One day for me
01
その日の朝、クルーウェルは魔法の閉じ込められた瓶を手に大股で校舎の廊下を突き進んでいた。足元まで覆う毛皮のコートを器用に捌き、靴音は軽快なリズムを刻んでいる。
廊下にいる生徒たちはまばらで、しばらくしたら始まるホームルームに備えて教室に入り始めていた。
視界を妨げるものがないのは都合が良い。探している人物は生徒たちに紛れるとすっぽり埋もれてしまうし、なによりすばしっこい。古城のようなこの校舎の中を、昔から知り尽くしているかのように大移動してみせるのだ。
クルーウェルは二つの角を曲がり、階段を登り、そして一つ曲がった先でようやく目的の人物を見つけ、整った両眉を上げた。
「ナガツキ」
今まさに背を向けてモップを床に滑らせようとしていたヒトハは、反射的にクルーウェルのほうへ振り返った。大きな目をまばたいて、何か言いたそうに口を開こうとする。
しかしクルーウェルは思いのほか捜索に時間がかかったこともあり、急いでいた。手に持った瓶を小さく掲げながら、構わず足を進める。
「お前が以前かかった魔法が入手できたから一応見せておこうかと──」
思ってな。という言葉は最後まで紡がれることはなかった。
今までの勢いで床を踏みしめようとした足が、拒絶されるかのようにつるりと滑る。一瞬視界に捉えたヒトハは酷く慌てていて、モップを投げ出し、何かを叫びながら駆け出そうとしていた。
「そこ、掃除中だから滑ります!!!!」
そんな大事なことはもっと早く言え。
後日、クルーウェルはそうやって理不尽にヒトハを叱りつけることとなったのだった。
***
己の才能を疑ったことはない。審美眼は幼い頃から他人より遥かに秀でていた。物覚えもいい。作る魔法薬も毒薬も教師が舌を巻くほど完璧で、成績は常にトップを走る。人間関係の構築も入学当初より抜かりなく、自分を慕う人間も少なくはない。
そしてナイトレイブンカレッジという男子校にいながら異性との関係も、ほどほどに自分を満足させる程度には充実していた。なぜなら自分はそれなりに育ちが良く、身につけるものに妥協はなく、容姿にも恵まれ、成績は優秀であり、おおよそ女性が好むものすべてを獲得していたからである。
したがって、隣に立つ女は必ず自分に見合う女だった。センスが良く、華があり優秀で、一緒にいてそこそこ満足できる女。
つまり、自分に似た女だ。
「──あ、起きた」
そう、間違ってもこんなタイプの女ではない。
極東特有の顔つきをした女は大きな目でクルーウェルを覗き込むと、頭上を仰ぎ見た。
「学園長、どうしましょう……」
ナイトレイブンカレッジの学園長、クロウリーは鉤爪のような指先を顎に擦りながら「困ったことになりましたねぇ」と呟く。
ふと首筋の温かさと柔らかさに気がついて、クルーウェルは身を捩った。そういえば、どうして横たわっているのか分からない。つい先程まで部屋で靴を磨こうとしていたはずだったのだが。
女は「大丈夫ですか?」と心配そうに言いながら腕を背中に差し込み、体をゆっくりと持ち上げようとした。
そこでクルーウェルは、ようやく自分が彼女の腿に頭を預けていたことを知った。床に投げ出された指先が思い出したように感覚を取り戻し、状況がやっと頭に入ってくる。
ここは見覚えのあるナイトレイブンカレッジの廊下。古びた校舎の空気は馴染みがあるが、どこか違和感もある。そして埃っぽさも感じる匂いに混じる、香水の香り。
彼女には似合わない香りだ。クルーウェルは落ちた前髪の隙間から女の顔を覗いてふと思った。特別秀でた顔立ちではないが、素朴で優しげな目元をしている。
上半身を起こしてなんとか頭が回り始めた頃、クルーウェルは自分がやたら分厚いコートを着込んでいることに気がついて、袖を目の前にかざした。
たっぷりとゆとりのある毛皮と使い込まれた真っ赤な革手袋。どれも見覚えはないが上等な物であるのはすぐに分かった。よく考えてみると、このほのかな香りも自分から香るものではないだろうか。
