清掃員さんと先生のサマーホリデーの話
13 魔法
「リオさんのユニーク魔法があれば、あの子を捕まえることができます」
リオは目の前に差し出された手を、食い入るように見つめた。
確かに、自分のユニーク魔法を使えば不可能ではないだろう。あの怒り狂うルクを深い眠りにつかせ、傷つけることなく捕らえることができる。でもそれは、成功したらの話だ。
空を飛ぶのは怖い。まだ上手く魔法も使えない。ユニーク魔法は、あれから一度だって成功していない。
彼女は知っているはずだ。なのにそれを「一緒にやろう」と言う。
「リオ、乗らなくてもいいぞ。あいつはここで仕留める。今ごろ会場の魔法士は大騒ぎしているはずだ。あれだけの数がいれば無理ではない」
クルーウェルがヒトハの肩を引きながら間に入る。彼女はそれにムッとした。
「でも、あの子だって何も悪くないですよ」
「そんなことを言ってる場合ではないだろう。大体、お前のわがままにリオを巻き込むんじゃない!」
クルーウェルは強く言った。けれど彼女も負けてはいなかった。
「私は、お願いをしているんです。飛びたくなかったら、飛ばなくたっていいんです」
ピイィ──! と甲高い声が迫り、鉤爪が結界を引っ搔いた。ルクは結界に傷痕を残しながら、もう一度高く空に舞い上がる。結界の外では暴風が吹き荒れ、粉塵を巻き上げた。
それでもなお、自分に向けられた手は揺らがない。
「私は飛べます。あの子の傍に、リオさんを運べます」
リオはヒトハの声を聞きながら、差し出されている手をじっと見た。自分よりも遥かに小さい手だ。傷痕が痛々しく残った手。そして、あの冬の日に怯える体を包んでくれた手であり、ここへ来る勇気をくれた手でもある。
この手を取れば、再び勇気を貰えるだろうか。
森で妖精たちを前にしたとき、自分には魔法を使う勇気がなかった。傷つけてしまうと思って、使うことができなかった。けれど結果的に、魔法を使わなかったから傷つけることになってしまった。
(あのとき、杖を振っていれば……)
魔法が使えたかもしれないのだ。それに挑戦する勇気すら持てなかった。あの不甲斐なさ。あの後悔。そしてあの巣の惨状を見たとき、自分はどんな感情を抱いたのか──そのとき、リオは鮮明に思い出した。
「飛びます……」
顔を上げ、ふたりの顔を真っ直ぐに見つめる。
「飛びます。飛びたいです。ヒトハさん、僕と一緒に飛んでくれますか」
彼女の手を握る。握り返す指の強さが、その答えだった。
「もちろん! 一緒にあの子を助けに行きましょう!」
「盛り上がっているところ悪いが、俺はお前たちの飼い主として行かせるわけにはいかないからな。大体、教授に合わせる顔がない」
ずいと間に入って、クルーウェルはふたりを睨んだ。
「まぁまぁ先生、現実的に考えてみてくださいよ」
パッとリオの手を離し、ヒトハはどうどうとクルーウェルの肩を叩いた。彼は胡散臭そうな顔をしているが、これは決して悪い話ではない。
ヒトハは「見てください」と結界に入った薄いひびを指差した。
「私たちはルクに狙われていて、先生の結界はもう持ちません。張り直してもあちらのほうがスタミナもパワーもあるので、何度だって繰り返すはずです。他の魔法士たちの救援も望めません。上から突かれたら堪りませんからね。第一、事情も分からないのにリスクを承知でこんなところへ来ますか?」
ヒトハは考えた。ここに見知った人でもいない限り、誰も動くことはなかろうと。事情も分からない人間が怪我を承知で助けに来てくれるなんて、都合の良い話はない。唯一ホストは顔を知られているだろうが、こうして後ろめたいことをしている手前、行先を知る者は少ないだろうし、いたとしても来るはずがない。
よくて通報だが、しかし街からそれなりに距離のあるこの場所に、一体どれくらいで助けが来るだろうか。
となると、「こういう事情だから助けてくれ」と言いに行く人がいる。結界を飛び出して会場へ走る人だ。しかしそれも簡単ではない。上空から摘ままれて空にでも攫われたら、確実に死ぬからだ。
「それなら私がルクを引きつけている間に、先生が応援を呼びに会場へ走ったほうが効率がいいです。これはその間のつなぎで、もしかしたらできるかもしれない程度の賭けです」
走るのはヒトハでもリオでもあってはならない。万が一のことがあったときに、単体で対処できる人でなければならない。それから、大勢の人を動かす説得力のある人でなければならないのだ。
「……確かに、一理ある」
クルーウェルは不満そうな顔をしながら言った。
「言ってもどうせやめないな?」
ヒトハは頷いた。散々御託を並べたところで、結局は飛ぶのだ。たった今、リオと決めた。
三度目の攻撃は、ついに結界に穴をあけた。突き刺さった鉤爪が不穏な音を立てながら結界を抉る。次にルクが戻って来たとき、結界は粉々に砕け散るだろう。
「お前の魔力ならせいぜい五分だろう。リオのユニーク魔法が成功しようがしまいが、五分耐えろ。できるか」
ルクは再び高く飛び、大きく旋回する。
「お任せください!」
飛行術は得意中の得意だ。長くは飛べないが、テクニックと度胸はある。何と言ったって、強豪と名高いナイトレイブンカレッジのマジフト部を指導している、あのバルガスのお墨付きだ。
ヒトハはさっそく靴を脱ぎ捨てた。高かった踵を地面に付け、ごつごつとした石の床を踏みしめる。
