One day for me
02
デイヴィス・クルーウェル。
ああ、あいつ。
「ビーンズデーで派手にやって上級生に目つけられてただろ」
はは、と乾いた笑いが響く。
人けのない廊下の隅、人通りが一日に数度あるかないかの階段で、放課後の他愛無い話をしている連中がいる。ナイトレイブンカレッジへの入学を許されながら、学生という有限の時間を食い潰し、他者への評価で己の自尊心を満たす者どもだ。
「天下のクルーウェル様だからな。逆らう奴はみんな躾けないと気がすまねぇんだろ」
「なんだっけ? “悪魔のような男”? 表向き優等生だからお咎めなしじゃん。いいなー俺もあれだけ頭良ければなー」
一段、二段、つま先のスチールが硬い階段で音を奏でるのを、耳障りな笑い声が掻き消す。滑らかな手摺りに革手袋を滑らせながら、クルーウェルは足を止めなかった。
ついに途切れた笑い声のその先で、生徒のひとりが悪意を練り固めたような声で囁く。
「ああいうのは一回痛い目見たほうがいいよな」
そう思うのなら。この“悪魔のような男”に痛い目を見せてやるために、努力のひとつでもしてみてはどうか。こうして無駄な時間を過ごしている間にも。
カツン、と靴音が響く。背に夕方の赤い光を受けながら、クルーウェルは階段から生徒たちを見下ろした。
「デイヴィス……」
「安心しろ。話の内容はなにも聞いていない」
気まずい視線を受けながら、ゆったりと階段を下りる。彼らに時間を使っていては、借りた魔法薬学の本を図書館へ返しに行く時間がなくなってしまう。入れ替えに借りるはずの本は書架の高い位置にあったはずで、これもまた取り出すのに手間がかかるのだ。
「負け犬の情けない遠吠えは聞こえたが、それだけだ」
見覚えのある生徒がいた気がするが、もう忘れてしまった。
すべて取るに足らないことだ。
***
「──デイヴィスくん、それで私、思うんですけど」
「なんだ」
「その服、なんかサイズ合ってないですよね」
うーん、と言いながら白い手袋を頬に当てる。ヒトハはクルーウェルの襟元から靴のつま先まで視線を上下させた。
クロウリーと別れて互いに少しばかりの情報交換を終えたあとのこと。彼女はなぜか服を気にし始めた。元々サイズの合わない服を着るのは好きではないが、とはいえ結局は今日一日だけのことだ。緩すぎて脱げてしまうわけでもないし、パンツは元々丈が短いおかげか裾が長すぎるということもない。
(コートは長いか……)
体を捻って後ろを見下ろすと、長いコートの後ろに付いている尾のような装飾が廊下に擦れかかっている。クルーウェルはコートを脱いで片手に抱えた。かなりのボリュームがあるから、このまま持ち歩くのは面倒かもしれない。
「やっぱりちょっと大きいですよね。腕周りとか……スラックスも余ってますね」
「よく分かったな」
「先生、いつも服装を気にしてたから。私の痩せた太ったも服を見て分かるみたいで。なんかそういうとこ、移っちゃったみたいですね」
それは移るようなものなのか。クルーウェルはヒトハに戸惑いの目を向けた。
ファッションに関して他人よりこだわりがあるのは自覚している。服が似合う似合わないも、サイズが合う合わないも判断するのは得意だ。だからといってそれを他人にひけらかすようなことはなかった。しかし他人である彼女がそれに多少なりとも影響されているということは、よほど彼女の前で語る機会が多かったか、あるいは、よほど長く一緒にいたかだろう。
ヒトハは「うーん」と唸っていたかと思うと、パン、と手を叩いた。
「そうだ! 着替えに行きましょう!」
悩ましげにしていた様子は跡形もなく、今はもう着替えのことを考えているのか目を輝かせている。
「こっち! ──あ」
ヒトハが声を弾ませ歩き出そうとした瞬間、授業が終了する鐘が校内に鳴り響いた。堰を切ったように生徒たちが出入り口から流れ出てくる。クルーウェルがつい先ほどまで着ていたナイトレイブンカレッジの制服を纏い、クラスメイトとふざけあう姿は、あまりにも日常的な光景だ。
「クルーウェル先生?」
教室から出てきた生徒のひとりがふと足を止め、ヒトハとクルーウェルを交互に見ると、周囲に聞こえる声で呟いた。同じくして隣にいた赤い髪色をした生徒と使い魔のような大きな猫を連れた生徒が足を止める。ヒトハは「デュースくん!」と素早く咎めるような声を上げたが、これだけ注目を集めてしまったらもう逃れることはできないだろう。
「え? なんか若返ってない!?」
「うわ、マジで」
赤い髪の生徒の声を皮切りにわらわらと周囲に生徒が集まってくる。
「ちょっと、みんな落ち着いて……!」
ヒトハは一歩前に踏み出した。クルーウェルを背にして、生徒たちを近づけまいとしている。
見下ろせるほど小さな体に守ってもらったところで状況が変わるとは思えない。けれど大勢の男子生徒を前に怯えひとつ見せず立ち向かっていく姿を見ていると、このまま任せておけばいいのだと思えてくる。
「俺の生徒か?」
「はい。先生の愛しい“仔犬ども”ですよ」
ヒトハは神経を尖らせたまま言った。
「っていうか、まさかまたあの魔法?」
「またかよ」
「ほんとドジ」
「ドジで悪かったですね!」
どっと笑い声が上がる。
ヒトハの警戒もものともせず、生徒たちは物珍しい動物を見るかのような不躾な目を向けてきた。「一番機嫌が悪いときのクルーウェル先生だ」と笑いながら言うのは、相手が教師で、自分たちに手を上げないという自信があるからだ。しかし今こうして黙っているのは、自分が教師だからではなく、目の前で毛を逆立てている彼女の顔を立てているからに他ならない。いつでも杖を取れるし、いつでも黙らせてやることはできる。