「これは……どういうことだ?」
呆然として呟くと、女はクロウリーと顔を見合わせ、決心したように一度口を噤んだ。そして「落ち着いて聞いてくださいね」と強張った声で言う。
「あなたは今、過去の姿に戻る魔法にかかっています。あなたは本来なら、このナイトレイブンカレッジの“先生”なんですよ」
「……は?」
彼女──恐らく学園の清掃員は、突然そんな突拍子もないことを告げた。しかし自分をまっすぐ見据える目も、緊張を孕んだ震える声も、それが嘘ではないのだとはっきりと示している。
彼女は続けて、この魔法が何の魔法なのか、どうしてこうなってしまったのかを拙いながらもゆっくりと説明し始めた。
曰く、魔法を封じた瓶を持った“大人の自分”が足を滑らせて瓶を割ってしまったのだという。しかも最悪なことに、その魔法は対象物を一時的に過去の状態に戻すという珍しい魔法だった。生物においては記憶までもが過去に戻る、扱いによっては非人道的ともいえる魔法。いつかどこかの文献で見かけたことがあったが、その効果ゆえに記憶は朧げだった。なんせテストで出てくることはほとんどないのである。
それにしても、滑って魔法を誤発動させるとは三流コメディでも見ないような間抜けさだ。夢かと一瞬疑ったが、この光景は夢というにはあまりにも鮮明すぎた。それに、目の前で不安げに瞳を揺らす女が夢だというのなら、自分は本当にそんな悪趣味な夢を見てしまうものだろうか。
「まぁ、危険な魔法ですけどクルーウェル先生なら大丈夫でしょう。彼は昔から優秀な魔法士ですからね。魔法力も魔力も人並み以上にはありますし、一日程度で戻るはずですよ」
クロウリーが気楽そうに言うと、彼女は「ええ!?」と大袈裟な声を上げた。
「一日!? 私は一週間かかったのに……ずるい……」
「魔法士の実力差って、時に残酷なんですよねぇ」
「なんか馬鹿にされた気分……」
女の恨めしそうな目を笑って受け流しながら、クロウリーは構わず続けた。
「では、後のことはナガツキさんに任せましたよ」
「え!? これ結構難しい魔法だって聞いてますけど、本当に私で大丈夫なんですか!?」
ナガツキ、と呼ばれた女が慌てて言い返すと、クロウリーは仮面の裏から光る目をキッと吊り上げた。
「こら、弱音を吐かない! ナガツキさんがうら若き十七歳になっていた時、クルーウェル先生はそれはもう粉骨砕身してあなたのお世話をしていたんですよ! 後の報告書は大変興味深く、専門の先生方には大ウケでしたし……あなたがこうやってすんなり学園生活に戻れたのも、先生の努力あってのことなんですからね!」
「わ、私の報告書!? 初耳なんですが!」
「“感情の起伏が非常に激しく、教師をはじめ大人よりも生徒に対して警戒心を抱きやすい傾向がある”って書いてありました」
「イヤーッ!」
完全に忘れ去られている。
騒がしい二人を白けた顔で眺め、クルーウェルは自分の服装に目を落とした。スラックスもシャツも、ベストもゆとりがあってサイズが合っていないが、どれも自分好みだ。
まるで現実味のない話だが、これを選んだのは自分だという自信があった。つまり、これはやはり夢でも、二人に騙されている訳でもなんでもないということだ。
「とにかく、私は今から先生方を集めて今日の授業について会議をしなければなりませんので! 今日一日くれぐれも頼みましたよ! あー忙しい忙しい……」
クロウリーは愚図る女の言葉を遮り、それだけ言い残してさっさとその場を立ち去ってしまった。呼び止める声も聞こえないふりをして。
これが自分の知る学園長、ディア・クロウリーである。クルーウェルは「変わってないな」と思いながらその姿を見送って、ぶつぶつと文句を言う女に目を移した。
「もう、適当なんだから……」
女はそう言ってため息を吐くと、観念してクルーウェルに向き直った。
