいじゃないですか!」
「なんでそんなに強気なんだ……?」

 まさかこれが目的か、と気づいた時にはもう遅く、サムがどこから取り出したのか片手に見覚えのある服を持って、ヒトハの肩を指先でトントンと叩いた。

「ヒトハ、これはいいのかい?」
「ああっ、寮服も……運動着も見たい……!」

 大の大人が二人してキラキラとした眼差しを向けてくる。クルーウェルは冷や汗を滲ませた。

「お……お前、仕事はどうした? 暇ではないだろう?」
「いいんです! 今日はこれが仕事なので!」
「それでいいのか……!?」

 じりじりと着せたい服を持ってにじり寄ってくるヒトハから逃れるように後退し続けること数歩。彼女の背後にはサムがいて、商人らしく両手に服を引っ提げて「これもおすすめだよ」とセールスを欠かさない。この試着を終えなければ購買部から出ることは叶わないのだと気がついて、クルーウェルはヒトハが持っていた服を奪い取った。

「少しだけだからな! いいな!?」

 荒げた声に返ってきた満面の笑みにほんの少し心臓が跳ねたような気がしたのは、きっと、気のせいだ。

 結局、あれやこれやと着せ替えられた服は制服から寮服、実験着、運動着と多岐に渡った。しかも寮服に至っては「全部見たい」というヒトハの強すぎる要望によって全寮分着せられるという始末だ。物によっては制服よりも遥かに着るのが面倒な寮服の早着替えは、クルーウェルが今の状況やヒトハとの関係に頭を悩ます隙すら与えなかった。

「ありがとうございました! これ、一生の宝物にします!」

 ヒトハは自分のスマホを大事そうに両手で包んで、飛び跳ねんばかりの明るさで言った。クルーウェルはそれを疲れた目で見て「それはよかったな……」と疲れを吐き出す。
 彼女のスマホ、という通信端末には鏡で写したかのように精細な写真が保存されている。先ほど飽きるほど着替えさせられた時の写真だ。こうして技術の進歩というものを見せつけられると、自分の置かれた状況が現実であると思い知らされてしまう。これは夢ではないと分かってはいたが、やはり納得まではできていなかった。どうにもならない魔法相手に抵抗などできるはずもないのに。
 クルーウェルはカウンターでヒトハとサムが支払いのことを話している間、やることもなく数時間前のことを思い出していた。正確には、数時間前だったように感じる記憶だ。
 今日は試験の結果が出た後、廊下に張り出された上位者リストを見上げ、よく話しかけてくるクラスメイトから「さすがだな」と背を叩かれた。彼らはこうして自分には手が届かない相手を称賛しながら「さすが俺たちとは頭のつくりが違う」と平気で言ってのける。それはおおむね間違いではないかもしれないが、かといって“頭のつくりが違うから”だけでリストの左上にいるわけではない。薬草を数百種類頭に叩き込む努力をしたかと問えば、彼らは引き攣った顔で首を振ることだろう。
 しかしそれを敢えて言う気にもならないし、言ったところで意味もなく、適当に話を切り上げて寮に帰った。
 ──靴でも磨くか。
 こんな下らないことをいちいち考えることに時間を浪費するくらいなら、一分一秒でも身だしなみに時間をかけるほうが有意義だ。
 この記憶が最後であることが、クルーウェルの胸に暗く影を落とした。もっとましなタイミングがあっただろうに、よりによって。

「お待たせしました」
「あ、ああ……」

 サムとの話を終えたヒトハがひょっこりと目の前に現れて、クルーウェルはふいと目を反らした。気分の悪いことを思い出したせいか、抑え込んでいた感情が腹の底でざわざわと嫌に波打って仕方がない。かつてない疲労感と不安に襲われて、もういっぱいいっぱいだ。
 ヒトハが何かを言おうと口を開きかけているのを遮って、クルーウェルは店の扉に手をかけた。

「ディヴィスくん、あの」
 
 木製の階段を黙って下りるクルーウェルを、ヒトハは慌てて追いかけた。焦った声、焦った靴音。なにか悪いことをしてしまったのではないかと不安を滲ませて。
 そうして購買部の敷地を出ようとしたとき、「待って」と伸びてきた手を鬱陶しく払って、クルーウェルはそこでやっと我に返った。華奢な手を払っただけなのに、ぶつかった甲の感触がじんと後を引く。
 振り返った先には伸ばした腕を固まらせて不安げに瞳を揺らしている女が一人。
 “特別”だからなんだ。一体自分に何をしてくれたというんだ。
 苛立ちは腹の底から這いあがってくるかのように頭まで昇って、そして行き場を失った。出会ったときよりも幾分か小さく見える彼女の姿を見ていると、こんなことで苛立って子供っぽく振舞う自分が酷く情けなく思えた。

「……悪い、大人げなかった」

 肩と視線を落として素直に言葉にすると、ヒトハは弾かれた手を胸に抱き、小さく首を捻った。揺らいでいた瞳はいつの間にかクルーウェルを案じるような静かな眼差しに変わっている。

「どうして? ディヴィスくんはまだ十七歳なんでしょう? もっと怒ったり悲しんだり、わがまま言ってもいいんですよ」

 覗き込むように見上げる目は、ただただ真っすぐこちらを向いていた。これからどんな言葉を浴びせたとしても、もう揺らぎはしないだろう。そう思わせる強さがあった。
 ヒトハは黙り込むクルーウェルを見上げたまま、つい先ほど手を払われたことをすっかり忘れてしまったかのようにカラリと笑った。

「だって今日はそのために私がいるんですから。思ったことは何でも言ってください」

 その姿に目を引く美しさはなかったけれど。なぜだかそれが、どうしようもなく胸に沁みた。
 クルーウェルは眉間に力を入れたまま小さく吹き出した。

「お前が一番わがままを言っていたように見えたが、気のせいか?」
「……うん、まぁ、それもそうですね」

 ごめんなさい、と頬を染めて肩を萎ませる。笑って誤魔化そうとする姿はあまりにも素直で、彼女の表裏のない性格をよく表していた。
 それにほんの少しだけ救われたような気がしたのは、たぶん、気のせいだ。

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