結局のところ、自分にはこれが一番似合っている。どれだけ飾り立てたって自分は自分だし、背伸びしたって苦しいし、合わない靴を履いては怪我をする。自分は彼らのようにはなれない。
けれど、彼らだってヒトハ・ナガツキのようにはなれないはずだ。今このとき、ドレスを裂いて靴を脱ぎ、ボロの箒に跨って巨大な鳥に挑もうとする無謀な魔法士は、この会場にはいやしないのだ。
ヒトハは箒に跨った。「乗って!」と促すと、リオは箒の柄を恐々と跨いだ。
「私の腰をしっかり抱いて! 振り落とされますよ!」
「振り……?」
リオは困惑しながらヒトハの腰に腕を回した。
振り返りながら、ヒトハはにやりと笑った。
「これからリオさんが乗るのはハイスピードで急旋回、急上昇、急降下するスリリングなアトラクションですよ。杖を飛ばされないように、十分にご注意くださいね」
「え」
リオが助けを求めるようにクルーウェルを見る。彼は憐れみの目をしていた。
「舌だけは噛まないようにな……」
「え?」
「では、出発!」
「あっ────!?」
魔力を込め、地面を蹴る。その瞬間、リオの体はぐんと後ろに引っ張られた。それに体を持っていかれないように、ヒトハは箒を強く握る。あっという間に空高く飛んだ箒を操りながら、ヒトハは片手に握りしめた杖を前に突き出した。
「こっち!」
地面に急降下してくるルクとすれ違う。その直前、光が弾けた。
ヒトハとリオが飛び立った直後、クルーウェルは迫るルクを前に杖を構えた。あと一撃、くらえば守りは破られる。いくら飛んで気を反らしてやろうとも、所詮相手は獣だ。誘いに乗らなければ意味がない。
万が一に備えて結界を張り直し、それから会場に走る。
こちらの守るべきものは我が身と犯罪者どもと、哀れな生き物たち。守ってやる義理もないが、しかし何のために彼らが飛び立ったのかを考えれば、捨てられるものなどなかった。
ルクの前で光が弾ける。こちらに鉤爪を突き立てようとしていた体を捻り、開いた翼は大きく弧を描きながら地面を撫でた。それが空を舞う鳥の仕草であったとしても、この巨体。壊れかけの結界は粉々に砕け、新しく張った結界ですらも一部を持っていった。体が宙に浮くかのような暴風を耐え抜き、クルーウェルは走った。
そもそも今日のドレスコードはブラックタイ。フォーマルなタキシードである。エナメルのストレートチップは走るにはあまりにも不十分な装備だ。こんな服装で走らされるなんて、つくづく馬鹿げている。
遠くに空を縦横無尽に飛ぶ箒と、それを追いかける巨大な鳥が見えた。箒では当然速さは劣るが、小さな体で翻弄する小回りのよさがあり、現状は圧倒的に有利だ。
後ろのリオが無事だったらいいのだが。確か「箒に乗る練習を頑張ってる」とか言っていたような……。
「ん?」
クルーウェルはそこで気がついた。やたら足音が多いような気がする。自分ひとりが走っていて、こんなにするものか。それと、獣のような荒い息遣いが追いかけてきているような。
「なっ……」
クルーウェルは振り返って後悔した。
先ほどの衝撃で壊れた檻から獣が解き放たれている。大蛇、狼、もしかして、もしかしなくとも、ユニコーン。どれもこれもその辺に放つには危険すぎる生き物たちだった。
会場の灯りが近づいてきたとき、空を舞うルクと箒を見上げる魔法士たちが見えた。騒然としたパーティー会場の入り口で、ある人はスマホを手にし、ある人はぽっかりと口を開いている。
「お前たち!」
助けを呼ぶ役割を担って走ってきた。彼らの手を借りてルクを鎮める。そのために走ったはずだ。
「手伝え!!」
魔法士たちはぎょっとしてこちらを見た。もはや、なりふり構ってはいられなかった。
(──重いっ!)
ヒトハは箒の柄を力いっぱい握り、全体重をかけて旋回した。後ろにリオが乗っているせいで箒が振り回される。箒はミシミシと嫌な音を立てながら軋んだ。予想はしていたが、それ以上だ。
ルクは狙い通りこちらへ飛んできた。速いが、しかし動きが大振りなおかげで、ちょこまかと動く箒を捕らえるには至らない。接近しつつ飛び続けることは不可能ではなかった。
問題は、後ろにいるリオがユニーク魔法を使えるかどうかである。しっかりと腰に回された腕の強さを見るに、それはまだ難しいかもしれなかった。
クルーウェルは五分と言った。これでは威勢よく出て行ったくせに間に合わない。せめて安定した飛行ができればいいのだが、先ほどから急旋回を控えるために下降と上昇を繰り返し、飛行が安定した瞬間はなかった。
ルクは助けたい。けれど自分たちの命を失うわけにはいかない。場合によっては撤退を──と、ヒトハが鉤爪の隙間を搔い潜ったときのことだった。
会場の近くをクルーウェルが走っている。
「あれ……?」
その後ろを追いかけるものは、何だ。
「リオさん、ごめんなさい!」
ヒトハは後ろでバテているリオに呼びかけた。彼は俯きかけていた顔を起こし「はい!?」と震えた声で気丈に答える。
ヒトハはその続きを言うことを、少しだけ躊躇った。しかしルクの追尾は容赦なく、ヒトハの魔力も刻一刻とすり減っている。考える時間などない。
「ユニーク魔法、成功させてほしいです! あと三分くらいで!」
「──はい!?」
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