クルーウェルは後ろにきっちりとまとめ上げられた髪を見下ろした。いくら本人にやる気があるといっても、これ以上守られているというのも性に合わない。
杖はどこか。
先ほどコートを脱いだときにまとめて抱えたことを思い出す。教師らしく指揮棒の形に形状変化させた杖は、生徒たちのように胸ポケットに収まるサイズではない。
こっそりと杖を握ったタイミングで何かを察したのか、ヒトハは「これ、埒開かないですね」と呟いた。
「ディヴィスくん、近道をしましょう! エースくん、これ職員室まで持って行ってください!」
ヒトハはくるりと振り返りクルーウェルから毛皮のコートを取り上げると、それを近くにいた赤毛の生徒、エースに押し付けた。エースは両手いっぱいに抱えるほどのコートに埋もれながら「え!?」と戸惑いの声を上げる。
「あ、ちょっと、ヒトハさん!」
そして唖然としているクルーウェルの手を取り、生徒たちの隙間を狙って弾けるように駆け出した。
「こっち!」
ぐん、と腕を引かれる。決して力が強いわけではない。振り解くこともできたし、引き止めることもできたはずだ。それでもその走りについて行こうと踏み出したのは、彼女があまりにも──楽しそうだったからだ。
ヒトハはクルーウェルの手を取ったまま大勢の生徒の中を器用に駆け抜けた。知り合いと思しき生徒たちに「ごめんね!」と言いながら道を開けてもらい、制服のスカートをはためかせて軽やかに廊下を蹴る。
学園の廊下をこんな風に走ったことはなかった。あったかもしれないが、きっとこんな爽快なものではなかっただろう。最初は覚束なかった爪先も、次第に彼女の走りと息を揃える。
いくつかの角を曲がり、階段を下り、生徒の波を抜けて静かな場所に出たとき、ヒトハはようやく走りを緩めた。肩で大きく息をしながら「緊張した」と声を上げて笑う。
「先生たちに見つからなくてよかったですね」
「お前、普段からこんなことしてるのか……」
同じく上がった息を整えながら問うと、ヒトハは少し間を空けて照れながら言った。
「たまに」
先生たちには内緒ですよ、と人差し指を口元に立てる。いつもそうやっているかのような、慣れた仕草だった。
どうせ一日経てば記憶は消えてしまうのだから意味のない口止めだが、どうしてか不思議と悪い気はしなかった。
ナイトレイブンカレッジに入学を許され、伊達に二年も過ごしていたわけではない。十五年経っても校舎の構造は同じで、クルーウェルにとっては馴染みのある場所に変わりはなかった。こうしてヒトハが「近道」と言ったルートのこともよく知っている。
「……どうしたんですか?」
人けのない廊下の隅、人通りが一日に数度あるかないか分からない階段で、クルーウェルは静かに足を止めた。踊り場の窓から日中の強い光が射し込み、後ろ首をじりじりと焼いている。それはこちらを見上げる彼女に、大きな影を落としていた。
「いや……よくこんな場所を知っているな」
いつかの記憶が蘇って、しばらく言葉を失ってしまった。思えばあれからこの階段は通っていない。手摺りの色はこんなに風化していただろうか。階段も壁も、記憶の中ではもう少し鮮やかな色をしていたような気がする。
ヒトハは「ああ」と言うと、手摺りに両手をついて凭れた。
「私、学園中を掃除して回るから。ここ、生徒も先生もあまりいないし、穴場なんですよ。たまに悪い子がいますけどね。サボりとか」
足音が近づくと逃げていくんですけどね、と笑いながら階下を見下ろす。あの一番下の段に今も生徒がたむろしているのだろうか。そこにいるのは当然、品行方正な生徒ではないだろう。
「ここを女性ひとりで通るのはお勧めしない」
目の前にいる女ひとり、この学園の一年生でも組み敷くくらいは容易だ。クルーウェルはつい先ほど自分の手を握っていた手のひらを思い出した。男からしてみれば、随分と華奢で小さな手だった。
ヒトハはクルーウェルの忠告に二、三度まばたきをして、そのままじわりと滲むような笑みを浮かべる。
「デイヴィスくんも先生と同じことを言うんですね」
「同じこと?」
「ええ、『ここは躾のなっていない駄犬が群れていることが多い。近道だからといってひとりで通るなよ』って。大丈夫、最近はあまり通らないようにしてます。今日は特別」
そう言って、手摺りに凭れていた体を起こす。そして懐かしむような、どこか遠くを見ているような不思議な眼差しで独りごとのように呟いた。
「先生は昔から優しいんですね」
言ったあとすぐに、ヒトハは「あ、ごめんなさい」と首を窄めた。
「いや……」
クルーウェルはゆったりと階段を下りながら問いかけた。
「未来の俺は優しいのか」
ヒトハはその姿を絶えず穏やかに目で追いながら「ええ、とても」と答える。静かで、優しい声だった。
それは出会って数時間も経っていない他人に向けるものではない。長い時間を共にした者に向ける親愛、あるいは、
(……考えても無駄だ)
所詮、一日程度の仮初の命だ。知ったところで一体何になると言うのだろう。
クルーウェルは「そうか」とだけ答え、階段を踏んだ。つま先のスチールがカツン、と音を鳴らす。あの時と変わらない、冷たい音だった。
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