「えっと、初めましてになりますよね。私、ヒトハ・ナガツキといいます。この学園の清掃員で、クルーウェル先生の──」
そこまで言って「ううん」と唸る。上手い表現を探しているのか、うろうろと視線を彷徨わせ、最後には小さく頷いて片手を差し出した。
「先生の“仲のいいお友達”です!」
クルーウェルはその手を握り返すか一瞬躊躇った。“仲のいいお友達”だというヒトハは今まで縁のなかった類の人間で、まして女性となれば更に縁遠くなる。果たして大人の自分は本当に彼女と“仲のいいお友達”だったのか、あまりにも疑わしかったのだ。かといって、この孤立無援の状況で唯一自分の身の回りの世話をしてくれる人物を無碍に扱うわけにもいかない。
「デイヴィス・クルーウェルだ」
結局、クルーウェルは自分より一回りほど小さな手のひらを握り返した。自分と同じく手袋をしたその手は、あまりに華奢で心許ない。けれどしっかりと力の込められた指には、どこか力強さもあった。
ヒトハは満足したのか手を解くと「それで、先生は今何歳になっているんですか?」と興味津々に尋ねた。
「十七だ」
「十七歳! 私と同じですね! あっ、今の年齢じゃなくて、私もちょっと前に同じ魔法にかかっちゃって──」
彼女はそうして、聞いてもいないことをペラペラと話し始めた。
つい最近同じ魔法にかかったこと、覚えてはいないけれど、とても楽しかったらしいということ。そしてそのとき、大人の自分がよく面倒を見てくれたこと。
しかし彼女の口から発せられるデイヴィス・クルーウェルという男の話は、今の自分にはどうしてもしっくりこなかった。他人の親切な話を聞かされているようで、それほどの興味も湧かない。だからヒトハが散らかった掃除道具をまとめながら何度目かの「それで先生が」を口にしたとき、クルーウェルはつい「俺は先生ではない」と零してしまった。
すると彼女はハッとしてバケツの取手を持とうとした手を下ろし、叱られた子供のように肩を丸めた。
「そうですよね、ごめんなさい。私ったらつい。あなたは“先生”ではないのに……」
そして落ち着きなく両手を腹の前で揉むと「では、なんと呼んだらいいでしょうか?」とそっと顔色をうかがう。
「デイヴィスとでも、なんとでも呼べばいい」
クルーウェルが投げやりに言うと、ヒトハは不安げにしていた目をぱちぱちと瞬いた。血色の引いた頬にじわりと色が戻ってくる。
「それでは、『デイヴィスくん』と呼んでも?」
「好きにしろ」
ヒトハは許しを得ると、先ほどまでの気落ちっぷりが嘘だったかのように口元を緩めた。
名前なんて大した物ではない。自分を囲う者は誰もが当たり前に口にする。時に気安く、時に畏怖を込め、時に甘く。
「デイヴィスくん……うん、良い名前です」
ヒトハはそのどれでもない声で馴染ませるように名前を口にすると、勝手に納得して、勝手にウンウンと頷いた。
「それでヒトハ、これからどうするつもりだ?」
クルーウェルは「まさか俺に掃除をさせるんじゃないだろうな?」と続けようとして、ふと気がついた。
さっきまで嬉々として名前を呼んでいた彼女が困ったように眉尻を下げ、ほんのりと耳を赤くしている。その姿は到底年上の女には見えず、そして“仲のいい友達”にも見えなかった。
(一体どういう関係だ……?)
果たしてその答えをこの一日で見つけることができるのだろうか。
当然、恐怖も不安も無いわけではない。しかしそれよりも、疑問を解消するには一日では足りないかもしれない、という変な焦りの方が大きかった。未来の自分のことである。仕事はそれなりに優秀な魔法士が就く職業だから不満もなく受け入れるとして、その他もどうなっているのか興味があった。
せめて妙なことになっていなければいいのだが。
目の前でこれからのことに頭を悩ませるヒトハを見て、クルーウェルの頭には一抹の不安がよぎるのだった。
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